池田政弼

江戸時代中期の大名。備中生坂藩4代藩主。池田政晴の三男。従五位下・丹波守。子に池田政峰(-1789.3.11、長男、届出上は三男、巴三)

池田 政弼(いけだ まさすけ)は、江戸時代中期の大名備中生坂藩4代藩主。

 
池田 政弼
時代 江戸時代中期
生誕 寛保2年7月27日1742年8月27日
死没 安永5年7月25日1776年9月7日[1]
改名 永次郎(幼名)、政弼
戒名 持光院殿観海帷聞大居士
官位 従五位下丹波守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治
備中生坂藩
氏族 池田氏(輝録流)
父母 父:池田政晴、養子:池田政員
兄弟 鵜殿政長政員政弼長恵池田長仍正室、山内豊産正室、八重子、甲斐庄正堅正室
正室:利佐姫松平直純の娘)
政峰政房竹中重寛正室、政良秀次郎
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略歴 編集

2代藩主・池田政晴の三男として誕生。幼名は永次郎。養子に政良と秀次郎(いずれも池田政員の子、届出上は実子であり、それぞれ長男と次男)[2]

明和4年(1767年)、兄で先代藩主の池田政員が死去したため、その養嗣子となって跡を継いだ。

安永5年(1776年)7月25日、35歳で死去した。ただし、幕府には4日後の7月29日死去として届出された[1]

前年に生まれたばかりの正室との息子の政房が跡を継いだが、翌安永6年(1777年)に夭逝したため、宗家の岡山藩池田治政の庶長子で、幕府に出生の届出が未提出であった鉄三郎が密かに岡山から江戸まで迎えられ、身代わりに立てられて政房を名乗り、のち政恭と名を改めた[2]

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ a b 『お家相続 大名家の苦闘』p.76-77
  2. ^ a b 『お家相続 大名家の苦闘』p.59-63

参考文献 編集

  • 大森映子『お家相続 大名家の苦闘』(角川選書)