海陵王(かいりょうおう)は、の第4代皇帝女真名は迪古乃(テクナイ)、漢名は。金の太祖阿骨打の庶長子である遼王斡本(宗幹)の次男。従弟にあたる第3代皇帝熙宗を殺害し、帝位を簒奪したが、自身も部下によって殺害された[2][3][4][5][6]。第5代世宗即位後、廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称される[4]。生母は斡本の側室で渤海王家末裔の大氏、正妻は女真貴族の徒単斜也の娘(徒単皇后)。「荒淫の人」として知られる[4][6]

海陵王 完顔迪古乃
第4代皇帝
金海陵王像(金上京歴史博物館中国語版
王朝
在位期間 天徳元年12月9日 - 正隆6年11月27日
1150年1月9日 - 1161年12月15日
都城 上京会寧府(ハルビン)→中都(北京)
姓・諱 完顔迪古乃
亮(漢名)
諡号
生年 天輔6年1月16日
1122年2月24日[1]
没年 正隆6年11月27日
1161年12月15日
完顔斡本
大氏
后妃 徒単皇后
陵墓 海陵王陵
年号 天徳 : 1149年 - 1153年
貞元 : 1153年 - 1156年
正隆 : 1156年 - 1161年

生涯 編集

宗室の子である故をもって天眷3年(1140年)には奉国上将軍となり、最前線で南宋と当たっている叔父の梁王斡啜(オジュ、完顔宗弼)の軍に派遣されて軍職を務めた。皇統4年(1144年)には中京留守となって前線を離れ、その後尚書左丞・右丞相など宰相格の重職を歴任した。堂々たる容貌であり、文官としても武将としても優れた才能を発揮し、一方で大いなる野心を抱いた。

皇統9年(1149年)、皇帝であった従兄の熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣ら[注釈 1]と謀って熙宗を殺害し、自ら皇帝に即位した[2][3][4][5][6]。即位後、腹心に「金の君主となる」「宋を討ってその皇帝を自分の膝下にひざまずかせる」「天下一の美女を娶る」という3つの夢を打ち明けている[6][注釈 2]

金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った[3][6]。その一方で、猜疑心が強く残忍な性格で、天徳4年(1152年)には皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令阿魯(宗本)と烏帯(宗言)ら大叔父の太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清した。さらに、彼らの妻妾を奪取して後宮に入れた。身内を信じられない海陵王はさかんに漢人官僚を取り立てた[7]。それまで北選(遼制)・南選(宋制)に分けてきた科挙も一本化された[5]

また、中書省門下省を廃し、尚書省のみを皇帝に直属させ、国都を会寧(現在の黒龍江省ハルビン市阿城区付近)から燕京(現在の北京)に遷した[2][3][4][5][6][注釈 3]。その上に奢侈に走って臣民に重税を強いるなど暴政の度合いを深め、多くの者が海陵王を憎悪し始めた。

正隆6年7月1161年6月己丑)、海陵王は将来の禍を避けるため、天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と、金の故地(中国東北部)の五国城で6月に逝去した北宋欽宗の末裔の趙氏ら130余人の若者たちを殺害し、耶律氏と趙氏の若い女性を後宮に入れた。8月、海陵王はより豊かな文化と物資を手に入れるために南宋討伐を企て、「天の使いが夢枕に立ち、宋を征討する命を下した」と宣伝して、開封を修復した。そして、船に不慣れな北方民族としては前代未聞の企てとして、海から南宋を攻撃するために軍船の建造を行い、猛安謀克に属する20歳から50歳までの男子に動員令を出すなどの準備を行った[2][3][4][7][8][注釈 4]。この行為を聞いた嫡母の皇太后徒単氏は、海陵王に諫言したが、海陵王は皇太后が南宋討伐に乗じて自身の廃立を企んでいると疑い、年老いた嫡母を殺害した上その遺体を焼き払い、遺灰を近くの河に投げ捨てた。さらに、徒単太后の甥である徒単檀奴・徒単阿里白までも誅殺している。

そして9月、海陵王は周囲の反対を押し切り、60万と号する大軍を自ら率いて南宋に遠征した[2][3][4][7][8][注釈 5]。これに対し南宋は、四川の呉璘・揚州の劉錡らを中心に迎撃態勢を整えていた。国境の各地を越えた金軍は10月に揚州を陥落させるが、西隣にある和州の采石磯中国語版で南宋の名将虞允文の頑強な抵抗に遭い(采石磯の戦い)、長江を渡れずに苦戦した。また、金軍の大半が契丹人で編成されていたために軍の統率がうまくいかなかった上、留守中の本国においては海陵王の反対派が従弟にあたる葛王烏禄(世宗)を擁立したため[注釈 6]、海陵王も進退窮まり、南征中の陣中である揚州の亀山寺において、部下で遼の宗族系の契丹貴族である浙西道兵馬都統制完顔元宜(耶律阿列、または移剌特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって殺害された。享年40。

死後、皇帝の資格なしとして世宗により海陵郡王に落とされ、さらには王の資格もないということになり、王族の籍を外されて庶人に落とされた。廃帝海陵庶人と『金史』には記されている。

燕京への遷都 編集

貞元元年(1153年)3月、都をそれまでの上京会寧府から燕京に移して「中都大興府」と称した[9]。海陵王は財政を顧みず中都の造成に傾注した[10]。『金史』は、そのさまを以下のように記している[10]

宮殿の造営には、1本の木を運ぶのに2000万を費やし、一車を引くのに500人を使った。宮殿のかざりはすべて黄金をはりめぐらし、ために一殿の費用は億万をもって計え、しかもできあがってもこわし、ひたすら華麗をきわめようとした[10]

金の中都は、遼の南京析津府を基として、その規模を拡大させたもので、『大金国志』によれば、都城の周囲は75里で、城門は12におよび、各辺に3門ずつを開き、内部の宮殿の数は36、楼閣はこの倍あるという[10]。明代の謝肇淛は、「遼、金および元は、みな燕山(北京)に都したが、制度文物は金が最も盛んであった。今、禁中の梳粧台、瓊花島、それに小海、南海などは、みな金の物である」と述べている[10]

皇統2年(1142年)に成立した皇統の和議による南宋との国境線画定の結果、金の領域が南方に広がることが確定し、従来の会寧では北に偏り過ぎていることが最大の理由として考えられている。また、中都遷都から間もない正隆元年(1156年)には大規模な官制改革(「正隆官制」)を行って、北方民族の部族封建制から中国的な君主独裁制・官僚制への移行が図られている[9]

遷都に先立って燕京の拡張工事が行われているが、ここでも北宋の都であった汴京(開封府)を意識した都城整備が行われており、中国文化・漢族社会の受容と模倣の反映と考えられている[9]

現在の北京市には過去にもの王都の薊城や遼の五京の一つである燕京析津府が置かれていたが、皇帝が住む都城として整備されたのは初めてのことであり。その後の歴代王朝、そして現在の中華人民共和国の首都である北京市の直接の源流は、海陵王の燕京遷都であると指摘できる[9]

海陵王の後宮 編集

海陵王は「天下一の美女を娶る」と豪語したとおり、数多くの女性を後宮に集めた。『金史』巻63 列伝第1「后妃上」によれば、皇帝に即位する前は3人程度だった妻妾が、後年には数えきれないほどの数に登った。また、海陵王はしばしば臣下の妻を奪い、近親相姦をおそれず、幼女を強姦した。姉妹や母娘を揃って後宮に入れることもあり、己の意に従わない女性は殺すことをためらわなかった。宮中の床に布をしきつめて、あらゆるところで宮女と乱交した。

臣下や宗族の妻であって海陵王の後宮に入れられたのは、名前が記載されている者のみでも、貴妃唐括定哥・麗妃唐括石哥・昭妃蒲察阿里虎・昭妃阿懶・昭媛耶律氏・耶律択特懶・密国夫人完顔氏・昭媛耶律察八・寿寧県主完顔什古・静楽県主完顔蒲剌・完顔習撚・完顔師姑児・混同郡君完顔莎里古真・完顔余都・奈剌忽・唐括蒲魯胡只と十数名もいる。宮女のうちで外に夫がある者は別れさせようとした。また、皇族の完顔烏禄(後の世宗)の妻であった烏林荅氏を奪おうとして、彼女を自殺に追いやっている。

またしばしば処女を犯し、元妃大氏に手助けをさせた。『金史』巻5 本紀第5「海陵」によれば、姉の娘である蒲察叉察が幼い頃宮中で鞠に興じているのを見て、彼女を後宮に入れようとしたが、皇太后に反対されている。蒲察叉察の嫁ぎ先に再び出かけて関係を強要し、ついにこれを後宮にいれた。また、継女の完顔重節(蓬萊県主)が美女であったので、彼女をも自らの側室とした。

姉妹を2人とも犯すことはしばしばあった。唐括定哥と唐括石哥、耶律択特懶と柔妃耶律弥勒、元妃大氏と大蒲速盌、完顔莎里古真と完顔余都などである。すでに嫁していた大蒲速盌は、姉に会うため宮中を訪れた際に海陵王に襲われており、彼女は二度と姉に会おうとしなかった。柔妃耶律弥勒は、海陵王に命じられて姉である耶律択特懶を欺いて呼び出した。蕭拱の妻であった耶律択特懶は海陵王に強姦された。一方、蕭拱も処女であった耶律弥勒が里帰りした際に彼女と関係を持ったことがあり、のちに耶律弥勒が非処女となったことを知った海陵王は蕭拱を殺害した。耶律弥勒の母の張氏も莘国夫人、伯母の蘭陵郡君蕭氏も鞏国夫人として海陵王の後宮に入れられている。完顔莎里古真は夫のもとからさらわれて、海陵王から深く寵愛されていたが、海陵王は完顔莎里古真の妹である完顔余都も犯した。完顔余都もすでに夫のある身であり、完顔莎里古真は「どうして私だけでなく妹まで手にかけるのですか」と海陵王を責めた。海陵王は「余都は容姿はそなたに及ばないが、肌の色がとても白かったので可愛がってやったのだ」と答えた。

昭妃蒲察阿里虎と蓬萊県主完顔重節は母娘であり、完顔重節が海陵王の側室とされると2人の関係は悪化した。また、修儀高氏は糺里(完顔秉徳の弟)の妻だったが、母である完顔氏とともに海陵王の後宮に入れられた。高氏の家のすべての女性が海陵王に奉仕する有様だったという。

宮女とされた辟懶は外に夫があったが、海陵王は県君に封じてこれを犯そうとした。だが、辟懶がすでに妊娠していたのを厭い、麝香水を飲ませ、自ら腹を揉むことで流産させようとした。辟懶は胎児の命を守ろうとし、「乳房はもちろんのこと身体中すべてを使ってご奉仕しますから、だから許してください」と哀願したが、海陵王は聞き入れず、ついに彼女を流産させて事に及んだ。

以上、『金史』の上述の巻によるが、海陵王が帝位を廃されたため、悪行が誇張して書かれている可能性には留意しなければならない。こうした海陵王のすさんだ後宮生活は後世の文学の題材となり、末の口語小説集『醒世恒言』の一編に取り上げられている。

宗室 編集

妻妾 編集

子女 編集

関連系図 編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)昭祖
石魯(シル)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)景祖
烏古廼(ウクナイ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
烏骨出(ウクチュ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劾者(ヘテェ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(追)世祖
劾里鉢(ヘリンボ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劾孫(ヘスン)
 
 
 
 
 
(追)粛宗
頗剌淑(ポラシェ)
 
 
 
 
 
阿離合懣
 
(追)穆宗
盈歌(インコ)
 
習不失
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
撒改(サガイ)
 
(追)康宗
烏雅束(ウヤス)
 
 
 
 
 
(1)太祖0
阿骨打(アクダ)
完顔旻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(2)太宗0
呉乞買(ウキマイ)
完顔晟
 
斜也(シエ)
完顔杲
 
撻懶(ダラン)
完顔昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
粘没喝(ネメガ)
完顔宗翰
 
謀良虎
完顔宗雄
 
(追)徳宗
斡本(オベン)
完顔宗幹
 
斡離不(オリブ)
完顔宗望
 
(追)徽宗
繩果(ジェンガ)
完顔宗峻
 
斡啜(オジュ)
完顔宗弼
 
(追)睿宗
訛里朶(オリド)
完顏宗輔
 
訛魯観(オルゴン)
完顔宗雋
 
蒲魯虎(ブルフ)
完顔宗磐
 
阿魯補
完顔宗偉
 
阿魯(アル)
完顔宗本
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
設野馬
 
 
 
 
 
(4)海陵王0
迪古乃(テクナイ)
完顔亮
 
 
 
 
 
(3)熙宗0
合剌(ホラ)
完顔亶
 
 
 
 
 
(5)世宗0
烏禄(ウル)
完顔雍
 
 
 
 
 
 
 
 
 
烏帯(ウタイ)
完顔宗言
 
 
 
乙卒
完顔秉徳

海陵王を主題にした作品 編集

  • 「私本・荒淫王伝」駒田信二
  • 「金虜海陵王荒淫」(作者不明)

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ のちに海陵王と合せて「十大悪人」とされた、蕭裕完顔秉徳唐括弁烏帯大興国李老僧僕散思恭徒単阿里出虎徒単貞
  2. ^ 海陵王は帝位に就く前から熙宗の皇后(悼平皇后)とも仲がよく、女色家として知られていた[6]。「天下統一」の野望も、宋に劉貴妃(劉希)という絶世の美女がいるという評判を側近(宦官)から聞いたためだったともいわれている[6]
  3. ^ 海陵王の北京遷都は、彼が漢人の文明に心酔していたためもあり[6]、また、彼の理想が中国的な専制国家の完成にあったということも理由として掲げられるが[3]、当時の経済事情もこれにあずかっていた[4]。経済的には、物産豊富な江南が華北よりも実力が勝り、当時としては巨大な人口を擁していた[4]。莫大な人口をもち、南宋との経済関係が密接な華北の統治を、中原から遠く離れた会寧で統制するのはもはや困難になっていた[4]
  4. ^ 海陵王の南宋攻略に際しては戦費調達のために交鈔が初めて紙幣として発行された。
  5. ^ この遠征に対する海陵王の自信を示すものとして、宋の使者に徽宗の玉帯を渡し、側近に「それは貴重なものだから」と押しとどめられると、「いずれ取り戻されるものだ」と嘯いた、という話が伝わっている。
  6. ^ この時、世宗烏禄の立てた大定という年号を聞いて、「宋を滅した後、自分が大定と改元しようと考えていたのに、これが天命というものか」と慨嘆したと伝えられている。
  7. ^ この3人は、親王時代からの側室。
  8. ^ 花不如(? - 1161年12月15日)は、長安の人。美しかったため寵愛された。南征中に海陵王の寝所にはべり、4人の用人と一緒に殺された。

出典 編集

参考文献 編集

  • 梅原郁ほか 著、松丸道雄斯波義信浜下武志池田温神田信夫 編『世界歴史大系 中国史3 五代〜元』山川出版社、1997年8月。ISBN 4634461706 
  • 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 
  • 尾形勇岸本美緒 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年6月。ISBN 978-4-634-41330-6 
    • 宮澤知之杉山正明 著「第4章 東アジア世界の変容」、尾形・岸本 編『中国史』山川出版社〈新版 世界各国史3〉、1998年。 
  • 河内良弘「内陸アジア世界の展開I 2 金王朝の成立とその国家構造」『岩波講座 世界歴史9 中世3』岩波書店、1970年2月。 
  • 佐伯富 著「金国の侵入/宋の南渡」、宮崎市定 編『世界の歴史6 宋と元』中央公論社〈中公文庫〉、1975年1月。 
  • 新宮学「近世中国における首都北京の確立」『明清都市商業史の研究』汲古書院〈汲古叢書〉、2017年4月。ISBN 978-4762960413 
  • 三上次男神田信夫 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年9月。ISBN 4-634-44030-X 
    • 河内良弘 著「第2部第I章2 契丹・女真」、三上・神田 編『東北アジアの民族と歴史』山川出版社〈民族の世界史3〉、1989年。 
  • 三田村泰助『生活の世界歴史2 黄土を拓いた人びと』河出書房新社〈河出文庫〉、1991年5月。ISBN 4-309-47212-5 

典拠史料 編集

  • 金史』巻63 列伝第1「后妃上」
  • 『金史』巻5 本紀第5「海陵」

外部リンク 編集