濊貊語(わいはくご、かいはくご)は、紀元前数世紀に朝鮮半島と満州に居住していた濊貊によって話されていた言語である。

濊貊語
話される国 朝鮮半島と満州
民族 濊貊
消滅時期 紀元前100年?
言語系統
不明
言語コード
ISO 639-3 hmk
Linguist List hmk
Glottolog なし
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概要 編集

中国史書には、夫余の出自がとみられる記述があり、濊の言語は夫余と同じ[1][2]と記されるが、言語についての詳細は不明である。

「高句麗地名」の濊語 編集

三国史記』に記された「高句麗地名」の記録から、古代朝鮮半島に倭語と同系統の言語が、倭人が定住していた朝鮮半島南部に限らず朝鮮半島の広範囲に分布していたとの説があり、その「高句麗地名」は高句麗語ではなく、濊語であり、倭語と濊語は共通祖語・同系統の言語であるとの説がある[3]。「高句麗地名」の言語を濊語と考えた代表的な研究は河野六郎であり、「高句麗地名」が濊語である可能性は、馬淵和夫兪昌均なども指摘している[3]

  1. 夫余の地には濊が原住していたが、外から貊族の夫余が侵入して濊を支配、「濊王」の称を受け継いだ。
  2. 三国志』夫余条から沃沮の地にも濊が居住していた。
  3. 濊が貊族以前に原住した貊族と別民族だった可能性がある。
  4. 貊族が中国西北辺から匈奴の圧力により東方へ移動した際、この移動に巻き込まれて、満洲に移った。
  5. 濊は貊族の夫余に追われ漸次朝鮮半島を南下し、その過程で貊族と混住するようになり、「濊貊」と称された。
  6. 朝鮮語において「」と「濊」は混同され、中期朝鮮語は「倭」のを「iei」と訓んだが、これは「濊」の字音である。

紀元前後の楽浪郡に存在していた現地民族として確実に存在が確認できるのは濊である。平壌楽浪古墳群から出土した銀印には「夫租薉君」の印記があり、武田幸男は、夫沮(沃沮)すなわち咸鏡道から遠い平壌の地に埋葬されるほどに濊が楽浪郡と関係を深めていたことを指摘している[3]紀元前128年、濊の南閭は、投降し、投降を受けて漢は蒼海郡を設置した[3]武田幸男は、蒼海郡郡治咸南咸興永興に比定しており、紀元前2世紀に濊が咸鏡南道で活動していたことになる。『魏書』東夷伝韓条には「桓霊之末,韓濊彊盛,郡県不能制,民多流入韓国。」とあり、濊が韓人と共闘して中国の郡県支配に抵抗していた。『魏書』東夷伝濊条は「自単単大嶺以西属楽浪郡,自領以東七県,都尉主之。皆以濊為民。」とあるため、楽浪郡「民」が濊であることがわかる。『魏書』東夷伝韓条は「国出鉄,韓・濊・倭皆従取之。」とあり、濊は、弁韓(朝鮮半島南端)でと接していた。また、迎日郡出土とされる銅印には「晋卒善穢佰長」の印記がある。以上から、濊の活動範囲は西南部を除く朝鮮半島の広範囲に及んでいた[3]吉本道雅は、「近年の考古学的知見をも勘案すれば、江陵など江原道南部への新羅の文化的影響は夙に四世紀後半に認められるが、六世紀半ばには、『濊人』はなお高句麗の指揮下に百済新羅と交戦しえたのであり、江原道全域が新羅の支配化に入るのは、それ以降のことである」と述べている[3]李成市は、『三国史記』巻四十・蜀官志・武官条に登場する「靺鞨国民」は濊を指していると指摘しており、統一新羅以降も濊は「靺鞨国民」の名で存在していた。したがって、紀元前2世紀から統一新羅以降を含む長期間、咸鏡江原慶北を中心とする朝鮮半島日本海岸の広範囲で濊が活動していた[3]

脚注 編集

  1. ^ 後漢書』東夷伝
  2. ^ 三国志』東夷伝
  3. ^ a b c d e f g 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、371-373頁。