池上 昌弘(いけがみ まさひろ、1947年10月15日 - )は、東京都世田谷区出身(神奈川県生まれ)の元騎手・元調教師

池上昌弘
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都世田谷区
神奈川県出生)
生年月日 (1947-10-15) 1947年10月15日(76歳)
騎手情報
所属団体 JRA
所属厩舎 中山・古賀嘉蔵(1967 - 1968)
東京松山吉三郎(1968 - 1970)
東京→美浦保田隆芳(1970 - 1988)
初免許年 1967年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 1988年
重賞勝利 9勝
G1級勝利 2勝
通算勝利 1679戦138勝
調教師情報
初免許年 1988年(1989年開業)
経歴
所属 美浦T.C.(1988 - 2018)
テンプレートを表示

息子の池上昌和も調教師[1]で、保田隆芳元調教師は伯父、保田一隆元調教師は従弟、隆芳の孫で声優河合紗希子とは遠戚にあたる。

来歴 編集

1963年馬事公苑長期騎手養成課程14期生として騎手候補生となり[2]安田富男平井雄二田島良保小島太と同期である。1967年中山・古賀嘉蔵厩舎からデビューし、岡部幸雄福永洋一柴田政人伊藤正徳15期生清水英次とデビュー年が同じとなる。同年3月4日東京第9競走5歳以上130万下・フシミ(8頭中7着)で初騎乗を果たしたが、1ヶ月後に東京・松山吉三郎厩舎へ移籍し、6月17日新潟第9競走阿賀野特別・フシミで初勝利を挙げた。1年目から2桁の10勝をマークし、2年目の1968年には15勝を挙げ、3年目の1969年からは平地の騎乗に専念。1969年からはヒダプレジデントとデビューからコンビを組み、重賞昇格前の新潟3歳Sを勝利[3]朝日杯3歳S4着、1970年東京4歳S2着、スプリングS5着など、アローエクスプレスタニノムーティエのAT対決で沸いた同年4歳路線の脇役を務めた[3]。1970年3月1日、騎手引退と同時に開業した保田隆芳厩舎に移籍し、同厩舎の主戦騎手となった。安田記念で重賞初制覇を飾った直後の6月からメジロアサマに騎乗し、初戦の札幌アカシヤSをレコード勝ちすると、札幌記念2着、函館記念で池上自身の重賞初制覇[3]。秋はオールカマー3着、目黒記念(秋)2着と順調な仕上がりで天皇賞(秋)を迎えた[3]。メジロアサマはマイラー種牡馬と思われていたパーソロン産駒の芦毛で、当時は「芦毛は長距離に向かない。天皇賞で芦毛馬は勝ったことがない」という根拠の薄い定説があったため5番人気の低評価であったが、中団から直線で抜け出し、内から追いすがるフイニイをクビ差退けたほか、外から追い込むアカネテンリュウも下して見事に優勝[3]。メジロアサマのスタミナを考え、直線でギリギリまで追い出しを我慢した池上の好騎乗[3]が光り、人馬共にGI級レース・八大競走初制覇を挙げた。池上は後に「騎手時代の思い出の馬」としてメジロアサマを挙げているが、池上の23歳1ヶ月での天皇賞(秋)制覇は当時の同競走での史上最年少騎手による制覇でもあり、馬事公苑長期騎手課程第14期生では最初の八大競走制覇騎手となり、この記録は1989年武豊が20歳7ヶ月で制覇して更新されるまで破られなかった。1971年には第12回宝塚記念メジロムサシの2着に入ったが、3月目黒記念(春)に続くメジロアサマとのワンツーを決めた。最初のワンツーを決めた目黒記念は当時「メジロ記念」と呼ばれ、3着も共にスピーデーワンダーとこちらも同じであった。表彰式では2頭が揃って記念撮影を行われ、ムサシとアサマは10月に行われたハリウッドターフクラブ賞でもワンツーを決めたが、このレースでは初めてアサマがムサシに勝利した。アサマは引退後に精虫不足で種牡馬として大きな危機を迎えたが、供用3年目で初めて誕生したメジロエスパーダともコンビを組み、休み休みながら6戦4勝を挙げるなど快足ぶりを見せた[3]

1973年にはハクホオショウ札幌記念オールカマーを勝ち、絶好調で断然の1番人気に推された[3]天皇賞(秋)ではスタート直後の故障により競走中止した。1974年には自己最多の17勝を挙げるが、同年が最後の2桁勝利となった。

1976年にはトウショウボーイとコンビを組み、無傷の4連勝で皐月賞を制するが、単枠指定で迎えた東京優駿では、池上が同馬について漏らしていた「馬が若いので他馬に寄られると怯むところがある」という弱点をクライムカイザー加賀武見に突かれ、2着に敗れる。次走の札幌記念も発馬での躓き[3]で2着に敗れ、池上はトウショウボーイを降ろされることとなった。同年は6勝に終わるが、6勝中4勝はトウショウボーイで挙げた。同年10月6日中山第5競走3歳新馬ではタイプキャストの初仔であるタイプアイバーに騎乗し、マルゼンスキーから大差離された4着に終わり、その後も5戦騎乗したが0勝で引退している。

1977年第76回天皇賞シタヤロープを3着に持ってくるなどの見せ場を作っていたものの、以降は大レースを勝ちだして注目されるようになった同期の安田や小島らとは対照的に、池上はこれまでの活躍ぶりから一転。重賞勝利はおろか勝利数が激減し、1977年と1983年には自己最低の1勝に終わり、さらには騎乗数も年間2桁台にまで減少していた。

1978年セントライト記念ではコレヒロでダービー馬サクラショウリに次ぐと同時にシービークロスを抑えて2着に入るが、同年に挙げた6勝中3勝はコレヒロでマークした。

1986年1月5日に中山第3競走4歳新馬を16頭中14番人気のセキレイシローで逃げ切り、11月30日には中京第5競走4歳以上400万下を16頭中15番人気のホワイトシローで勝って枠連万馬券を演出。1988年には調教師試験に合格し、同年限りで現役を引退。

1988年1月6日の中山第7競走4歳新馬・シービーナイトが最後の勝利となり、2月29日の東京第12競走4歳以上400万下・ヒダカリュウリン(11頭中2着)が最後の騎乗となった。

引退後の1989年に厩舎を開業し、同年3月5日の中山第8競走4歳以上400万下・サクラホープ(16頭中4着)で初出走を果たすと、4月30日の東京第12競走4歳以上400万下に出走させた同馬で初勝利を挙げた。2008年には兵庫チャンピオンシップに条件戦→伏竜ステークスを連勝[4]していたナンヨーリバーを出走させ、スタートで大きく出遅れながらもすぐに2番手まで上昇し、2周目3コーナー手前で先頭を奪うと後方から一気に追い上げたウイントリガーの追い上げを振り切って優勝[4]。兵庫CSで3連勝となり、池上唯一の重賞制覇となった。2010年6月19日福島第10競走さくらんぼ特別・ダイワナイトで通算300勝を達成し、2017年には11月11日翌12日に2日連続1日2勝をマーク。2018年2月28日付けで定年の為、調教師を引退することになり[5]、最終日の同25日には中山で騎手時代同期の小島らと共にお別れセレモニーが開かれた。

4日の東京第7競走4歳以上500万下・クラークキーが最後の勝利、25日の中山第12競走4歳以上500万下・タケルラグーン(16頭中8着)が最後の出走となった。

騎手成績 編集

通算成績 1着 2着 3着 騎乗数 勝率 連対率
平地 138 140 164 1670 .083 .166
障害 0 1 2 9 .000 .111
138 141 166 1679 .082 .166
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1967年3月4日 2回東京2日9R 5歳以上130万下 フシミ 8頭 6 7着
初勝利 1967年6月17日 2回新潟1日9R 阿賀野特別 フシミ 9頭 4 1着
重賞初騎乗 1968年2月18日 2回中山7日10R 東京4歳S ウメノフクオー 9頭 8 9着
重賞初勝利 1970年9月13日 1回函館8日9R 函館記念 メジロアサマ 13頭 2 1着
GI級初騎乗 1969年12月14日 6回中山4日10R 朝日杯3歳S ヒダプレジデント 13頭 9 4着
GI級初勝利 1970年11月29日 6回東京8日9R 天皇賞(秋) メジロアサマ 13頭 5 1着

代表騎乗馬 編集

※括弧内は池上騎乗による優勝重賞競走、太字はGI級レース

その他

調教師成績 編集

日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 1989年3月5日 2回中山4日8R 4歳上400万下 サクラホープ 16頭 3 4着
初勝利 1989年4月30日 2回東京4日12R 4歳上400万下 サクラホープ 14頭 1 1着
重賞初出走 1991年8月18日 1回函館6日10R 函館記念 マジョルカシチー 14頭 14 8着
GI初出走 2000年4月16日 3回中山8日11R 皐月賞 マイネルチャージ 18頭 16 15着

おもな管理馬 編集

主な厩舎スタッフ 編集

かつて所属していたスタッフ 編集

  • 谷中公一(不明 - 2004年、騎手。現役最末期のみ)
  • 池崎祐介(2007年、騎手。未勝利でフリーになった)
  • 国枝純(2008年 - 2011年、調教助手[6]。調教師の国枝栄の長男)
  • 辻哲英(所属時期不明、調教助手)

参考文献・出典 編集

脚注 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集