楊 慶(よう けい、生没年不詳)は、皇族。郇王。

経歴 編集

河間王楊弘と元妃のあいだの子として生まれた[1]大業6年(610年)、郇王に封じられた[2]。楊慶は追従を得意とし、時宜に応じて態度を変えることができた。ときに煬帝は肉親を猜疑して、滕王楊綸らをはじめとしてみな爵位を奪われて追放されていたが、楊慶はひとり官爵を保っていた。諸官を歴任して滎陽郡太守となり、治績を挙げた[1]。通守の張須陀とともに翟譲を討ち、張須陀が翟譲を破った[3]

李密が洛口倉に拠ると、滎陽郡の諸県の多くは李密に応じたが、楊慶は兵を率いて防備を固めた。李密がたびたび滎陽を攻撃してきたが、攻め落とすことができなかった。1年あまりして、城中の食糧が尽き、兵勢は逼迫してきた。李密が楊慶に信書を送って説得すると、楊慶は李密に降伏し、郭氏に改姓した。李密が王世充に敗れると、東都に復帰して、楊氏に姓をもどした。越王楊侗はかれを責めなかった。楊侗が称制すると、楊慶は宗正卿に任じられた。

王世充が簒奪をたくらむと、楊慶は筆頭で即位を勧進した。王世充が帝を称すると、郇国公に爵位を降格され、再び郭氏を称した[1]。王世充は兄の娘を楊慶にめあわせ、滎州刺史を代行させた[4]。王世充が敗れそうになると、楊慶はその妻とともにに帰順しようとした。楊慶の妻の王氏は「私がもし長安におともすれば、公家の1婢となるのみです。何の用が私にありましょうか。願わくば私を東都に送り返してください」といった。楊慶は許さなかった。王氏は沐浴して化粧をほどこし、毒薬を仰いで死んだ。楊慶は唐に帰順して、宜州刺史・郇国公となり、楊氏に姓をもどした。楊慶の母の元太妃は、年老いて両目を失明していたが、王世充は楊慶がそむいたと知って元氏を斬った[1]

脚注 編集

  1. ^ a b c d 隋書』楊慶伝および『北史』楊慶伝
  2. ^ 『隋書』煬帝紀上および『北史』隋本紀下
  3. ^ 『旧唐書』李密伝
  4. ^ 『隋書』楊慶伝および『北史』楊慶伝による。『旧唐書』列女伝および『新唐書』列女伝では管州刺史に任じられたとする。

伝記資料 編集