楊肇

中国三国時代から西晋にかけての政治家、武将

楊 肇(よう ちょう、? - 275年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家、武将。季初あるいは秀初[1]。司隷滎陽郡宛陵県の人。父は魏の中領軍・楊曁。息子に楊潭(道元)、楊歆(公嗣)と娘が一人(潘岳妻)、孫に楊彧(長文)、楊経(仲武)。

生涯 編集

『山公啓事』(山濤が人材を選抜するとき各人に題目を付けたもの)の中で、楊肇は才能を有する人物とされ、草書、隷書を得意とした(『書断』での評価は双方とも「能品」)。また潘芘と友人であり、彼の息子の潘岳が12歳の時(258年)に才能を認め、自身の娘との婚姻を約した[2]

魏の時代、軹県令、廷尉の属官、野王の典農中郎将、司馬昭の相国府の参軍を務め、東武伯に封じられた。晋の時代には、近衛兵を統率し、東莞太守の後に荊州刺史、折衝將軍に任じられた[3]

泰始八年(272年)9月、晋に投降した歩闡を救援すべく、羊祜は江陵に、徐胤は建平郡に、楊肇は西陵に侵攻した。一方で呉の陸抗は歩闡の籠る西陵城を包囲したまま、楊肇軍と対峙した。

この時、呉から将軍・朱喬と営都督・兪賛が投降するという事件が起こり、特に兪賛は陸抗軍の内情を熟知しており、彼から異民族部隊の練度が低いという情報を得た。翌日、楊肇はその部隊の持ち場を攻撃したが、陸抗が前夜に部隊を入れ替えており、また他の部隊も増援に回されたため矢と投石が雨のように降り、楊肇軍に死者が多数出た[4]

4カ月が経った12月、楊肇は陸抗軍をついに敗れず、夜中に撤退を開始した。陸抗は歩闡に備え追撃を十分に出せなかったが、太鼓を鳴らし追撃の構えを見せたところ、楊肇軍は恐慌に陥って鎧を脱ぎ捨てて逃走した。そうして楊肇軍は、陸抗が放った軽装兵によって大敗北を喫し、羊祜ら他の晋軍も撤退していった(潘岳は『楊荊州誄』の中で兵糧が続かなかったため敗北に至ったと弁護している。『晋書』羊祜伝でも「険阻な地に派遣され兵站が遠くなった」と有司が指摘している。)。

西陵の敗戦により罷免され庶人となり(羊祜は降格)、咸寧元年(275年)4月乙丑[5]に死去した。諡に戴侯[3]

脚注 編集

  1. ^ 『荊州刺史東武戴侯楊使君碑』などでは季初、『三國志集解』などでは秀初
  2. ^ 『文選』潘岳『楊荊州誄』
  3. ^ a b 『文選』潘岳『楊荊州誄』および『荊州刺史東武戴侯楊使君碑』
  4. ^ 『三國志』陸抗伝
  5. ^ この年4月に乙丑の日は存在しない。