楊 摎(よう きゅう、生没年不詳)は、中国戦国時代末期から始皇帝在位期の将軍

経歴 編集

紀元前256年、楊摎は将軍としてを攻撃し、陽城・負黍を取り、首級4万を挙げた[1]。さらにを攻撃して20県あまりを奪い、斬首した者および捕虜は9万に達した[1]。ときに西周文公は諸侯の軍を結集し、伊闕を出て秦を攻撃して、陽城との連絡路を遮断しようとした。楊摎が昭襄王の命を受けて西周を攻撃し、これを降伏させた[2]

紀元前254年を討ち、呉城を奪った[1]

紀元前219年、東方巡幸する始皇帝が瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)において瑯琊台ならびに瑯琊台刻石を設置した際、随行して瑯琊台刻石に名を列せられた人物らの中に昭襄王期に将軍として活躍した楊摎と同一人物化は定かではないが五大夫・楊摎の名が見られる[3]

登場作品 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c 史記』秦本紀
  2. ^ 『史記』周本紀
  3. ^ 『史記』秦始皇本紀 始皇28年の条