削除された内容 追加された内容
(6人の利用者による、間の20版が非表示)
1行目:
{{Infobox 作家
'''中城 ふみ子'''(なかじょう ふみこ、[[1922年]]([[大正]]11年)[[11月25日]]〈家族の記録によれば[[11月15日]]〉 - [[1954年]]([[昭和]]29年)[[8月3日]])は、日本の[[歌人]]。[[北海道]][[河西郡]]帯広町(現・[[帯広市]])出身。旧姓は野江富美子、妹の[[野江敦子]]も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、[[寺山修司]]とともに現代短歌の出発点であると言われている。
| name = 中城ふみ子
| image = Nakajo-Humiko9.jpg
| image_size =
[[ファイル:Nakajo-Humiko9.jpg|thumb|200px| caption = 帯広川を散策するふみ子1951年(昭和26年)撮影。]]
| pseudonym = <!--ペンネーム-->
| birth_name = 野江富美子
| birth_date = [[1922年]][[11月25日]]
| birth_place = 北海道河西郡帯広町
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1922|11|25|1954|08|03}}
| death_place = 北海道札幌市札幌医科大学附属病院
| resting_place = <!--墓地、埋葬地-->
| occupation = 歌人
| language = <!--著作時の言語-->
| nationality = {{JPN}}
| ethnicity = <!--民族-->
| citizenship = <!--市民権-->
| education = <!--受けた教育、習得した博士号など-->
| alma_mater = 東京家政学院
| period = <!--作家としての活動期間、デビュー作出版から最終出版まで-->
| genre = <!--全執筆ジャンル-->
| subject = <!--全執筆対象、主題(ノンフィクション作家の場合)-->
| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
| debut_works = <!--デビュー作-->
| notable_works = 歌集「乳房喪失」
| spouse = <!--配偶者-->
| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->
| children = <!--子供の人数を記入。子供の中に著名な人物がいればその名前を記入する-->
| relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する-->
| production = <!--所属-->
| influences = <!--影響を受けた作家名-->
| influenced = <!--影響を与えた作家名-->
| awards = <!--主な受賞歴-->
| signature = <!--署名・サイン-->
| years_active = <!--活動期間-->
| website = <!--本人の公式ウェブサイト-->
| footnotes = <!--脚注・小話-->
}}'''中城 ふみ子'''(なかじょう ふみこ、[[1922年]]([[大正]]11年)[[11月25日]]〈家族の記録によれば[[11月15日]]〉 - [[1954年]]([[昭和]]29年)[[8月3日]])は、日本の[[歌人]]。[[北海道]][[河西郡]]帯広町(現・[[帯広市]])出身。旧姓は野江富美子、妹の[[野江敦子]]も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、[[寺山修司]]とともに現代短歌の出発点であると言われている。
 
== 概要 ==
中城ふみ子は1922年(大正11年)11月、北海道河西郡帯広町で生まれた婚姻前の本名は野江富美子である地元帯広の帯広尋常高等小学校を卒業後、[[北海道帯広三条高等学校|北海道庁帯広高等女学校]]に進学する。少女時代のふみ子は文学作品を読みふける文学少女であった。また、帯広高等女学校時代から短歌を詠み始めた。高等女学校を卒業後は上京して、[[東京家政学院大学|東京家政学院]]に進学する。東京家政学院時代のふみ子は恵まれた教育環境、良き友人らに恵まれて青春時代を謳歌する。その中で学院で文学を教えていた[[池田亀鑑]]から、和歌の薫陶を受ける。
 
青春を満喫した東京家政学院時代が終わると、実家から即座にお見合いの話が持ち込まれ、婚約が成立したもののふみ子の意志で破棄をする。しかし[[1942年]](昭和17年)、[[鉄道省]]の[[札幌]]出張所に勤めていた中城博と婚姻することになった。中城博とは性格が合わず、結婚当初から大きな不満を抱いていたふみ子であったが、生後3か月で亡くなった次男の徹を含め、4人の子宝に恵まれた。
 
中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は[[1949年]](昭和24年)8月には[[日本道|国鉄]]を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局[[1950年]](昭和25年)5月に夫婦別居となった。
 
戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い[[結核]]にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は[[1951年]](昭和26年)9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の[[挽歌]]はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫中城博と正式に離婚となる<ref>中島(2004)p.77、菱川(2007)pp.53-55、佐方(2010)pp.109-112、柳原(2011)pp.91-92</ref>
 
ふみ子は夫中城博との別居前後から[[1954年]]8月に癌で亡くなる直前まで、様々な男性との浮名を流すようになる<ref>中井(2002)p.586</ref>。ふみ子はその自らの生と性を歌に詠み込んでいった<ref>中井(2002)p.576</ref>。一方で子どもたちに対しても深い愛情を注ぎ続け、子どもを詠んだ短歌もまた評価が高い<ref> 馬場、安永、尾崎(1992)p.82</ref>。しかし短歌に情熱を注ぎ、地元北海道では名の通った歌人となり始めていたふみ子は[[乳がん]]にかかり、左乳房の切除手術を受けるがその後再発する<ref>小川(1995)p.152、中島(2004)pp.128-130、佐方(2010)pp.160-161</ref>
 
乳がんの再発後、ふみ子は死を覚悟した。ちょうどその頃、日本短歌社の「短歌研究」が読者詠の公募である五十首応募を実施した。乳がん治療のため[[札幌医科大学附属病院]]に入院することになったふみ子は、入院直後、五十首応募に投稿した。また迫りくる死を前にして自作歌集の出版を企図し、[[川端康成]]に自作集のノートと歌集序文の執筆依頼の手紙を送る。
 
結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が[[角川書店]]に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる<ref>中井(2002)pp.371-373</ref>
 
激しい反発や戸惑いはやがて沈静化し、ふみ子の作品は広く受け入れられるようになる。そして前衛短歌の草分けのひとり、女流歌人興隆のきっかけを作ったと評価され、作品そのものも多くの歌人たちに多大な影響を与え、現代短歌の出発点であると言われるようになった<ref>上田(1969)p.111、pp.122-124、馬場、安永、尾崎(1992)p.84、中井(2002)p.667、本多(2017)p.82</ref>
 
== 生涯 ==
62 ⟶ 99行目:
 
[[ファイル:Nakajo-Humiko5.jpg|thumb|180px|東京家政学院の卒業アルバムのふみ子。]]
東京家政学院時代のふみ子にはボーイフレンドもいた。ふみ子が「お兄様」と呼んだ樋口徹也である。樋口は[[慶應義塾大学]]の予科生で美男子であった。当時の友人は後に「ふみ子さんは、きれいな人でないと駄目なんですから」と評している<ref>小川(1995)p.53、佐方(2010)p.27、柳原(2011)p.37</ref>。昭和10年代の自由な男女交際が困難であった時代、友人たちはふみ子の行動に驚いたが、在学中から樋口は航空隊に志願しており、卒業後は特別志願航空兵となったため交際は長続きしなかった。またふみ子は長女、樋口が長男であったことも二人の交際をゴールインさせることの障害になったと考えられる<ref group="†">ふみ子の夫となった中城博の手記によれば、ふみ子は樋口と深い関係にあったことを告白したというが、柳原(2011)p.36にあるように各資料とも懐疑的である。</ref><ref>小川(1995)pp.52-55、佐方(2010)pp.26-28</ref>。
 
東京家政学院時代、ふみ子は池田亀鑑主催の「さつき短歌会」に参加した。短歌会では池田が短歌の添削指導も行っており、ふみ子は短歌作りに熱中するようになった。短歌の世界に目が開いたふみ子が特に魅かれたのが[[与謝野晶子]]の短歌であったという。東京家政学院時代のふみ子の短歌はさつき短歌会の詠草集「ひぐらし抄」、「おち葉抄」に掲載されている<ref>佐方(2010)pp.24-31、柳原(2011)pp.33-34</ref>。
74 ⟶ 111行目:
見合いの相手はふみ子のタイプではなかった。結婚を自らの意志ではなく決められてしまうことも嫌であった。そして東京時代のボーイフレンド、樋口徹也への思いも断ち切れていなかった。結局、見合い相手の歯科医と婚約することになり、婚約者の優しさは認めたものの、ふみ子の心は満たされなかった。思い悩むふみ子には戦時体制が強化されつつあった状況も圧し掛かってくる。日本の現状と自分の考え方、生き方が合致していないのではないか……ふみ子は様々に思い悩みながらも、母に婚約解消を強く訴え続けた。怒った母はふみ子に布団蒸しの折檻も加えたというが、ついにふみ子は家出を決行する。この家出は[[函館駅]]付近で知人に見つけられ、連れ戻されたが最終的に婚約は解消されることになった<ref>小川(1995)pp.58-65、佐方(2010)pp.36-41</ref>。
 
帯広ではふみ子の婚約破棄は話題となった。親が選んだ恵まれた条件の青年との婚約を破棄したことは当時としては珍しい出来事であり、ふみ子と家族は周囲からの非難と好奇の目に晒されることになった。そのような中でふみ子は家業である商売を積極的に手伝ったり、得意であった料理つくりなど家事を手伝うなど懸命に働いた<ref>中島(2004)p.29、佐方(2010)pp.41-43</ref>。この頃になると戦時体制がふみ子に大きく影響していくようになる。聖戦を称え、これまでの自分本位の生き方を反省し、自分をある程度殺して従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしたのである<ref>小川(1995)pp.65-66、佐方(2010)pp.47-48</ref>。
 
[[ファイル:Nakajo-Humiko7.jpg|thumb|200px|1942年(昭和17年)4月26日、結婚式で花嫁衣裳を着たふみ子。]]
このようなふみ子のもとに再度、お見合いの話が舞い込んできた。今度の相手は[[北海道大学|北海道帝国大学]]の工学部を卒業し、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博であった。先に婚約破棄をした青年と比べて「財産は無く、意地っ張りで寛大でもない」が、「頭が良くきれいな」青年であった。戦時体制下、幸福になれる自信が無いとためらいを見せながらも、戦時体制が強まる中、自分をある程度殺して。従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚を了承する。ふみ子の家族にとっても前回の婚約破棄の負い目もあった<ref>小川(1995)pp.67-70、佐方(2010)pp.50-52</ref>。ふみ子と中城博との結婚式は1942年(昭和17年)4月26日、[[北海道神宮|札幌神社]]で行われた<ref>佐方(2010)pp.52-53</ref>。
 
=== 結婚生活とその破綻 ===
=== 戦中期の生活 ===
ふみ子と夫、中城博との結婚生活は札幌市にあった鉄道省工事事務所官舎で始まった。戦時体制下、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚はしたものの、まもなく深い絶望感に囚われるようになる。東京家政学院時代の親友に「私たちの結婚は不幸から出発してゐるのです」と、手紙に書いている。「私は理想主義ですし、夫は現実的でありすぎ」とも書いている。夫に離婚を切り出すものの承知してくれない。ふみ子は九州の東京家政学院時代の親友宅に逃げ出そうと計画するが、体調を崩してしまう。体調不良の原因は妊娠であった。妊娠後も心の葛藤は続いたが、結局、離婚や夜逃げは断念することとなった<ref>小川(1995)pp.71-74、佐方(2010)pp.53-56</ref>。
 
[[1943年]](昭和18年)1月、夫、中城博は[[室蘭]]に転勤となり、5月8日には長男、孝が生まれる。翌[[1944年]](昭和19年)2月、夫、博は今度は[[函館]][[五稜郭]]出張所に転勤となり、4月には五稜郭出張所所長に就任した。この頃発行された帯広高等女学校の同窓生便りにふみ子も短文を寄稿しているが、その中で「家庭に入って歌も随分作りましたけど、発表禁止でございます」と書いている<ref group="†">ふみ子が歌の発表禁止を記している高等女学校の同窓生便りについては、小川(1995)pp.77-78では昭和19年のことと判断しているが、佐方(2010)pp.65-67では、内容的に春に執筆された文章で、昭和19年ないし20年のものと推定している。</ref>。ふみ子は夫から短歌の発表を止められていたと考えられる。五稜郭出張所所長に就任するなど、夫、中城博は出世コースを歩んでおり、この頃は夫婦関係も一応安定していたと考えられる。戦時中のふみ子は[[国防婦人会]]の班長を務め、班の事務をそつなくこなし、勤労奉仕にも積極的に参加していたという。しかしまもなく夫婦関係に修復し難い亀裂が入っていくことになる<ref>鍋山(1954)p.35、小川(1995)pp.76-78、佐方(2010)pp.56-62、pp.65-67、柳原(2011)pp.57-58</ref>。
 
夫の転勤に伴い函館での生活を始めたふみ子は、第2子を妊娠していた。長男の誕生時は母のきくゑが室蘭へやって来てお産の説代をしたが、今度はきくゑが[[腎臓]]の手術後で函館まで行けなかったため、ふみ子は帯広の実家で里帰り出産をすることになった。8月25日、ふみ子は次男、徹を出産する。次男誕生の直後の27日、夫、徹の母が急逝する。後に中城博が発表した手記によれば、夫としては実家に帰っていて母の死を看取ることが無かった妻に大きな不満を抱いたという。そして生まれたばかりの次男の徹は病弱であり、11月8日に亡くなってしまう<ref>中島(2004)pp.37-39、佐方(2010)pp.63-65、柳原(2011)pp.58-59</ref>。
104 ⟶ 141行目:
当時の短歌の主流は[[アララギ]]の影響を受け、写生を基本としたものであった。花嫁衣裳の帯が子どもたちが食べる白米になったという、戦後の混乱期の生活実態をありのままに切り取った作風は、当時のふみ子が写生を基本とした歌を詠もうとしていたことが見えてくる。後者の句は、夫婦間の亀裂が深まる中でも離婚にまで踏み切ることは出来ず、耐えて好きな短歌に己を託した姿が見える。前述のように夫からは短歌の発表を禁じられていたと考えられ、禁を犯しての発表はふみ子の切羽詰まった思いがあった<ref>佐方(2010)pp.70-73、柳原(2011)pp.62-64</ref>。
 
一方、新興の文芸雑誌であるポプラには、ふみ子はやはり1946年から短歌の投稿を始めている。これは北海道新聞に掲載された雑誌創刊の広告を見て、ふみ子が購読の申し込みと短歌の投稿を始めたものであった。しかしポプラにはふみ子が投稿した歌は載っていない<ref group="†">雑誌のポプラにはふみ子の詠んだ短歌は掲載されていないが、柳原(2011)pp.64-65によれば、1947年4月に発行されたポプラ詞華集には冒頭に3首、ふみ子が詠んだ短歌が掲載されている。これはポプラ主催者の川口清一の判断であった。</ref>。これはふみ子から雑誌に発表しないで欲しいとの依頼があったためである。なぜポプラへの短歌掲載を断ったのかというと、発行されたポプラの内容から、レベルが低すぎて作品発表の場としてふさわしくないと判断したためだと考えられている。実際「もう少し程度の高い大人の雑誌を作ってください」と、ポプラの主催者宛の苦言を述べた手紙が残っている<ref>小川(1995)pp.82-83、佐方(2010)pp.79-82、柳原(2011)p.65</ref>。
 
ポプラの主催者は当時、20歳を過ぎたばかりの川口清一であった。内容に苦言を呈しながらも川口を励ましたりもしている。川口はふみ子に強い関心を抱いたものの、それに気づいたふみ子からは、「それでもやはり家庭生活を愛しております」、そして「昔少女であった頃にありとあらゆる心で愛した人と別れてからは、異性への愛情は枯れてしまいました」などと川口に書いた手紙が残っている。一度だけふみ子に会った川口は晩年「生涯で会った、知的近代的という言葉がぴったりの、もっとも美しい女性」と評している<ref>小川(1995)pp.83-88、佐方(2010)pp.79-85</ref>。
 
==== 新墾と辛夷短歌会 ====
125 ⟶ 162行目:
==== 帯広への帰還と夫婦の別居 ====
[[ファイル:Nakajo-Humiko11.jpg|thumb|200px|1949年(昭和24年)、故郷帯広に戻った頃、ふみ子と二児。]]
[[1949年]](昭和24年)4月、ふみ子は高松から帯広の実家に戻った。この時、三男の潔のみを連れて帰ったとの説と、3人の子ども全員を連れて帰ったとの説がある<ref>小川(1995)pp.95-96、佐方(2010)pp.108-109、柳原(2011)p.79</ref>。8月には夫、[[日本道|国鉄]]を退職して帯広にやって来た。先にふみ子が三男のみ連れ帰ったとの説では、この時、が上の二人の子どもを連れて帯広に来たことになっている。いずれにしても19481949年8月以降、ふみ子の家族は帯広で生活を始めた<ref>小川(1995)p.97、佐方(2010)p.111、柳原(2011)p.79</ref>。
 
ふみ子の父の野江豊作は、国鉄を退職した中城の職探しに奔走する。結局、[[北海道帯広柏葉高等学校|帯広商工学校]]の土木・建築科の教師の職が見つかり、10月から勤め始めた。帯広で心機一転、やり直しを図ろうとしたものの、プライドが高い博にとって、妻の実家に高校教師の職を世話されたことや、そもそも田舎である帯広での教師職自体に不満を持った。夫婦間の諍いは絶えず、この頃、はしばしばふみ子のことを口論の末、殴っていたという<ref>小川(1995)p.97、山名(2000)p.21、佐方(2010)p.111</ref>。
 
1949年の年末、は同僚の教師たちにしきりと利殖の話を勧めていた。この利殖の話は一種の[[ねずみ講]]であった。高校教師の仕事もそこそこに、は事務所を構えて金融関係の仕事を始めた。結局[[1950年]]3月には高校を辞めてしまう。しかし金融関連の仕事は上手く行かなかった。その後、博はふみ子の実家、野江家近くにあった建設会社で働くようになるが、そこでも問題を起こしている。上手く行かなかった金融関連の仕事や、建設会社で引き起こした問題の後始末は結局、ふみ子の実家の野江家が行った。また1950年1月にふみ子は[[堕胎]]をした。生活が苦しく、これ以上子どもを持つことは出来なかった<ref>小川(1995)pp.97-98、中島(2004)p.69、小川(1995)pp.97-98</ref>。
 
教師を辞めた夫、の生活は更に乱れていった。ほどなくには愛人が出来た。結局1950年5月、ふみ子夫婦と仲人、そして両親ら親族が集まって話し合いがもたれ、夫婦の別居が決まった<ref>山名(2000)p.22、佐方(2010)p.112、柳原(2011)p.83</ref>。
 
==== 辛夷短歌会の歌会参加と大森卓との出会い ====
154 ⟶ 191行目:
{{Quotation|生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし}}
 
[[ファイル:Nakajo-Humiko9.jpg|thumb|200px|帯広川を散策するふみ子、1951年(昭和26年)撮影。]]
[[1951年]](昭和26年)1月、病床にあった大森卓が創刊に尽力した短歌雑誌「山脈」の創刊号にふみ子は、「わが想う君」と題し、上記のような大森卓に対する激しい恋慕を詠んだ句を発表する。あまりにも赤裸々な思いを詠んだふみ子の句は当然話題となったが、噂を恐れるようなことは無かった。しかし大森との関係の終焉は意外と早かった<ref>小川(1995)pp.105-106、中島(2004)p.78、佐方(2010)p.127、柳原(2011)p.92</ref>。
 
168 ⟶ 204行目:
 
==== 子どもへの思いと正式離婚 ====
中城博との別居生活の中で、大森卓への激しい恋の他、石川一遼、高橋豊との出会いもあったが、夫と別れ3人の子を育てる母としての気持ちを忘れることは無かった。
 
{{Quotation|悲しみの結実(みのり)の如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ}}
174 ⟶ 210行目:
大森卓との出会いはふみ子に大きな影響を与えたが、ふみ子自身も短歌への精進を怠らなかった。東京家政学院時代、恩師の池田亀鑑から短歌の他に[[源氏物語]]、[[万葉集]]を学んでいたが、結婚後も万葉集を読むなど古典学習も継続していた。そして短歌の結社参加も、これまでの「新墾」、「山脈」に加え、1951年からは女性歌人による「女人短歌」にも参加する。実力をめきめきとつけてきたふみ子の、母として子どもを詠んだ句は評価が高い<ref>中井(2002)p.500、中島(2004)p.88、佐方(2010)pp.131-133、pp.138-140</ref>。
 
ところで夫博との別居後、ふみ子の父母は1950年8月から呉服店を始めていた。ふみ子は2名のお手伝いさんとともに得意の料理の腕を振るい、従業員やその家族などの分も含む約30名の食事作りに明け暮れた。当時ふみ子が詠んだ短歌の中には、呉服店の食事作りに励み、呉服店で働く店員らの情景など日常生活を詠んだものも見られる<ref>小川(1995)p.132、山川(2008)pp.148-149、佐方(2010)pp.131-132</ref>。
 
別居中の夫中城博はしばらくの間、帯広で生活していたが、やがて札幌へと帰った。ふみ子との離婚条件が中城家との間で話し合われ、結局話し合いがまとまり、1951年10月2日に正式に離婚が成立する。離婚の条件は末っ子の潔を中城家に引き渡すことであった<ref group="†">佐方(2010)p.134によれば、別夫のもとで生活することになる潔を含め、子どもたちの親権はふみ子が持っていた。</ref>。潔が別夫の元で暮らすようになり、ふみ子は長男孝、長女雪子の2人の子どもと暮らすようになる<ref>小川(1995)pp.130-132、中島(2004)pp.88-91、佐方(2010)pp.133-134</ref>。なお、離婚後もふみ子は旧姓の野江に戻ることは無く中城姓で通した。姓を戻さなかったことについてふみ子は「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるのであるから、中城といふ姓に愛着を捨て切れない」と語っていたという<ref>小川(1995)p.223</ref>。
 
=== 乳癌の発病 ===
182 ⟶ 218行目:
ふみ子の死の直前に、ふみ子自身が撰歌した歌集「乳房喪失」が刊行されたが、その構成内容から判断して、1951年10月2日の離婚した頃には自らの体の変調を感じ取っていた可能性が指摘されている<ref>佐方(2010)p.227</ref>。
 
離婚直後の10月24日、ふみ子は家族に黙って2人の子を置いて東京へ出奔した。出奔時、ふみ子が持っていたのはバックとトランク一つつであり、まずは東京家政学院時代の友人を頼る心積もりであった、東京行きの決意を聞かされた歌友の舟橋精盛は、あまりの突然の話に止めるよう説得するも聞き入れなかった。東京行きの途中、ふみ子は当時札幌に居て文通中であった高橋豊と会っている。高橋もあまりに無謀な出奔に驚き呆れ、やはり止めるよう説得するも無駄であった<ref>小川(1995)pp.134-135、中島(2004)pp.97-100、佐方(2010)p.148</ref>。
 
上京したふみ子はまず[[蒲田]]に住んでいた東京家政学院時代の友人を頼った。ふみ子は手に職をつけた上で子どもたちを東京に呼び寄せ、生活していきたいと考えていた。蒲田の友人宅には約一週間滞在した後、渋谷区富ヶ谷のアパートに移り、タイピストの養成学校に通い始めた。東京ではふみ子は蒲田の友人とともに[[NHK]]で働いていたかつてのボーイフレンド樋口徹也に会いに行っている。青春時代ふみ子が憧れ、「お兄様」と呼び情熱を燃やした樋口は変わっていた。何よりふみ子自身が変わっていた。再会は果たしたもののお茶も飲まず、ほんの立ち話程度で樋口との再会は終わった<ref>小川(1995)pp.135-137、p.141、中島(2004)pp.100-101、佐方(2010)p.149</ref>。
 
東京でふみ子は空いた時間に[[岡本太郎]]の絵画展に行ったり、[[歌舞伎座]]に行ってみたりもした。しかしさしたる用意もせずに上京してきたつけにふみ子が直面するのも早かった経済的に行き詰ってきたのである。やむなく[[キャバレー]]でホステスをしたり、インドカレー店の求人に応募して採用されたものの、体調がすぐれないために働くことはなかった。この頃すでにふみ子の体に癌が成長しつつあった。結局、11月18日、仕事の仕入れ関係で上京してきた母に連れられて帯広に戻ることになり、ふみ子の一か月足らずの東京生活は終わった<ref>小川(1995)pp.139-140、中島(2004)pp.102-103、佐方(2010)pp.152-154</ref>。
 
年末、ふみ子は札幌の高橋豊にクリスマスカードを送っている。その中でふみ子は無謀であった東京出奔の反省を述べるとともに、「結局は歌にでもすがって己の不幸を見つめるより仕方ない私なのです」と書いている<ref>中島(2004)pp.103-104</ref>。
200 ⟶ 236行目:
{{Quotation|音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる}}
 
夜、花火が打ちあがる中、恋人、木野村英之助に体を与える情景を大胆に詠み込んだこの歌は、中城ふみ子をモデルとした[[渡辺淳一]]の小説冬の花火の中でクライマックス場面として取り上げられている<ref>菱川(2007)pp.79-80、佐方(2010)p.175</ref>。
 
==== 乳癌の診断と手術 ====
[[ファイル:Nakajo-Humiko10.jpg|thumb|200px|1953年(昭和28年)頃に撮影されたふみ子のポートレート。]]
東京から帰った後、ふみ子は左乳房にしこりがあることに気づいた。疲れやすさ不眠といった体調不良の自覚もあった。しこりは次第に大きくなり、圧迫感や肩こりを感じるようになった。そこで病院に行ってみると[[乳癌]]との診断が下った。ふみ子は[[セカンドオピニオン]]を求め、他院での診察を行ったが結果は同じであった。結局、[[1952年]](昭和27年)4月、帯広の新津病院で左乳房の切断手術を受けた。ふみ子のすぐ下の妹、美智子の夫、畑晴夫は小樽で医師をしていた。畑は手術後のふみ子の病状について、若年性の乳癌が再発の可能性が高く予後不良であるため深い懸念を抱いていた<ref>佐方(2010)pp.160-161</ref>。
 
木野村英之助によれば、手術を前に、ふみ子は自らの命よりも左乳房を失うことに強く拘っていたという。この時の手術、入院は一か月足らずで終わり、ふみ子は退院した<ref>小川(1995)p.147、中島(2004)pp.107-108、佐方(2010)p.162</ref>。
 
==== 旺盛な創作意欲 ====
乳癌の手術後、父豊作は新たに野江呉服店の近くに洋品店を開業し、ふみ子に店を任せることにした。ふみ子自身が今後の生活に不安感を持っていたこともあって、将来を考えて店を持たせてみたのである。しかしふみ子には全く商才が無く、店は2~3か月で閉店した<ref>小川(1995)p.147、中島(2004)pp.110-111</ref>。
 
店は上手く行かなかったものの、乳癌手術後のふみ子は活動的であった。ふみ子は1952年2月、帯広作家クラブに入会し、エッセイやラジオドラマを執筆した。同年9月、ふみ子が執筆したラジオドラマ「モザイクの箱」がMHKNHK帯広放送局から放送されている<ref>中島(2004)pp.119-121、佐方(2010)pp.162-163</ref>。またふみ子は大の映画ファンで、帯広映画研究会の会員となっていた。折しも映画全盛期であり、ふみ子はしばしば映画鑑賞を楽しみ、帯広映画研究会の会報に映画や俳優に関する評論を執筆している。後述のように映画はふみ子の短歌に大きな影響を与えたと考えられている<ref>中島(2004)pp.115-119、pp.121-124、佐方(2010)p.151</ref>。
 
短歌の創作意欲も旺盛であった。[[1953年]](昭和28年)1月には「新墾」の維持社友になっている。維持社友は選者クラスであり、短歌結社「新墾」の中ではトップクラスに登りつめたことになる。そして「新墾」などでの活躍が認められ、同年4月、野原水嶺の推薦によって全国規模の短歌結社「[[潮音]]」に入社した。しかし精力的に活動を続けるふみ子に癌の再発が発見されるのである<ref>小川(1995)p.152、中島(2004)pp.128-130</ref>。
219 ⟶ 255行目:
1952年4月の左乳房切除後も、ふみ子は癌の再発防止のため[[X線]]照射の治療を継続していた。治療のためにしばしば札幌の病院に通院し、その際は小樽の妹夫婦の家に泊まった。そのような中、1953年3月に異常が発見され異常部分の切除が行われたが、この時は良性のもので癌の再発ではなかった<ref>佐方(2010)pp.167-168</ref>。
 
その後もふみ子は小樽の妹夫婦宅に泊まりながら札幌への定期通院を続けていた。10月、癌の再発が確認された。そこで前回手術を行った帯広の新津病院で右胸部の転移部分の切除が行われた<ref group="†">1953年10月の癌の再手術により、ふみ子の右乳房は切除されたとしている文献が多いが、佐方(2010)pp.169-170では市立小樽文学館(1994)p.11にある中城ふみ子の闘病についての記述をもとに、疑問があるとしている。市立小樽文学館(1994)p.11では帯広市新津病院からの紹介状の内容として、1952年4月に左乳房切除、1953年10月に右胸部転移組織を切除したと記している。紹介状の内容から右胸部の切除が乳房の切除であるとは断定し難いため、右胸部の転移部分の切除が行われたとの記述とする。</ref>。12月、ふみ子は札幌へ向かった[[札幌医科大学]]に癌研究室が新設されたことを知り、そこで治療を受けようとしたのである。度重なるX線照射と術後ということもあってふみ子は強度の貧血状態であった。ふみ子は小樽の妹夫婦宅に約2週間滞在し、まずは貧血の治療を行い、ある程度回復した後、[[札幌医科大学附属病院]]で癌の治療を再開することになった。通院再開後、札幌医科大学附属病院の主治医と妹の夫畑晴夫は治療方針について話し合い、結局入院治療を行うことになった。入院のベッ待ちの間、ふみ子は帯広にいったん戻った。なお畑晴夫には予後絶対不良を通告されていたが、ふみ子には秘密とされた<ref>市立小樽文学館(1994)p.11、佐方(2010)pp.169-171、p.178</ref>。
 
==== 死の覚悟 ====
230 ⟶ 266行目:
=== 全国歌壇デビュー ===
[[ファイル:Nakajo-Humiko12.jpg|thumb|250px|入院中の札幌医科大学附属病院の病室でのふみ子。]]
[[1954年]](昭和29年)の中城ふみ子の全国歌壇デビューは、短歌史上のひとつの事件となった<ref>篠(1988)p.125、中井(2002)p.580</ref>。そして現代短歌史はその中城ふみ子の登場という事件をきっかけとして、大きく転換していくことになる<ref>上田(1969)p.111、篠(1988)p.125、阿木津(2008)p.120</ref>。ふみ子は後述のように[[短歌研究社|日本短歌社]]が公募した五十首応募で特選となり、4月10日頃に発行された「短歌研究」1954年4月号冒頭に掲載されたことによって全国歌壇にデビューした。デビュー時点で乳がん治療のため札幌医科大学附属病院に入院中であったふみ子は、同年8月3日に亡くなるので、全国歌壇を舞台に活躍できたのはわずか4カ月たらずのことであった<ref>中井(2002)p.580</ref>。中城ふみ子の全国歌壇デビューは大きな波紋を呼び、1954年の短歌を巡るジャーナリズムはふみ子の話題に終始する事態となった<ref>日本短歌社(1955)p.111、上田(1969)p.115</ref>。1954年4月半ばから8月初めまでの活躍については、[[たけくらべ]][[にごりえ]][[十三夜 (小説)|十三夜]]を立て続けに発表した[[樋口一葉]]の[[1895年]]([[明治]]28年)の活躍のみが比較対象となり得るとの意見もある<ref>松田(1981)p.143</ref>。
 
==== 戦後短歌の歩みと短歌研究の読者詠公募 ====
戦後、短歌は外部からの激しい批判に晒された。いわゆる[[第二芸術論]]である。また終戦後の混乱の中、歌壇自体も混乱していた。1950年頃になって世情が落ち着きを取り戻してくると、歌壇もまた落ち着きを取り戻し、保守的伝統重視の風潮が強まっていた<ref>上田(1969)pp.110-111</ref>。
 
そのような風潮に一石を投じたのが[[折口信夫|釈迢空]]であった。釈は「短歌研究」1951年1月号に論文「女流の歌を閉塞したもの」を発表した。論文の中で釈は、当時本流とされていた写生を重視する[[アララギ]]派中心の短歌の在り方に強い疑問を投げかけた。具体的にはポーズが目立つことが作品批判の言葉となっているが、逆に歌にポーズが無くなってしまっていることこそが問題であるとした。そしてアララギが女の歌を殺したと断じ、女性の短歌は写実的現実的な詠みぶりに従ってしまっているため、結果として男性の歌人に負けてしまっているので、現実を発散させるポーズの復権が必要であると論じたのである<ref>折口(1951)p.10-12、篠(1988)p.35、中井(2002)p.307</ref>。
 
釈とともに保守化、伝統重視の世界に留まり、動こうとしない歌壇の現状に怒りを深めていたのが[[中井英夫]]であった。中井は[[東京大学]]中退後、日本短歌社に入社して短歌雑誌の編集に携わっていた。中井の怒りの矛先はまず、平明な生活詠を良しとしている歌壇本流のあり方そのものに向けられた。平明な生活詠が良い短歌であるのならば、良き歌人とは健康的な常識人となる。「裡に深い暗黒の井戸を持たず、何を創ろうというのだろう……精神の無頼性をつゆ持つことなく、小心な身仕舞いのいい人格者が、何を人に語ろうというのか」中井は短歌の現状は文学の名に悖るものであると感じていた<ref>中井(2002)pp.216-217、p.436</ref>。
248 ⟶ 284行目:
「短歌研究」は1953年12月号に五十首公募の実施を発表した。「辛夷短歌会」の主催者、野原水嶺は同人のふみ子と大塚陽子に応募するよう勧めた。もともと短歌で名の成したいと願っていたふみ子自身も乗り気であった<ref>中島(2004)p.133、佐方(2010)p.179</ref>。
 
ところでふみ子の癌の再発が判明し、再手術そして札幌医科大学附属病院への入院待ちをしている時期、短歌結社の「新墾内部対立に見舞われていた。「新墾」は全国組織の短歌結社、「潮音」の影響下にあったが、若手同人の中から「潮音」の影響下からの脱却を求める声が噴出したのである。結局「新墾」から若手同人の脱退者が相次ぎ、[[山名康郎]]を中心とした脱退者は新組織の「凍土」を立ち上げた<ref>中島(2004)p.133、柳原(2011)pp.110-111</ref>。
 
「新墾」の中で有力歌人であったふみ子のところにも「凍土」に参加するように誘いが来た。ふみ子はもう長く生きられないと思っており、今のうちにやりたいことはやっておきたいと、凍土への参加を承諾した。しかしふみ子は他の参加者とは異なり、「新墾」から脱退することはなかった<ref>中島(2004)pp.133-134</ref>。
 
[[1954年]](昭和29年)の新年、ふみ子は入院待ちの状態のまま帯広で迎えた。正月早々、ふみ子は山名康郎と会っている、ふみ子は山名に「野原先生から是非出すように勧めるのだけど自が無いの」と言いつつ、「冬の花火」と題された約30首の歌を見せられた。一読した山名は激賞し、絶対に応募するように勧めた。この時山名は「ある乳癌患者のうた」との副題を付けた上、応募の原稿用紙が目立つように赤いリボンで綴じるアイデアを出した。またこの時ふみ子は山名に「入院したら毎日お見舞いに来るように」お願いした。結局山名は日課のように仕事帰りにふみ子の病室に顔を出すようになる<ref>山名(2000)pp.29-31、中島(2004)pp.135-138</ref>。
 
1月7日、ふみ子は札幌医科大学附属病院に入院する。入院時点で約40首が完成していたと伝えられている。締め切りは1月15日、病床で残りの10首を完成させ、題は「冬の花火」、副題は山名が勧めた「ある乳癌患者のうた」、そして原稿用紙に赤いリボンを付け、締め切り直前に郵送した<ref>中島(2004)p.140、佐方(2010)p.178、p.181</ref>。
259 ⟶ 295行目:
1954年2月初めの大雪の降る日であった。山名康郎は札幌医科大学附属病院の看護師からすぐに病院に来て欲しいとの連絡を受けた。すわ容体急変かと思い病院に駆け付けたところ、病状に特変は無かった。ふみ子は山名に歌集出版の話を切り出した。ふみ子は生きている間に歌集を出したいと願っていたのである、山名はとにかく作品をまとめてみるようにアドバイスした<ref>小川(1995)p.157、山名(2000)p.31、中井(2002)p.706</ref>。ふみ子はすでに歌集出版に向けて準備をしていたと見られ、一週間もたたないうちに自撰の歌集がまとめられた。ふみ子は自ら詠んだ歌に推敲を加えた上に、歌集を一種の物語性を持たせるように編集していた<ref>小川(1995)p.157、山名(2000)p.31、佐方(2010)p.182</ref>。
 
歌集出版に向けて課題となったのは、序文を誰に書いて貰うのかということであった。ふみ子は新墾の主催者である小田観螢に頼むのが筋なのだけどと言いながら、本当は[[石川達三]]か[[井上靖]]に頼みたいと漏らしたと伝えられている。ふみ子の希望を聞いた山名はびっくりした石川達三も井上靖も全くつてはい。その時、北海道新聞に連載小説を書いていた川端康成の名前が挙がったという。山名は北海道新聞の記者であり川端康成の連載小説の担当者であった。川端康成ならばつてが効くかもしれないと考え、山名はふみ子に川端の心を動かすような手紙を添えて、歌集のノートを送ってみるように勧めたと証言している<ref>小川(1995)pp.157-159、山名(2000)pp.31-32</ref>。
 
一方、前述のように川端康成に序文を書いて貰うことが少女時代からのふみ子の夢であったという証言もある<ref>小川(1995)p.159、佐方(2010)p.19、柳原(2011)pp.30-32</ref>。いずれにしても序文執筆を川端康成に依頼することとなり、ふみ子は3月の初めに「花の原型」という仮題をつけた歌集案のノートと序文依頼の手紙を川端に送った<ref>小川(1995)p.159、中井(2002)p.706</ref>。また川端の他に、ふみ子は東京家政学院時代の恩師池田亀鑑にも序文を依頼していた。池田には3月半ば頃、川端と同じく「花の原型」という仮題をつけた歌集案のノートと、ふみ子の序文依頼の手紙が送られた。しかし運が悪いことに池田は前年から体調悪化が著しく、ふみ子の依頼にすぐに応じることは出来なかった。それでも池田は序文執筆に意欲を見せ、実際に執筆を進めていたが、結局7月に出版された歌集「乳房喪失」への掲載は間に合わなかった<ref>佐方(2015)pp.100-102</ref>。
 
序文の依頼については川端康成からも池田亀鑑からもなかなか返事が来ない。そうこうするうちに病状は次第に悪化していた。やむなく序文無しで歌集出版の話を進めていくことになった。ふみ子がまとめ上げた歌集の題名についてはふみ子は「美しき独断」、山名康郎は「真紅の馬」そしてふみ子と山名の歌友である宮田益子は「赤い幻暈」を候補とした。それぞれふみ子の詠んだ歌から採った題名であったが、結局山名の意見の「真紅の馬」を歌集の題名とすることになった。この時点で課題となっていたのは、歌集の発行に要する資金をどのように調達するかであった<ref>小川(1995)p.163、山名(2000)p.31、中井(2002)pp.706-707</ref>。
 
==== 短歌研究五十首応募一位入選 ====
318 ⟶ 354行目:
一方、「短歌」への自作掲載の話についてはふみ子は戸惑いを見せた。ふみ子は「短歌研究」6月号に中井から依頼された30首が掲載され、ライバル誌である「短歌」6月号にも自作集が掲載されるということが、あまりに汚く、さもしいのではないかと考えたのである。ふみ子の逡巡に対し、中井はどうしても「短歌」は出さなければいけない、ふみ子が送ってきた30首は感心しないので、もっと推敲を進めて場合によっては7月号に廻せばよい。とにかくふみ子の歌を歌壇にきちんと評価してもらうには、何が何でも「短歌」にもふみ子の歌が載らなばならない。僕(中井)のためにも「短歌」に出させましょうとまで手紙に書き、続く手紙でも汚いなんて考える必要は全く無い、1954年の歌壇が中城ブームに見舞われたっていいじゃありませんかと書いた<ref>小川(1995)pp.168-171、中井(2002)pp.706-707、pp.722、中島(2004)pp.158-161</ref>。
 
「短歌研究」5月号にはふみ子の入選作家の抱負「不幸の確信」が掲載された。ふみ子は短歌の現状について「『歌いたいから歌うのだ』というのびやかさや『歌わずには居られぬ』という必然性に欠乏している」と指摘した上で、自らの歌について「不治といわれる癌の恐怖に対決した時、始めて不幸の確信から生の深層に手が届いたと思う……ひたすら自分のためにのみ書く作品が普遍的な価値を持つまでに高められる試みの端緒を僅かに掴んだばかりの今である」と書いた。かつて大森卓がふみ子に語ったという「君が不幸だと思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」という言葉は、このような形でふみ子の最期の活躍を支えることになった<ref>中城(1954b)pp.92-93、中島(2004)pp.171-172、佐方(2010)pp.200-203</ref>。
……ひたすら自分のためにのみ書く作品が普遍的な価値を持つまでに高められる試みの端緒を僅かに掴んだばかりの今である」と書いた。かつて大森卓がふみ子に語ったという「君が不幸だと思っている不幸を大切にしたまえ、君の才能はその不幸につながっていると僕はみている、不幸な人間は何か偉いことをやりとげるものです」という言葉は、このような形でふみ子の最期の活躍を支えることになった<ref>中城(1954b)pp.92-93、中島(2004)pp.171-172、佐方(2010)pp.200-203</ref>。
 
==== 短歌研究、短歌の6月号掲載 ====
372 ⟶ 407行目:
翌28日、中井はふみ子宛に手紙を書いた。歌集出版が遅れてしまったことの謝罪から始まる手紙は、関係者各位には本を送ること、そして改めてふみ子の歌を信じることを表明し、間違っているのは歌壇の風潮の方であると断じ、更にふみ子に生きていなくちゃいけないと呼びかけていた<ref>中井(2002)pp.751-753</ref>。
 
病状に差し障ることを恐れた中井は返事は無用であると書いていた。ふみ子は中井の言葉に従わなかった。早速、少しでも長く生きてわたくしの大切な「あしなおぢさん」のためにいい歌をつくらなくっちゃと返信を送った。険悪だった病状はこのときはある程度持ち直し、とりあえず生命の危機を脱した<ref>中井(2002)pp.753-754、中島(2004)pp.192-193、佐方(2010)p.240、p.242</ref>。
 
「乳房喪失」の発売は7月1日に開始された。初版は800部であったと伝えられている。話題の女流歌人、中城ふみ子の歌集ということもあって売れ行きは好評で、最終的には8版を重ね総計1万部を増刷した<ref>小川(1995)p.182、佐方(2010)p.233</ref>。
432 ⟶ 467行目:
 
===「乳房よ永遠なれ」の出版と波紋 ===
1954年7月末、約20日間ふみ子のもとに滞在後、東京に戻った若月彰から酒井部長は報告を受けた。酒井は若月の不在を欠勤扱いで処理していた。当初酒井は若月からの報告を頼もしく聞いていたしかし若月がふみ子と肉体関係を持ち、しかもそれを公表したいと考えていることを知り、絶句した。酒井は肉体関係を持ったこと自体を問題視したわけではない。そのことを若月が公表しようとしていることに、それはあまりに冷酷なのではないかと感じたのである。酒井は最後まで秘密にしておくべきであると思った<ref group="†">酒井(1956)pp.139-140によると、酒井は後に映画化された「乳房よ永遠なれ」のベットシーンは見ていることが出来なかったと述懐している。</ref>。二人の間にしばらく沈黙の時が流れた後、結局酒井は若月の意向を受け入れる旨を伝えた<ref>若月(1955)p.180、酒井(1956)pp.138-139</ref>。
 
若月は親しかった医者に偽の診断書を書いてもらい、会社をしばらく休んだ上で「乳房よ永遠なれ」を書きあげた。前述のように若月は当時、年少気鋭の文芸担当記者であり、「乳房よ永遠なれ」もその半分近くが中城ふみ子の作家、作品論となっていて、若月がふみ子のもとで過ごしたルポは残りの部分である。しかし作品全体のクライマックスはやはり若月とふみ子が愛を交わした場面であり、実際問題、読者の関心もその部分に集中する<ref>小川(1995)p.204、p.212、中島(2004)p.234</ref>。
445 ⟶ 480行目:
映画の中では、当時妻もの、母ものと言われた映画のように、自らを犠牲にして子どものために尽くし、夫からの冷たい扱いに耐え続ける女性像、いわば受動的な女性像も描かれてはいる。しかし映画の主題は積極的に男を求める、誰かのためにではなく自分のために生きようとするふみ子の姿であった。しかも映画におけるふみ子の性愛はロマンチックな姿ではなく肉感的に描かれ、積極的に男を求める姿勢にふさわしくあくまでふみ子主体のものであった。監督の田中絹代は、これまで俳優として男性社会の中で生き、死んでいく役を演じ続け、そのような中で一種の男性不信を抱くようになっていた。「女の立場から女を描いてみたい」との田中絹代の願いは、映画「乳房よ永遠なれ」において、主体的に性を楽しむ、自分のために生きる女性像として結実した。日本映画におけるこのような女性像は、「乳房よ永遠なれ」のふみ子が初めての例であった<ref>イレネ・ゴンザレス、植田(2015)pp.2-8</ref>。
 
映画の主役であるふみ子は[[月丘夢路]]が演じた。これまで誰も演じたことが無いタイプの主役を演じることに月丘は強い意欲を見せ、札幌医科大学附属病院の病室を訪れ、ふみ子が亡くなったベットに触れてみたりもした<ref>月(1955)p.10</ref>。封切された週は東京都内でトップの観客動員となり、地元にあたる札幌では通常1万5千人程度である観客動員数が6万を記録するなど、映画は興行的に成功を収めた<ref>北川(1955)p.96、中島(2004)p.240</ref>。当時の映画の専門誌評にも、「ここに、はじめて日本にも女流監督の作った作品が現れたといって良い」との評がなされ、[[キネマ旬報]]の1955年ベストテン投票では16位となった<ref>北川(1955)p.96、津田(2015)p.21</ref>。
 
一方、ふみ子の師の一人である野原水嶺は、映画で描かれたふみ子は現実よりも自由奔放かつエロチックであり、イメージに誤解が生まれる原因となったと語った。実際、映画上のふみ子像は現実のものとはかけ離れた面があった。また映画公開に絡んでふみ子の別夫、中城博が映画会社相手に詐欺事件を起こし、その上、北海道新聞にふみ子のことを批判する手記を載せた。更には全国的にふみ子に関する真偽不明の記事が報道されもして、家族や関係者はそれらに悩まされることになった<ref>中島(2004)p.240、柳原(2011)pp.156-158</ref>。このような状況ではふみ子の短歌について、冷静な分析や鑑賞、評価を行うことは無理であり、情に絡んだ賞賛や批判が続くことになった<ref>中井(2002)p.441</ref>。
503 ⟶ 538行目:
のような、愛と官能を大胆に詠み込んだ作があり、このような作品は過剰とも見える演技性とともに、当初、歌壇からの非難や困惑を招いた<ref>生方(1976)p.80、細井(1992)pp.179-180、河野(1993)p.31、中島(2004)pp.118-119</ref>。
 
また別夫、中城博に対する愛憎を詠んだ歌もまた評価が高い
 
{{Quotation|衿のサイズ十五吋(インチ)の咽喉仏ある夜は近き夫の記憶よ}}
551 ⟶ 586行目:
この尾山による個人攻撃の域に達している中城ふみ子批判は若手歌人からの激しい反発を受ける。若手歌人たちは一斉にふみ子擁護の論陣を張り、尾山の論調、中でもその時代錯誤性を厳しく批判した。結局尾山の中城ふみ子批判は逆に支持の意見を呼び寄せる結果となり、完全な逆効果となった<ref>篠(1988)p.134、中島(2004)pp.229-230</ref>。
 
その一方でふみ子の登場について、釈迢空が待望し、中井英夫が後押しをした「女歌」勃興の流れの一環として批判する意見も現れた。中井はふみ子が全国歌壇に登場する以前から女流歌人の活躍に期待を寄せていて、1954年2月、3月と「短歌研究」誌上で[[葛原妙子]]、[[森岡貞香]]ら、中井が期待をかけていた女流歌人の特集を組んでいた。そして4月号で「女歌」の典型ともいうべきふみ子がデビューを飾るのである。ライバル誌「短歌」も争うように女流歌人を積極的に取り上げていた。そのような女流歌人の活躍にスポットライトが当たる現状に[[近藤芳美]]、山本友一らが批判した。その批判の中に当然、ふみ子の短歌についてもやり玉に挙げられていたのである<ref>上田(1969)pp.116-117</ref>
 
近藤は未来に広がるものは健康な正常性の上に立つものであるとして、「清潔な知性に満ち」、「女だけが知る悲哀を情感として静かに湛えた」女性の歌が、「奇形児めいた流行的な「女歌」」に代わることを願うとしていた。一方、山本は、「マゾヒズムとも言へる潮流が女流歌人の間には奔放となって流れはじめてゐる」とした上で、「先頃物故した北海道の某女(ふみ子)の作品群などもジャーナリズムにもてはやされた理由が私にはどうしてもわからない」とし、女流歌人に「童女のごとき素朴さに立ち返る」ことを求め、「郷愁の様に素朴な清新さ」を望んだのである<ref>近藤(1954)p.60、山本(1954)pp.63-64、上田(1969)pp.116-117、篠(1988)pp.135-136</ref>。
678 ⟶ 713行目:
* 塚本邦雄「先駆酸鼻」『短歌』31(10)、角川書店、1984
* 塚本邦雄「二花相應」『短歌』39(10)、角川書店、1992
* 月夢路「私の作品」『週刊娯楽よみうり』1(2)、読売新聞社、1955
* 津田なおみ「監督・田中絹代研究のための資料一覧」『愛知淑徳大学論集 メディアプロデュース学部扁5』、愛知淑徳大学メディアプロデュース学部論集編纂委員会、2015
* 武川忠一「近代主義への反省」『まひる野』9(6)、まひる野会、1954