植岡 寛雄(うえおか ひろお、明治4年6月23日1871年8月9日[1] - 1927年昭和2年)2月16日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将位階勲等正五位勲三等[3]

植岡 寛雄
生誕 1871年8月9日明治4年6月23日
日本の旗 伊予国松山(現・愛媛県松山市
死没 1927年昭和2年)2月16日
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1893年 - 1920年
最終階級 陸軍少将
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経歴・人物 編集

愛媛県出身。旧士族[3]1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、歩兵少尉に任官し、5月には兵科輜重兵に転科[4]

日露戦争には第10師団隷下の輜重第10大隊中隊長として出征[3]。同師団は遼陽会戦沙河会戦奉天会戦に参加。戦中の1904年(明治37年)11月、少佐に昇進。

1909年(明治42年)11月に輜重第11大隊長。翌年11月に中佐に進級[3]

1914年(大正3年)8月に輜重第7大隊長となり、1916年(大正5年)5月、陸軍輜重兵大佐に任官[3]。翌年よりシベリア出兵に参加。

1918年(大正7年)7月に輜重第15大隊長。

1920年(大正9年)8月に陸軍少将に昇進し、同日待命となり[4]、同年12月に予備役編入となった[2]

家族 編集

  • 実父・加茂寬正 ‐ 元松山藩士。維新後、愛媛県職員。寛雄はその二男。[5]
  • 養父・植岡経徳 ‐ 寛雄8歳で養子となり、22歳で家督相続
  • 実弟・加茂正雄 ‐ 寛正の三男
  • 妻・ツネ‐愛媛県士族・明星延典の姉

エピソード 編集

  • 私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)の校長に就任した秋山好古と植岡が語っていたとき、植岡が同郷の親しい仲とて無遠慮に「閣下はよく禿げましたね。どうしてそんなに禿げたのですか。」と尋ねた。その際秋山は怒ることもなく「これか。俺が今の地位(校長職)を得るまでの苦労は並大抵のことではなかった。その間に俺は何千回、何万回となく頭を下げてきたから、とうとうこのように禿げてしまった。」と答えている[6]

栄典 編集

位階
勲章等

脚注 編集

  1. ^ 『人事興信録 5版』(人事興信所、1918年)う24頁
  2. ^ a b 『日本陸軍将官辞典』113頁。
  3. ^ a b c d e f 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 大正9年9月1日調、46頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2020年11月28日閲覧。
  4. ^ a b The page 31.(ヒト-陸士4期)”. admiral31.dip.jp. 2020年11月28日閲覧。
  5. ^ 『人事興信録 5版』1918「植岡寛雄」
  6. ^ 秋山好古 - 剣光余影(逸話集)”. www.sakanouenokumo.com. 2020年11月28日閲覧。
  7. ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1894年5月12日。

参考文献 編集

  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。