津田 昭(つだ あきら、1940年9月17日 )は、北海道出身の元騎手・元調教助手

津田昭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道
生年月日 (1940-09-17) 1940年9月17日(83歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 中山野平省三(1959 - 1969)
中山→美浦野平富久(1969 - 1983)
初免許年 1959年9月26日
免許区分 平地(初期には障害競走の免許も保持)
騎手引退日 1982年12月25日
重賞勝利 11勝
通算勝利 426勝
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経歴 編集

1959年に騎手免許を取得し、中山野平省三厩舎からデビュー。9月26日の中山第1競走3歳未勝利・タマミノル(11頭中4着)で初騎乗を果たし、10月18日の中山第3競走4歳以上未勝利・タマノボルで初勝利を挙げる。若手時代は障害競走を中心にレースに騎乗し、2年目の1960年東京障害特別(秋)・オーロラで重賞初制覇。所属していた野平省三厩舎の主戦騎手であった野平祐二の影に隠れるような存在であったが、有馬記念2連覇のスピードシンボリのデビュー期の主戦騎手を務めていたのは彼であった。そのスピードシンボリの初重賞制覇となった1966年京成杯に騎乗している。1969年に野平省三厩舎から野平富久厩舎へ移籍し、これを機に障害免許を返上して平地に専念するようになる。コンチネンタルとのコンビで、1970年から1971年にかけて重賞4勝を挙げている。1973年東京優駿では12番人気のイチフジイサミに騎乗し、ハイセイコーに3馬身1/2差を付けて先着、タケホープの2着に入る健闘を見せた。1975年関屋記念では9番人気のファイブワンで当時としては驚異的なレコードタイム1分33秒9で勝利し、2着に14頭中13番人気のサンヨウコウが入り、単勝2450円、複勝2530円の波乱となった。

晩年は騎乗機会が減るが、1981年にはダービー前に併せ馬がいなくなった皐月賞カツトップエースの調教パートナーを務めた[1]。普段から菊池一雄厩舎と仲良くしている厩舎に併せてくれる馬はいないかと探していた藤沢和雄調教助手が、野平富久厩舎にカツトップエースと同じ500kgを超す大柄なオープン馬ハクバカラマツ[1]を発見。毎日の調教でも騎乗していた主戦の津田は藤沢の願いを聞き、注文の多いを併せ馬を引き受ける[1]。木曜早朝の右回りの北馬場で大崎昭一騎乗のカツトップエース[1]を内から併せていくが、内で行きそうになるハクバカラマツを上手く宥めて最後まで鼻面を並べて併入し、カツトップエースはやや一杯の脚色で理想的な併せ馬[2]となり、見事にダービー馬となった。ダービー翌日に藤沢は菊池が入院していた病院に駆けつけて菊池と握手を交わし、その足で津田のところに向かった[2]。津田も、菊池と同じくらい喜んだ[2]。 

1982年10月17日福島第9競走4歳以上400万下・ダイワヤングが最後の勝利、12月25日の中山第3競走3歳新馬・ニシノミカヅキ(16頭中13着)が最後の騎乗したのが最後となり、1983年限りで現役を引退。

引退後は調教助手に転身し、西塚安夫厩舎のスタッフとしてカネツクロスなどを担当したほか、高森紀夫と共に2004年度の優秀調教助手賞を受賞[3]2005年引退。

調教助手引退後は会員制競馬予想会社のスタッフに転向している。

騎手成績 編集

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 340 365 362 2,579 3,646 .093 .198
障害 86 86 68 195 435 .198 .395
426 451 430 2,774 4,081 .104 .215

主な騎乗馬 編集

主な担当馬 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d 藤沢和雄『競走馬私論―馬はいつ走る気になるか (ザ・マサダ競馬BOOKS)』ザ・マサダ2000年9月1日ISBN 4883970493、p66。
  2. ^ a b c 『競走馬私論―馬はいつ走る気になるか』、p67。
  3. ^ 厩舎関係者表彰、受賞者決定〜藤田騎手に特別模範騎手賞