温羅

岡山県に伝わる古代の鬼

温羅(うら/おんら)は、岡山県南部の吉備地方に伝わる古代の[1]

鬼ノ城にある温羅旧跡碑

本項では温羅の解説とともに、温羅と吉備津彦命に関する「温羅伝説」についても解説する。

概要 編集

温羅とは伝承上の鬼・人物で、古代吉備地方の統治者であったとされる。「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり[2]、伝承によると吉備には吉備津彦命(きびつひこのみこと)が派遣され退治されたという[1]

伝承は遅くとも室町時代末期には現在の形で成立したものと見られ[3]、文書には数種類の縁起が伝えられている。また、この鬼退治伝説は桃太郎伝説の原型に当たるとの説もある。[1]

内容 編集

 
吉備地方の平野(鬼城山から望む)

伝承によると、吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]

討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた[1]。温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした[1]。そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。すると温羅はに化けて逃げたので、五十狭芹彦命はに化けて追った[1]。さらに温羅はに身を変えて逃げたので、五十狭芹彦命はに変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった[1]

討たれた温羅の首はさらされることになったが、討たれてなお首には生気があり、時折目を見開いてはうなり声を上げた。気味悪く思った人々は吉備津彦命に相談し、吉備津彦命は犬飼武命に命じて犬に首を食わせて骨としたが、静まることはなかった。次に吉備津彦命は吉備津宮の釜殿の竈の地中深くに骨を埋めたが、13年間うなり声は止まず、周辺に鳴り響いた。ある日、吉備津彦命の夢の中に温羅が現れ、温羅の妻の阿曽媛に釜殿の神饌を炊かせるよう告げた。このことを人々に伝えて神事を執り行うと、うなり声は鎮まった。その後、温羅は吉凶を占う存在となったという(吉備津神社の鳴釜神事)。この釜殿の精霊のことを「丑寅みさき」と呼ぶ[4]

人物 編集

温羅側

  • 温羅(うら)
    「吉備冠者」「鬼神」とも。
    鬼ノ城を拠点とした鬼。渡来人で空が飛べた、巨体で怪力無双だった、大酒飲みだった等の逸話が伝わる。
    出自についても出雲九州朝鮮半島南部など、文献によって異なる。
  • 阿曽媛(あそひめ)
    温羅の妻。阿曽郷(現・総社市阿曽地区)の祝の娘。
  • 王丹(おに)
    温羅の弟[5]

吉備津彦命側

  • 吉備津彦命(きびつひこのみこと)
    記紀に記載あり。「大吉備津日子命」とも。いずれも吉備平定後の名で、本の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと、比古伊佐勢理毘古命)」。
    第7代孝霊天皇皇子。『日本書紀』では四道将軍に数えられる。『古事記』『日本書紀』とも、吉備へ征伐に派遣されたとする。
    地元では、妃として百田弓矢比売命[6]や高田姫命(たかだひめのみこと)[7]の名が伝わる。
  • 稚武彦命(わかたけひこのみこと)
    記紀に記載あり。「若日子建吉備津日子命」とも。兄を「大吉備津彦命」、稚武彦命を「吉備津彦命」と記す場合もある。
    第7代孝霊天皇皇子で、吉備津彦命の弟。『古事記』では、兄とともに吉備へ派遣されたとする。
  • 犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)
    忠実な家臣といい、桃太郎における犬のモデルとされる[8]。後世、犬養毅がその後裔を称した。
  • 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)
    当地出身の家臣で智将といい、桃太郎における猿のモデルとされる[8]。その出自は県主であったともいい、娘の高田姫命が吉備津彦命に嫁いだともいう[7]
  • 留玉臣命(とめたまおみのみこと)
    「遣霊彦命」とも[7]
    鳥飼に優れた家臣といい、桃太郎における雉のモデルとされる[8]

関係地 編集

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拠点伝承地 編集

 
鬼ノ城
温羅本拠地。
 
吉備津神社備中国一宮
吉備津彦命本拠地。

戦い伝承地 編集

終焉伝承地 編集

その他 編集

  • 皷神社(つづみじんじゃ)
    岡山市北区上高田。
    式内社。吉備津彦命の后という高田姫命を祀る[7]。また、高田姫命の出生地は当地で、その父は県主として当地を治めた楽々森彦命であるという[7]

関係文書 編集

一品(いっぽん)聖霊(しょうりょう)吉備津宮、新宮、本宮、内の宮、隼人崎、北や南の神客人、丑寅みさきは恐ろしや
「丑寅みさき」は温羅伝説によれば吉備津神社釜殿の精霊[13][14]

考証 編集

伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。一方で、製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方[17]、鉄文化を象徴する人物とする見方もある[18]。吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くからの産地として知られており[19]、阿曽媛の出身地の阿曽郷(鬼ノ城東麓)には製鉄遺跡も見つかっている。また、鬼ノ城から流れる血吸川の赤さは、鉄分によるものともいわれる。

また、吉備津神社の本来の祭神を温羅であると見る説もある[20]。この中で、ヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には吉備の祖神、すなわち温羅が祀られていたとし、服属により祭神が入れ替わったと推察されている[21]

注釈 編集

脚注 編集

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集