梅川昭美

日本の殺人犯(1948−1979)

梅川 昭美(うめかわ あきよし、1948年3月1日 - 1979年1月28日)は、日本シリアルキラー大竹市強盗殺人事件三菱銀行人質事件の犯人。

梅川 昭美
生誕 1948年3月1日
日本の旗 日本広島県大竹市
死没 (1979-01-28) 1979年1月28日(30歳没)
日本の旗 日本大阪府大阪市住吉区(三菱銀行北畠支店)
死因 特殊部隊による射殺
出身校 大竹市立小方中学校
職業 アルバイト
罪名 殺人罪強盗殺人罪強盗罪逮捕・監禁罪など
有罪判決 被疑者死亡により不起訴
殺人
被害者数 5人
犯行期間
1963年12月16日大竹市強盗殺人事件)–1979年1月26日三菱銀行人質事件
日本の旗 日本
逮捕日
1979年1月28日(逮捕後に死亡)

来歴 編集

1948年昭和23年)3月1日広島県佐伯郡小方村(現・大竹市)で父親の勤務する三菱レイヨンの社宅で生まれる。父親46歳、母親42歳の高齢出産であった。姉がいたが夭折している。1954年(昭和29年)4月、小方町立小方小学校(現・大竹市立小方小学校)に入学。8歳の時、父親が椎間板ヘルニアリューマチの悪化で働けなくなり、10歳の時、両親が離婚。梅川は父親の故郷の香川県大川郡引田町(現・東かがわ市)に引き取られる。その後、父との生活を嫌い、大竹市で暮らす母の元に戻る。母は独身寮の炊事婦で生計を立てており、生活は極貧だったが、母は梅川の欲しがるものを何でも買い与え、梅川は甘やかされて育った。

1960年(昭和35年)4月、大竹市立小方中学校に入学。梅川は広島県立宮島工業高等学校を受験するが失敗。1963年(昭和38年)4月、私立広島工業大学附属工業高校(現・広島工業大学高等学校)に入学。在学したのは1学期だけで、同年10月、父の暮らす引田町に戻る。だが、すぐ大竹市に戻り、同年12月、大竹市強盗殺人事件を起こす。

1964年(昭和39年)1月21日岡山中等少年院に入院したが、わずか4ヵ月後に脱走し、同年5月14日山口県の特別少年院「新光学院」に送られた後、1965年(昭和40年)6月7日に仮退院を許可される。少年院を退院後、梅川は引田町に住む両親の元に引き取られたが、1966年(昭和41年)1月、高松市保護観察所に無断で家出し、行方不明となる。

1年後の1967年(昭和42年)2月、梅川が大阪府大阪市西成区玉出のアパートで暮らしていることが分かり、同地区担当の保護司が梅川の元を訪ねる。梅川はバーテンダーや飲食店のツケの取り立て等をして生計を立てており、勤務態度は真面目で、客や同僚とトラブルを起こすこともなかったという。大阪保護観察所の指導を受けることになった梅川は、1968年(昭和43年)3月1日、満20歳で保護観察を打ち切られ、晴れて社会復帰を果たす。

1973年(昭和48年)7月26日付で大阪府警察住吉署から猟銃の所持許可を取得。銃刀法5条の許可基準の欠格事項に該当するとみられたが、少年法60条により許可。合法的に入手した猟銃で1979年(昭和54年)1月26日三菱銀行人質事件を起こし、銀行員警察官ら4人を殺害し籠城。男子行員の耳を削ぎ、女子行員を全裸にさせる等の蛮行を重ね、1月28日、突入した特殊部隊狙撃され死亡した。満30歳没。

参考文献 編集

  • 麻生幾 『封印されていた文書(ドシエ)』 新潮文庫、2002年

関連項目 編集

外部リンク 編集