焚書

書物や公文書等を思想統制等の目的で破棄する行為

焚書(ふんしょ、: book burning)は、書物を焼却する行為。通常は、支配者や政府などによる組織的で大規模なものを指す。言論統制検閲禁書などの一種でもあり、特定の思想学問宗教等を排斥する場合、逆に特定の思想等以外を全て排斥する場合がある。現代では書物の他、レコード写真磁気テープディスクメディアなどの情報格納メディアも対象に含まれる場合がある。電子書籍に対して検閲、消去、改変、アクセス制限する行為を「デジタル焚書」と呼ぶことがある[1]

歴史的に著名な例には焚書坑儒や、ナチス・ドイツの焚書などがある。

主な焚書 編集

始皇帝の焚書 編集

 
儒者を生き埋めにし、書を燃やすようすを描いた18世紀中国絵画

秦の始皇帝は、紀元前213年李斯の提案にしたがって、焚書を行った。その内容は、次の通りであった。

  1. 秦以外の諸国の歴史書の焼却。
  2. 民間人は、医学占い農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する。
  3. 30日以内に守尉に渡さなかった場合、入墨の刑に処する。
  4. 法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。

始皇帝の焚書により、様々な書物の原典が失われた。しかし、壁の中に書物を隠す[注 1]などして書物を守った人もおり、それが、秦の滅亡後再発見され、研究に役立った。また、儒教の書物が狙われたと考えられがちであるが、他の諸子百家の書物も燃やされた。

パリのタルムード裁判 編集

1242年、タルムードはキリスト教を冒涜する内容を含んでいるとする告発によって、ユダヤ人からタルムードの写本が没収・焚書された。

ユダヤ教の共同体から追放され、キリスト教に改宗したユダヤ人ニコラ・ドナンが、タルムードを非難する書簡をローマ教皇グレゴリウス9世に送った。その告発を信じた教皇は、タルムードの写本をすべて押収・調査し、告発内容が裏付けられた場合、焚書にせよという勅令を出した。フランス国王ルイ9世はこれを前向きに受け止め、キリスト教徒とユダヤ教徒に公開討論させ、馬車24台分1万冊に上るタルムードの写本をグレーヴ広場で燃やした。

コンキスタドールによる焚書 編集

 
ディエゴ・デ・ランダがマヤの神々の像を燃やすようすを描いた壁画(Fernando Castro Pacheco作)

スペインによるアメリカ大陸の植民地化で、アメリカ先住民によって書かれた多くの書物が焚書された。

ユカタン半島征服の際、司祭ディエゴ・デ・ランダの命令で27冊のマヤの写本と約5000体のマヤの神々の像が焼却された。この理由についてディエゴ・デ・ランダは「すべて迷信と悪魔に関するものであったために焼き捨てた」と記している。現存するマヤの写本は、大部分が破損したものを含めて4冊のみである。

ナチス・ドイツの焚書 編集

 
ナチス・ドイツの焚書(1933年

ナチス政権掌握後から組織的な焚書を行い、カール・マルクスなどの社会主義的な書物や、ハインリヒ・ハイネエーリッヒ・ケストナーハインリヒ・マンベルトルト・ブレヒトエーリヒ・マリア・レマルククルト・トゥホルスキーカール・フォン・オシエツキーなどの、「非ドイツ」的とみなされた多くの著作が燃やされた。

また、売れない画家としての前歴を持つアドルフ・ヒトラーは、それまでの芸術の規範を飛び越えた近代的な芸術を退廃芸術とレッテル貼りして嫌悪・弾圧し、それに代わって肉体美や農村などを美化した「古き良き」芸術を大ドイツ芸術展を開いて称揚した。

ルーマニアによる焚書 編集

バルバロッサ作戦によってベッサラビアを占領したルーマニアは、図書館の蔵書を没収し、ルーマニア語以外の書籍をすべて焚書した。

ベッサラビアのルーマニア化政策の一環として、キシナウでは120万冊、ティラスポリでは25万冊を焚書。バルツィではルーマニア軍が15台の貨車に積まれた書籍を燃やした。書籍だけでなくレコードも対象となった。

日本の三ない運動 編集

エロ・グロ雑誌の追放を主張した運動で、「見ない・買わない・読まない」という意味から「三ない運動」と名付けられた。民間団体が主導した様に見せかけられていたが、政府・警察組織が裏で手を引いていたことが知られている。

第3次吉田第1次改造内閣厚生大臣であった黒川武雄の妻で、赤坂少年母の会会長であった黒川博子が、身の回りにある問題雑誌・問題書籍をなくそうと主張して、35冊を焚書したのを皮切りに、母の会連合会が「悪書追放大会」を開いて約6万冊の雑誌やマンガが焚書されるに至るまでにエスカレートした。

チリの焚書 編集

 
マルクス主義の書籍を焼くピノチェト派の兵士(1973年

アウグスト・ピノチェト陸軍大将率いる軍事政権による思想統制の一環として、マルクス主義関連の書籍を筆頭に、政権のイデオロギーに反する書籍は、新聞や雑誌に至るまで燃やされた。ガブリエル・ガルシア=マルケスの著書『戒厳令下チリ潜入記』は、刊行された約15,000冊が税関で押収・焼却された。

2010年クルアーン焼却論争 編集

キリスト教の牧師テリー・ジョーンズによるクルアーンを燃やすパフォーマンスによって、中東や南アジアで暴力的な抗議が発生し、多数の死者を出した。

テリー・ジョーンズは2010年のアメリカ同時多発テロ事件の日にクルアーンを200冊焼却する計画を発表し、これを「国際クルアーン焼却日」と名付けた。この計画は実行には移さず、今後クルアーンを燃やさないとも宣言したが、翌年2011年、フロリダ州ゲインズビルの教会で「国際クルアーンを裁く日」(International Judge the Koran Day)と名付けたパフォーマンスを行い、教会の敷地でクルアーンを燃やした。更に翌年2012年、「国際ムハンマドを裁く日」(International Judge Muhammad day)と名付けたパフォーマンスを行い、預言者ムハンマドに見立てた人形とクルアーンを燃やした。

ロシアのウクライナ侵攻にともなう焚書 編集

ウクライナに侵攻したロシアは、占領地の図書館の蔵書を押収・焼却・廃棄した。

ウクライナの歴史や文化に関する書籍、ソ連の弾圧に関する公文書などが狙われた。2014年ウクライナ紛争では、クリミア、ドネツク、ルハーンシクの図書館の蔵書が押収・廃棄されている。2022年ロシアのウクライナ侵攻では、マリウポリのペトロー・モヒーラ教会図書館は蔵書をすべて焼却され、プリアゾフスキー国立工科大学図書館では蔵書を廃棄された。

その他 編集

関連項目 編集

焚書
戦時・火災による焼失

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 当時は、紙が発明されていなかったので、もっぱら木簡や竹簡に文章が書かれていた。そのため、壁に埋めて、上から塗りこめても書物が劣化する可能性は低かった。
  2. ^ Das war ein Vorspiel nur, dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man auch am Ende Menschen.

出典 編集

  1. ^ Jonathan Zittrain: 'Digital books are under the control of distributors rather than readers'”. 2013年7月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年6月29日閲覧。

外部リンク 編集