楊 文徳(よう ぶんとく、生年不詳 - 454年)は、中国南北朝時代仇池氐首長。武都王。

経歴 編集

楊玄の末子[1]として生まれた。楊保宗の弟にあたる[2]

443年3月、文徳は自ら使持節・都督秦河涼三州諸軍事・征西大将軍・秦河涼三州牧・平羌校尉・仇池公を号した[3]。4月、北魏の仇池を包囲し、南朝宋に救援を求めた[4]。文徳は古弼に敗れて仇池の包囲を解き、漢川に撤退した[5]

7月、文徳は南朝宋の文帝により持節・散騎常侍・都督北秦雍二州諸軍事・征西大将軍・平羌校尉・北秦州刺史に任じられ、武都王に封じられた[6]

11月、文徳は南朝宋の将軍の姜道盛とともに2万人の兵を率いて北魏の濁水に進攻した。別に南朝宋の将軍の青陽顕伯が派遣されて斧山を守り、北魏の仇池鎮将の皮豹子をはばんだ。しかし姜道盛は濁水の城兵に射殺され、皮豹子に斧山を攻撃されて青陽顕伯は斬られ、その部下は捕らえられた。皮豹子がさらに河間公拓跋斉と濁水で合流すると、宋軍は北魏軍の強盛を恐れて夜間に逃走し、文徳は漢中に逃亡した[7]

文徳は葭蘆城を守り、武都郡陰平郡の5部の氐民を招き誘った。448年、皮豹子が葭蘆城を攻撃すると、文徳は城を棄てて南に逃れ、かれの妻子や仲間たちは捕らえられた。南朝宋の白水郡太守の郎啓玄[8]が兵を率いて文徳を救援しようとしたが、皮豹子の逆撃を受けて敗れた。郎啓玄と文徳は漢中に逃げ帰った[9]

ときに南朝宋の武陵王劉駿雍州刺史として襄陽に駐屯していたが、文徳を捕らえて建康に連行した。文徳は葭蘆城失陥の責任を問われて免官され、爵位と封土を削られた[10]

450年、宋軍が北伐すると、文徳は輔国将軍とされ、軍を率いて漢中から西に入り、汧・隴の地を揺さぶった。文徳の同族の楊高が陰平や平武の氐族たちを率いて唐魯橋に拠り、文徳を阻んだ。文徳は水陸からこれを攻めて、楊高を撃破した。楊高が羌のもとに逃走したので、文徳はこれを追って黎仰嶺に達した。楊高は単身で羌の仇阿弱の家に逃げ込んだが、追いつかれて斬られた。文徳は陰平・平武を平定した。さらに文徳は啖提氐を攻撃したが、勝利できなかった。南朝宋の梁州刺史の劉秀之が文徳を捕らえて荊州に送り、文徳の従祖兄の楊頭を葭蘆城に駐屯させた[10]

453年1月、南朝宋の将軍の蕭道成・王虬・馬光らが漢中に入ると、別に文徳や楊頭らが氐族や羌族を率いて武都を包囲した。北魏の皮豹子は武都を救援しようと、兵を分けて女磊にいたったが、宋軍が進軍を停めたと聞いて、祁山に人を派遣して馬を確保してから救援に赴くこととした。文徳は皮豹子が宋軍の補給線を断とうとしていると見て、軍を返して覆津に入った[7]

454年、南朝宋の荊州刺史の南郡王劉義宣が反乱を起こすと、文徳は同調しなかったため殺された。孝武帝により征虜将軍・秦州刺史の位を追贈された[10]

脚注 編集

  1. ^ 魏書』古弼伝に「楊玄の小子」と見える。
  2. ^ 『魏書』太武帝紀、同書氐伝および『宋書』氐胡伝に「保宗弟」と見える。
  3. ^ 『宋書』氐胡伝による。「征西将軍・秦河梁三州牧・仇池公」を自号したことは『魏書』氐伝にも見える。
  4. ^ 『魏書』太武帝紀太平真君4年夏4月の条
  5. ^ 『魏書』古弼伝
  6. ^ 『宋書』氐胡伝による。征西将軍・北秦州刺史に任じられ、武都王に封じられたことは、同書文帝紀元嘉20年秋7月癸丑の条にも見える。
  7. ^ a b 『魏書』皮豹子伝
  8. ^ 『魏書』太武帝紀では郎啓玄、同書皮豹子伝では郭啓玄とする。『宋書』良吏伝には晋寿郡太守郭啓玄が見える。
  9. ^ 『魏書』太武帝紀太平真君9年春正月の条
  10. ^ a b c 『宋書』氐胡伝