梅崎 作太郎(うめさき さくたろう 1916年[1] - 1944年12月)は、日本の元アマチュア野球選手。秋田県出身。ポジションは投手

来歴・人物 編集

1916年、秋田市に生まれた[1]。秋田中学(現・秋田県立秋田高等学校)在学中は、甲子園に4回出場。夏のみ[2]。4回(1931年1934年まで4年連続)出場し、最後の出場となった1934年夏の大会ではベスト4に入る健闘を見せた(準決勝で、藤村富美男らを擁した優勝候補筆頭の呉港中学〈現・呉港高等学校〉と当たり0-9で大敗)。梅崎、赤根谷飛雄太郎(梅崎のライバルで、秋田商出身。後に急映・東急でプレー)、渡辺誠太郎土崎商出身。後に阪神等でプレー)の三人を称して、「戦前秋田の三大投手」と呼ばれた。

1935年に秋田中を卒業後は、東京製鐵野球部でもプレーした。その後応召され、1944年12月(正確な死没日は不明)にニューギニア島戦死した[1]。享年28。

東京ドーム内の野球殿堂博物館にある戦没野球人モニュメントに、彼の名が刻まれている[3]。また大仙市にある「かみおか嶽雄館」[1]の「野球ミュージアム」では、「戦前秋田の三大投手」の赤根谷と渡辺、佐々木吉郎(元大洋完全試合達成者。)らと共に梅崎の写真も展示されている。

脚注 編集

  1. ^ a b c 秋田魁新報コラム・北斗星(2012年8月16日記事)
  2. ^ 秋田県勢の選抜高等学校野球大会出場は、1960年春の秋田商まで無かった
  3. ^ 戦没野球人モニュメント-モニュメントに刻まれた戦没野球人一覧(野球殿堂博物館のページ)

参考文献 編集

  • 『全国高等学校野球選手権大会50年史』- 朝日新聞社1968年。戦場に散った甲子園の花形選手55人が写真付きで掲載されており、梅崎もその中に含まれている。