櫛橋則伊

室町時代の播磨国の武将。赤松氏の家臣。子に櫛橋則高(1475-1536、豊後守、赤松義村、晴政の奉行衆)-櫛橋政朝(豊後守)-櫛橋祐貞(三郎)

櫛橋 則伊(くしはし のりこれ)[4]は、室町時代播磨国武将赤松氏の家臣。

 
櫛橋 則伊
時代 室町時代
生誕 永享5年(1433年
死没 文明18年12月23日1487年1月17日[1]
別名 左京亮、豊後守
戒名 万善秀算禅定門[2]
主君 赤松政則
氏族 櫛橋氏
父母 父:櫛橋貞伊
伊家則高?、小寺則職室?[3]
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人物 編集

櫛橋家5代・櫛橋貞伊の子。嘉吉元年(1441年嘉吉の乱を引き起こした赤松氏は幕府軍の追討を受けて当主・赤松満祐を初め、殆どの一族郎党が滅ぼされた。則伊の父・貞伊もまた伊勢国で自害に追い込まれたが、則伊は当時9歳であり、仏門に入る事で生き長らえた。

長禄2年(1458年)赤松旧臣による長禄の変は赤松氏の守護復帰を促し、満祐の大甥にあたる赤松政則加賀半国守護として赤松家の再興を果たした。そして応仁元年(1467年応仁の乱に呼応してついに赤松氏は播磨国を奪還し、その際に則伊も還俗して馳せ参じて赤松家臣に名を連ねる事となった。「伊」の名は、赤松政則がこれまでの歴代櫛橋氏当主の忠義を称えて偏諱を与えたものといわれている。文明8年(1483年)祖父・伊高と同じく奉行人に任命され、阿閉重能馬場則家とともに発給文書を残している。また文明13年(1481年)には高天神城を築城している。

播磨・備前美作の旧領を奪還していた赤松氏であったが、これにより前領主・山名氏との対立はいよいよ激しくなり、たびたび合戦に及んだ。文明15年(1488年山名政豊と結んだ松田元成が赤松氏に反旗を翻すと、則伊は諸将とともに備前福岡城に籠城し、赤松政則へと救援を求めた。しかし政則が山名氏の本領・但馬国攻略に固執したために山名軍に敗北すると、後詰めの可能性を断たれ開城する事となった。文明17年(1485年)赤松政則が再び旧領奪還に動くと則伊もそれに従い、蔭木城坂本城の攻略などで活躍した。

この後、櫛橋氏が居城とする志方城明応元年(1492年)則伊の築城とされるが、「書写山十地坊過去帳」ではそれ以前の文明18年(1486年)に死去しており、正確なところは不明。

脚注 編集

  1. ^ 「書写山十地坊過去帳」による。「櫛橋系図」では文亀元年3月25日(1501年4月12日)没という。
  2. ^ 「書写山十地坊過去帳」による。櫛橋家墓碑には「秀算万善大居士」とある。
  3. ^ 小寺則職の室は小寺氏の系図によると櫛橋通則の娘とある。通則は赤松氏範の玄孫にあたる人物だが詳細は不明で、則伊との混同の可能性がある。
  4. ^ 則伊の孫にあたる櫛橋伊定は、系図史料によっては名を「則伊」とするものもある。

参考文献 編集

  • 安田三郎「糟谷氏一族 -播磨櫛橋氏-」『県央史談』第37号
  • 山下道雄「播磨の豪族 櫛橋氏」『播磨と歴史』第23巻第3号
  • 橋本政次『志方町誌』
  • 「書写山十地坊過去帳」『続群書類従』第三十三輯下 収録
  • 御着史跡保存会 編『播磨御着郡誌』