武 徳(ぶ とく、生没年不詳[1])は、初の軍人本貫寿州安豊県

生涯 編集

元の至正年間、義兵千戸となった。元が滅びようとしているのを察知し、将軍の張鑑(張明鑑)に早く帰順先を選ぶよう勧めた。張鑑は武徳の言に肯き、連れ立って朱元璋に帰順した[2]。武徳は李文忠に従って池州に赴き、奮戦して流れ矢を右股に受けた。矢を抜くと、平然と戦闘を続けた。於潜昌化の奪取や厳州の攻略にいずれも参戦して、万戸に進んだ。苗族の将軍の楊完者が烏龍嶺に進軍すると、武徳はこれを襲撃するよう李文忠に勧めた。はその進言に従って楊完者の陣営を攻め崩した。蘭渓を奪取し、諸曁を攻略し、紹興に進攻するにあたって、武徳はいずれも先頭に立って戦い、右臂を負傷しても顧みなかった。李文忠は「将士がみなこのようであったなら、戦って負けることがあろうか」と言って感嘆した。

1362年(至正22年)[3]、蔣英・賀仁徳が叛くと、武徳は李文忠に従って金華を平定し、処州に進攻した。賀仁徳に劉山で遭遇すると、武徳は戈を右股に受けたが、刀で戈を斬って追撃した。賀仁徳は再戦してまた敗走し、その部下に殺された。武徳は凱旋して厳州を守った。2年後、官制が定められると、武徳は管軍百戸となった。李文忠に従って張士誠の兵を諸曁で破り、諸将とともに浦城を救援し、進軍するところの山寨をいずれも下した。李文忠に従って建寧延平汀州を下し、福建の山谷の諸寨を全て平定した。管軍千戸に進み、衢州に移駐して守備し、世襲することとされた。呉禎に従って海上を巡視した。呉禎の推挙により武徳は平陽の守備を命じられた。在任8年して致仕した。1381年洪武14年)、雲南遠征にあたって、武徳は宿将として随行を命じられた。

脚注 編集

  1. ^ 『武氏家譜』によると、武徳はを興隆といい、1433年宣徳8年)11月9日に84歳で死去したとされる。これによると生年は1350年のこととなるが、中国語版Wikipediaをはじめとして1351年生の1435年没としている資料が多い。いずれにせよこれらの生没年は『明史』の記述と齟齬が大きく、本記事では採用しない。
  2. ^ 『明史』太祖紀一によると、至正十七年冬十月に繆大亨揚州を攻略すると、張明鑑は降伏した。
  3. ^ 『明史』太祖紀一によると、至正二十二年二月癸未に蔣英は金華の守将の胡大海を殺害して張士誠に降った。

参考文献 編集

  • 『明史』巻134 列伝第22