溝口 盛政(みぞぐち もりまさ)は、江戸時代前期の武士越後国新発田藩士。溝口政友の長男。堀部武庸の母方の祖父。通称は四郎兵衛(しろうべえ)。

 
溝口盛政
時代 江戸時代前期
生誕 不明
死没 貞享2年8月1日1685年8月30日
別名 通称:四郎兵衛
墓所 宝光寺
主君 溝口宣勝宣直
越後新発田藩
氏族 溝口氏
父母 父:溝口政友、母:丹羽久兵衛
兄弟 盛政、又兵衛
正室:溝口秀勝五女・糸姫
後室:柿本正方
斎、溝口長重室、河村彦兵衛室、
南六郎兵衛室、窪田吉直室、政俊
上田角左衛門、中山弥次右衛門室など計3男7女
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出自 編集

父方の溝口家は丹羽氏の出自で、新発田藩主溝口氏との血縁関係はないのだが、溝口秀勝からの祖父・秀友への信任は厚く、特別に溝口姓を与えられて溝口一族となった家柄である。

略歴 編集

新発田藩では700石取りの組頭の地位にあった。藩主からの信任は厚く、秀勝の五女である糸姫を正室に賜った。彼女との間に長男(早世)、長女(溝口長重室)、次女(河村彦兵衛室)、三女(南六郎兵衛室)、四女(窪田吉直室)の一男四女を儲けたが、寛永13年(1636年)10月12日に死別した。

その後同藩家老・柿本正方の娘を後妻に迎えて二男三女を儲けた。このうち六女(後妻との間の2番目の娘)が中山弥次右衛門に嫁ぎ、その間に中山安兵衛が生まれた。天和3年(1683年)に中山弥次右衛門が新発田藩から浪人し、まもなく病死したため、遺児の安兵衛を引き取ったが、盛政もその2年後の貞享2年(1685年)に死去した。宝光寺に葬られた。この後、安兵衛は姉の嫁ぎ先である長井家へ移り、さらに19歳のときに江戸へ出て剣豪として名をあげ、赤穂浅野家家臣の堀部金丸に婿入りすることになる。

なお溝口家の家督は次男・政俊に継いだが(長男は夭折)、のちに政俊は新発田藩から浪人し、溝口姓を捨てて上田と改姓している。

系譜 編集