沢田 豊(さわだ ゆたか、1886年1月10日[1] - 1957年9月3日[2])は、ドイツを中心に、ヨーロッパで活動した日本人のサーカス芸人[3]曲芸師

経歴 編集

愛知県葉栗郡大野村(現・一宮市浅井町大野)で、医師の三男として生まれる[1]。1891年の濃尾地震により浅草の祖父の元に身を寄せる[1]。浅草で玉乗り曲芸の「横田一座」を見て、家出をして一座に加わり[2]、16歳だった1902年[4][2](14歳だった1900年とする記述もある[5])、横田一座の一員としてロシア帝国統治下のウラジオストクに渡り[5][2]、さらにサンクトペテルブルクを含むロシア各地を巡業した[2]1904年日露戦争が勃発した際、一座はヤルタにいたが、そのまま抑留された[2]。その後、一座はコンスタンチノーブルからギリシャエジプトを経てイタリアに至り、以降ヨーロッパ各地で興行を行なった[2]

横田一座は1907年に、ドイツの新興サーカス団サラザニドイツ語版と契約し、沢田は青竹の上に頭だけで倒立する技などによって評判を呼び、スターとなった[2]。また、ドイツ人女性アグネスと結婚し[2]、やがてふたりの間には6人の子どもたちが生まれた[3]

1914年第一次世界大戦が勃発すると、横田一座は敵国人として一時拘束され、一座は解散となってしまう[2]。沢田はしばらくの間、スイスチューリッヒ電気技師として働いた[2]

第一次世界大戦後、沢田はサラザニから呼び戻され、子どもたちとともに[2]「サワダファミリー」として曲芸を披露した[3]1934年からはサラザニの南米巡業に参加し、その後の日本公演の企画も出ていたが、それは実現せず、興行主サラザニの急死を受けてサーカスがドイツに帰国した後、1936年に沢田はサラザニの息子から解雇されてしまう[2]

その後、沢田一家は、キャバレーのショーなどで活動を続けたが、第二次世界大戦でドイツが敗北した後、ベルリンを占領したソビエト連邦軍によって、日本人であった沢田は家族とともに満洲新京へ強制送還された[2]。その後、沢田一家は混乱した時期の中国におよそ3年ほどとどまり、1948年にドイツに戻った[2]。その後も沢田一家は曲芸の興行を1953年まで続けた[5]

晩年の沢田はゲッティンゲンに、妻子とともに住んでいたが、1957年9月3日に心臓衰弱で死去した[2]

その後 編集

沢田の次男である日系ドイツ人マンフレッド・ユタカ・サワダ(1919年生)は、1990年に日本の新聞を通してルーツ探しを行い[6]、翌1991年に、横浜市の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」に招かれて来日した[5]

1993年には、サーカス研究家である大島幹雄による、沢田の評伝『海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯』が出版された[4][7]

脚注 編集

  1. ^ a b c 日本人の足跡-沢田豊(元は産経新聞 2001年4月20日)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 大島幹雄「IJU who's who 地平線の群像 語り継ぐ破天荒人生(18)沢田豊--海を渡ったサーカス芸人」『海外移住』第608号、国際協力事業団、2003年、18-21頁。  NAID 40005722634地平線の群像-語り継ぐ破天荒人生-沢田豊・海を渡ったサーカス芸人-”. 大島幹雄. 2015年11月25日閲覧。
  3. ^ a b c “近代日本、2つの人生 女性歌人とサーカス芸人をドキュメンタリーに”. 朝日新聞・夕刊: p. 10. (1997年2月4日). "もうひとつはヨーロッパ屈指のサーカス芸人になった男と家族を取材した東北放送の「20世紀 大サーカス」だ。「海を渡ったサーカス芸人」の著者大島幹雄氏が企画・構成、語り・小沢昭一、演出・斎藤博。主人公の沢田豊は明治の中ごろ東京生まれ。各国を転々として、ヨーロッパ最大のサーカスの看板スターに。ドイツ女性と結婚。六人の子供と「サワダファミリー」を結成して活躍。昭和三十二年に死去した。... ヨーロッパを代表する芸人になり、家族への愛から望郷の念を断ち切ったコスモポリタンの思いが浮かび上がる。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  4. ^ a b 海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯 大島幹雄 著”. 平凡社. 2015年11月25日閲覧。 “明治35年、16歳で日本をとび出して以来、ロシア、ドイツ、ブラジル、満州など異郷を遍歴し続けた芸人の、歴史に翻弄された数奇なる一生をたどる。”
  5. ^ a b c d “サワダさん、父の故郷・横浜にドイツの日系元サーカス芸人”. 朝日新聞・朝刊・神奈川: p. 10. (1991年4月17日). "マンフレッドさんは、父沢田豊さんとドイツ人の母の次男として1919年、スイス・チューリヒで生まれた。父の沢田さんは1900年、14歳のときサーカス団員の一員として、帝政ロシア時代のウラジオストクへ渡り、ロシア、ドイツなどで活躍。成長したマンフレッドさんも父のサーカスに加わって、ヨーロッパ、米国を巡業したという。... 戦後、旧満州から苦難を経てドイツへ戻り、サーカスを再開したが、敗戦後の混乱した時代に見物客はなく、53年に解散してしまった。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  6. ^ “ルーツを探していた日系元サーカス芸人のいとこ十数人が判明”. 朝日新聞・朝刊: p. 29. (1990年11月6日). "日系ドイツ人の元サーカス芸人マンフレッド・ユタカ・サワダさん(71)が日本にルーツを探している、という記事(10月26日付本欄)がきっかけになって、いとこ十数人の消息が5日までに分かった。"  - 聞蔵IIビジュアルにて閲覧
  7. ^ “「海を渡ったサーカス芸人」大島幹雄著”. (1993年9月6日). p. 10  - ヨミダス歴史館にて閲覧

関連文献 編集

  • 大島幹雄『海を渡ったサーカス芸人 コスモポリタン沢田豊の生涯』平凡社、1993年