曹熾

後漢の侍中、長水校尉

曹 熾(そう し、永憙元年(145年) - 光和6年(183年))は、中国後漢時代の人物。元盛[1]。父は曹褒。子は曹仁曹純[2]豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。

事績

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後漢の霊帝の時代までに侍中・長水校尉を務めた[2]建安25年(220年[3]曹丕王に即位すると陳穆侯が追贈され、墓守りの家が10軒つけられた[4]

墓所

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水経注』の巻23「陰溝水」に曹操の一族にまつわる墓所についての記載があり、曹熾の墓所についても触れられている[5]。1970年代に入り、中国安徽省で水経注の記載に基づく考古学調査が行われた際に多くの曹一族の墓所が発見され、曹操の宗族である曹騰曹嵩、曹熾の父・曹褒らとともに曹熾の墓碑の破片も出土し、そこには水経注記載の文字が刻まれていた[6]

2001年、墓所一帯は曹操宗族墓群中国語版として、中華人民共和国国務院より、同国の全国重点文物保護単位に指定された[7][8]

参考文献

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脚注

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  1. ^ 近藤喬一「三国両晋の墓制と鏡」アジアの歴史と文化 7巻、2頁。2003年。[1]
  2. ^ a b   三國志 魏書·諸夏侯曹傳 (中国語), 三國志/卷09#曹仁, ウィキソースより閲覧。  - 魏書曰:仁祖褒,潁川太守。父炽,侍中、長水校尉。
  3. ^ 『三国志』魏書 文帝紀
  4. ^   三國志 魏書·諸夏侯曹傳 (中国語), 三國志/卷09#曹仁, ウィキソースより閲覧。  - 文帝在東宫,(中略)及即王位,拜仁车騎將軍,都督荆、揚、益州諸軍事,進封陳侯,增邑二千,并前三千五百户。追賜仁父炽諡曰陳穆侯,置守冢十家。
  5. ^   水經注卷二十三 陰溝水 汳水 獲水 (中国語), 水經注/23#陰溝水, ウィキソースより閲覧。  - 沙水自南枝分,北逕譙城西,而北注濄。濄水四周城側,城南有曹嵩冢,冢北有碑,碑北有廟堂,餘基尚存,柱礎仍在。廟北有二石闕雙峙,高一丈六尺,榱櫨及柱皆雕鏤雲矩,上罦罳已碎,闕北有圭碑,題云:《漢故中常侍長樂太僕特進費亭侯曹君之碑》,延熹三年立。碑陰又刊詔策二,碑文同。夾碑東西,列對兩石馬,高八尺五寸,石作麤拙,不匹光武隧道所表象馬也。有騰兄冢,冢東有碑,題云:漢故潁川太守曹君墓,延熹九年卒。而不刊樹碑歲月。墳北有其元子熾冢,冢東有碑,題云:《漢故長水校尉曹君之碑》。歷大中大夫、司馬長史、待中,遷長水,年三十九卒,熹平六年造。
  6. ^ 中国政法大学 汉・残碑记
  7. ^ 换角度看历史:2000年前工匠砖上刻字嫌“钱少活重”
  8. ^ 曹操宗族墓群