潮来節(いたこぶし)は、江戸時代の流行歌である。茨城県潮来に起源する。

概要 編集

利根川図志」(1855年)に、潮来曲(いたこぶし)の唄として掲載される小唄は、「さまよ鹿島に神あるならば、あはせたまへや今一度」、「潮来出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋」、「いたこ出島のまこもの中に、あやめ咲くとはつゆしらず」などであるが、これよりも古く「山家鳥虫歌」(1772年)常陸の部3首の中には、「潮来出島のすな真菰(まごも)、殿に刈らせて我ささぐ。さつさおせおせ」、「潮来出てから中島までは、雨は降らねど袖しぼる。さつさおせおせ」という潮来唄を載せるが、おそらくはこれが潮来節の元となった民謡であろうという。

潮来はその最盛期、享保(1716-36)、元文(1736-41)の頃には銚子口から親船が多く来航し、地元の唄が調子を改めて花街の宴席などで行なわれ、船の乗客を相手に調子付けられたために、従来の潮来節が舟唄のような囃子ことばを持つようになった。

まもなく江戸で歌われ、宝暦(1751-64)、明和(1764-72)の頃に流行しはじめ、天明(1781-89)、寛政(1789-1801)の頃の洒落本では、すでに流行した「投節」の名前が消え、しばしば潮来の文字が見える。当時の洒落本の潮来節の小唄は「お前主持ちわたしは抱へ、天井つかへてままならぬ。セイセイセイセイ、トウトウトウトウ」(山東京伝「仕懸文庫」寛政2年)、「潮来好くやうな浮気な主に、ナゼナゼ、惚れた儂が身の因果」(式亭三馬「船頭新話」文化(1804-18)年間)など。

江戸においては、安永(1772-81)の頃から替え歌が増え、遊郭を中心に短い情歌として流行した[1][2]。そして潮来節の変種として、「よしこの節」が生まれ、さらによしこの節の変種として「都々逸」が生まれた[3]

邦楽にも取り入れられ、うた沢では「いたこ出島」の原歌のほかに、「宇治の柴ふね、早瀬をわたる、わたしや君ゆゑ、のぼりふね、アアヨイヤサヨイヤサ」ほかがある。

脚注 編集

参考書籍 編集

  • 仲井 幸二郎、丸山 忍、三隈 治雄『日本民謡辞典』東京堂出版、1972年。 
  • 町田 喜章、浅野 健二『日本民謡集』岩波書店岩波文庫〉、1960年。 
  • 浅野 健二『日本の民謡』岩波書店〈岩波新書(青版)〉、1966年。 

関連項目 編集