楊 行密(よう こうみつ)は、五代十国時代の事実上の建国者。末の902年、楊行密は唐朝から「王」に封ぜられた。世を去った時には唐朝は依然として存在しており、唐の臣としてその正朔を奉じていたが、事実上の独立王国を建設していたため、単に唐の封国君主と見なすべきではない。

太祖 楊行密
初代王
王朝
在位期間 天復2年 - 天祐2年11月26日
902年 - 905年12月24日
都城 江都
姓・諱 楊行愍→楊行密
化源
諡号 武忠王(昭宗による)
孝武王(高祖による)
武皇帝(睿帝による)
廟号 太祖
生年 大中6年(852年
没年 天祐2年11月26日
905年12月24日
楊怤
后妃 朱夫人
陵墓 興陵

生涯 編集

楊行密は廬州合肥県(現在の安徽省合肥市長豊県)の人である。もとは廬州の牙将であった。

中和3年(883年)、楊行密は廬州刺史に任命され、「淮南節度使」の高駢の下についた。

この高駢は、愚昧で方士呂用之を重用するようになり、次第に呂用之が権力を握って、独断専行が目立つようになった。

淮南の将の畢師鐸はこの呂用之の独断専行に不安と不満を抱き、中和5年(885年)、畢師鐸は観察使の秦彦とともに謀反を起こし、高駢は両者に殺害された。

楊行密は挙兵して、謀反を起こした畢師鐸と秦彦を撃破して揚州に入り、淮南留後を自称した。

そのとき城内では飢饉が起こっていたが、楊行密は軍糧を与えて民衆を救済した。その後、楊行密は秦宗権孫儒の勢力と江淮地方をめぐって争ったが、やがて江淮地方の一帯を占領し、景福元年(892年)には朝廷から「淮南節度使」に任命された。

乾寧4年(897年)、「宣武軍節度使」の朱全忠の軍が大挙して南下した。楊行密は清口朱全忠の軍に敗れたが、朱全忠にそれ以上南下する力はなく、以後数十年間にわたり中国は南北に分裂することになる。

天復2年(902年)、楊行密は東面行営都統・中書令・王を拝命した。

天祐2年(905年)、楊行密は病死した。武忠王とされるが、四男の楊溥の時期に武帝と追尊された。廟号は太祖。長男の楊渥が後を継いだ。

家族 編集

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  • 楊怤

妻妾 編集

  • 朱夫人(朱延寿の姉)
  • 史夫人
  • 王夫人

男子 編集

  • 烈宗 楊渥 - 母は史夫人
  • 高祖 楊隆演 - 母は史夫人
  • 臨川王 楊濛
  • 睿帝 楊溥 - 母は王夫人
  • 新安公 楊潯
  • 徳化王 楊澈

女子 編集

  • 尋陽長公主(劉信の妻)
  • 銭元璙(呉越の武粛王銭鏐の子)の妻
  • 蔣延徽の妻
  • 徐玠の妻
  • 劉仁規の妻

関連項目 編集

先代
十国呉の初代
902年 - 905年
次代
烈祖