横倉 喜三次(よこくら きそうじ、1824年文政7年) - 1894年明治27年)4月13日)は、幕末武士旗本岡田善長の家臣。赤報隊相楽総三新選組近藤勇の介錯を務めた剣客として知られている[1]

 
横倉 喜三次
時代 幕末 - 明治時代
生誕 1824年文政7年)
死没 1894年(明治27年)4月13日
主君 岡田善長
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経歴 編集

美濃国揖斐を領する旗本岡田家家臣の嫡男として生まれる。父が死去したため11歳で家督を継ぐ[2]。1840年(天保11年)には江戸勤番となり、小野派一刀流酒井要人に入門する[2]。揖斐に戻ってからは同門の梅田楳太郎に入門し、次いで楊心古流柔術や中島流砲術も修得する[2]楊心古流柔術は江戸の戸塚彦介から学んだ。また、時期は不詳ながら神道無念流免許皆伝を受けており、岡田家の武術指南役となっている。1868年(慶応4年)に勃発した戊辰戦争では、岡田家が新政府軍に属したことから家臣43名の中から副隊長に選ばれる[1]

新政府軍として転戦する中で「偽官軍」として断罪された赤報隊一番隊長である相楽総三の処刑に立ち会っていた[1]。しかし、当初介錯役を務めていた者が相楽の右肩を切りつけて仕損じたのを見かねた横倉は素早く太刀を振るって仕留め、見ていた者を驚かせた[1]。後には相楽の介錯での腕を見込まれて捕縛されていた近藤勇の介錯も務めた。なお、横倉は近藤に対しては同じ剣客として敬意を持って接していたとされており、処刑後には介錯による報奨金を全てつぎ込んで主君や自身の菩提寺から僧侶を招聘し、近藤の法要を行っていたことが判明している[3][注釈 1]

人物 編集

  • 近藤の養子である近藤勇五郎は処刑の瞬間を目撃しており、後年には横倉の介錯について「丈の高い人は、ヤッというと、一太刀で切りましたが、まことにみごとな腕前で、六十何年経った今でも感心しております」と述べている[1]。勇五郎の証言に照らし合わせれば、横倉は丈の高い人物であり、介錯についても確かな技術があったことが窺える[1]
  • 同郷の漢学者・教育者である棚橋天籟(てんらい)は、横倉の剣技を賞賛した漢詩『剣賛詩』(けんさんし)を遺しており、詩が記された掛け軸は揖斐川歴史民俗資料館に収蔵されている[4]。詩の一文である「剣精霊貫白虹」は、2019年に岐阜県博物館にて行われた特別展『剣精霊貫白虹 ~幕末美濃の剣豪と名刀~ 』にも用いられている[4]。なお、『剣賛詩』の全文は以下の通りである[4]
原文(カッコ内は書き下し文の読み)

我有昆吾剣精霊貫白虹 (こんごのけんのせいれい はっこうをつらぬくは われにあり)
匣蔵無事久夜々叫英雄 (ぶじにこうぞうすることひさしく よよえいゆうをよぶ)

現在訳の大意

横倉喜三次の優れた剣技によって幕末の兵乱は払われた。
今やその愛刀も無事に箱に仕舞い込まれて久しく、夜ごとかつての英雄(喜三次)を呼んでいる。

— 棚橋天籟、『剣賛詩』(けんさんし)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 2004年(平成16年)には歴史研究家のあさくらゆうによって、近藤の法要に際して必要経費などを記した「大和守法会入用覚帳」と参列者の手紙2通が揖斐川町にある横倉の子孫宅で見つかっている[3]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f 鈴木亨『日本史瓦版』三修社、2006年6月1日。ISBN 978-4384038323 
  2. ^ a b c 三輪神社 - 幕末維新 史跡観光 2020年3月17日閲覧
  3. ^ a b 近藤勇の法要記録を発見/介錯人が資金提供 - 四国新聞 2020年3月17日閲覧
  4. ^ a b c 「剣精霊貫白虹 幕末美濃の剣豪と名刀」 - 岐阜県博物館(PDF) 2020年3月20日閲覧

関連項目 編集

  • 二王清綱 - 横倉が近藤の介錯に用いたとされる日本刀(脇差)。現在は岐阜県博物館に収蔵されている。