「山中峯太郎」の版間の差分
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'''山中 峯太郎'''(やまなか みねたろう、[[1885年]]([[明治]]18年)[[12月15日]] - [[1966年]]([[昭和]]41年)[[4月28日]])は、日本の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[小説家]]、[[翻訳家]]。[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]19期・[[陸軍大学校|陸大]]退校(25期相当)、最終階級は陸軍歩兵[[中尉]](依願免官)。
山中未成、大窪逸人、石上欣哉、三条信子などのペンネームも用いた。
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本来は陸士18期であった山中であるが、自宅療養のために陸士卒業が1期遅れ(延期生<ref>{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=115-125|loc=第三章 陸士の期、原隊、兵科閥-強調された「同期」の実態}}</ref>)、1907年(明治40年)5月に卒業(19期<ref name=":1" />)<ref group="注釈">「{{Harvnb|秦|2005|p=167|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-山中峯太郎}}」には、山中が陸士に18期として入校し、19期として卒業したことが明記されている。</ref>、近衛歩兵第3連隊附。陸士19期は一般に「中学組のみで、陸幼組を含まない」とされるが<ref name=":2" /><ref>{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=91-95|loc=第二章 幼年学校という存在-後ろ盾のない中学出身者の悲哀}}</ref>、山中は陸幼組でありながら19期となったレアケース<ref name=":0" />。陸士在校中に、[[清|清国]]からの留学生と交流を深めた<ref name=":0" />。同年12月、陸軍歩兵[[少尉]]に任官<ref name=":1" />。
[[東條英機]](陸士17期、陸軍[[大将]]、[[内閣総理大臣]]、[[陸軍大臣]]、[[参謀本部|参謀総長]])は山中と同じく原隊が近歩三であり<ref name=":3">{{Harvnb|秦|2005|p=108|pp=|loc=第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-東条英機}}</ref>、同じ時期に近歩三で隊附勤務をしており<ref name=":3" />、晩年まで親しい仲であった<ref name=":0" />{{Refnest|group="注釈"|陸士の卒業期が2期違いであり、かつ原隊が同じであると、まず「上級生が見習士官、下級生が士官候補生」として、次いで「上級生が少尉、下級生が見習士官」として二度にわたって同時に隊附勤務をする巡り合わせとなるため、生涯にわたり、何でも相談できる「先輩・後輩」の間柄となることが多かった<ref name="陸士2期違い">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=125-130|loc=第三章 陸士の期、原隊、兵科閥-二期違いの関係と重要な原隊}}</ref>。帝国陸軍の人事異動は概ね2年おきであり<ref name="陸士2期違い" />、陸軍人事当局は業務の継続性を保つ観点から後任者の選定について前任者の意見を尊重したため<ref name="前任者の意見">{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=96-100|loc=第二章 幼年学校という存在-人事を押さえたDコロ}}</ref>、「自分が良いポストに就くと、後任に親しい後輩を推薦する」ことも珍しくなかった<ref name="陸士2期違い" />。}}。1941年(昭和16年)に東條が陸軍大臣に就任すると、高名な作家となっていた山中は東條の「私的顧問」の役割を引き受け、例えば1942年(昭和17年)に刊行された『東條首相声明録 一億の陣頭に立ちて』(東條の訓示や演説をまとめた書)は「山中峯太郎 編述」となっている<ref name=":0" />。なお山中は東條より陸士の2期後輩であるが、陸大は山中が明治43年12月入校<ref name=":1" />(25期相当<ref name=":4">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=545-611|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生}}</ref>)、東條が大正元年12月入校<ref name=":3" />(27期<ref name=":4" />)であり、山中の方が2年早く入校している。
1910年(明治43年)11月、陸軍歩兵中尉に進級<ref name=":1" />。同年12月、[[陸軍大学校]]に入校<ref name=":1" />(陸大25期相当<ref name=":4" />)。陸大は陸士同期生の1割程度しか入校できない難関であり<ref>{{Harvnb|山口|2005|p=43|loc=}}</ref>、何度目かの受験で中尉になってからようやく合格するのが当たり前であったが<ref name=":0" />、山中は少尉で受験しての「一発合格」を果たした<ref name=":0" />。山中は陸士19期(卒業者1,068名<ref name=":7">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=625-631|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-6.陸軍士官学校卒業生}}</ref>)で最初に陸大入校を果たし、かつ陸大25期の中で陸士19期は山中のみであった
山中が陸大に入校した翌年の1911年(明治44年)に[[辛亥革命]]が起きた。1913年(大正2年)7月に、[[辛亥革命]]後に[[孫文]]から政権を奪った[[袁世凱]]の専制に反対する青年将校たち(その多くが、陸士で山中と交流を深めた清国からの留学生であった<ref name=":0" />)によって[[第二革命]]が起きた<ref name=":0" />。
旧知の中国青年将校らの動きを知った山中は<ref name=":0" />、故意に陸大から退校させられるように振舞い<ref name=":0" />、同年<ref name=":1" />{{Refnest|group="注釈"|陸大退校処分の時期は「大正2年」とのみ出典に記載されている<ref name=":1" />。}}、退校処分となって近衛歩兵第三連隊附に戻った<ref name=":1" />。
帝国陸軍において陸大卒業の履歴は進級・補職に大きく影響し、陸大卒業の履歴を持たずに'''陸軍中央三官衙'''<ref name=":8">{{Cite journal|和書|author=武石典史|year=2010|title=陸軍将校の選抜・昇進構造 --- 陸幼組と中学組という二つの集団 ---|url=https://doi.org/10.11151/eds.87.25 |journal=教育社会学研究|volume=第87集|page=|pages=25-45|publisher=日本教育社会学会|accessdate=2018-6-11|doi=10.11151/eds.87.25}}</ref>([[陸軍省]]・[[参謀本部]]・[[教育総監|教育総監部]])で勤務し、あるいは高級指揮官(総軍司令官、方面軍司令官、軍司令官、[[師団|師団長]]など)となることは困難であった<ref>{{Harvnb|藤井|2018|p=|pp=149-157|loc=第四章 天保銭組と無天組-陸軍大学校の目的と存在意義}}</ref>。
{{main|陸軍大学校#陸大卒業者のその後}}
山中は陸大25期として1913年(大正2年)11月に陸大を卒業する予定であったが<ref name=":4" />、半年あまりの在校期間を残して自ら陸大を去り、帝国陸軍での栄達を放棄する決断をした。これは、一日でも早く休職して中国に渡り、第二革命に参加して同志たる中国の青年将校たちを助けたい一心からであった<ref name=":0" />。
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*山中はそうした矛盾にいち早く気づき、さまざまな修正や加筆を行って矛盾を解消し、物語としての完成度を高めている。
*『名探偵ホームズ全集』を注意深く読むと、各国のシャーロキアンが難解な論文で述べていることに既に山中が気づいていた例、さらには、今までにどのシャーロキアンも気づかなかった矛盾点が山中によって見いだされている例が多く見つかり、山中の独自性・先進性に驚かされる。
*[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校本科]]卒業時に[[恩賜の軍刀|恩賜の銀時計]]を拝受し<ref name=":2" />、陸士19期の先頭で陸大入校を果たした
平山は、山中が自ら説明している「日本の少年少女がより楽しめるようにするための翻案」に成功して好評を博し<ref name=":0" />{{Refnest|group="注釈"|山中の『名探偵ホームズ全集』は昭和31年に完結してベストセラーとなり、昭和50年代まで版を重ねた<ref name=":0" />。2017年現在の日本で文筆活動を行う[[シャーロキアン]]である植田弘隆、日暮雅道、北原尚彦の3名は、いずれも山中の『名探偵ホームズ全集』を好意的に評価している<ref name=":0" />。}}、それに加えて独自にシャーロックホームズ・シリーズを高いレベルで研究し、その成果を『名探偵ホームズ全集』に反映したのだと指摘している。
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山中と[[陸軍士官学校 (日本)|陸士]]19期の同期生である[[今村均]]が、回顧録で若き日の山中について詳しく述べている。
山中は陸士に18期として入校したが<ref name=":1" />、[[脚気]]を病んで自宅療養を余儀なくされ<ref name=":0" />、1期遅れの19期となった<ref name=":1" />。しかし、今村によると、19期が陸士に入校した時期の山中はすっかり健康を回復しており、大柄な体躯で良く肥えており<ref group="注釈">偏った食生活、不健康な生活による[[肥満]]が問題とならなかった明治時代の日本では、「肥えている」という表現にネガティブな意味はなかった。</ref>、丸顔で、度が強い近視の眼鏡を常用していた<ref name=":6">{{
今村によると、山中は[[大阪陸軍幼年学校]]・[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]本科の双方を首席卒業した俊英であり{{Refnest|group="注釈"|[[秦郁彦]] 編著『日本陸海軍総合事典(第二版)』によると、山中は、[[大阪陸軍幼年学校]]18期(明治36年10月卒業)では恩賜に入らず<ref>{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=631-634|loc=第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-8.地方幼年学校卒業生}}</ref>、[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]本科18期(明治37年11月卒業)で恩賜(次席)<ref name=":2" />。今村の記憶違いか。}}、ドイツ人の教官と対等に会話できるほどの独語力を持ち{{Refnest|group="注釈"|陸士19期は、山中のような「延期生」を除いて全員が中学組であるため、基本的に英語しか学んでいない。陸幼ではドイツ語、フランス語、ロシア語のいずれかを履修したが(昭和に入ってから陸幼で履修できる外国語に英語が加わった<ref name="第5部 陸海軍用語の解説-幼年学校(陸軍)">{{Harvnb|秦|2005|p=|pp=772-773|loc=第5部 陸海軍用語の解説-幼年学校(陸軍)}}</ref>)<ref name="第5部 陸海軍用語の解説-幼年学校(陸軍)" />、山中は陸幼でドイツ語を履修したものと思われる。}}、陸士19期の入校初日から、候補生たちの注目の的であった
陸士の教育課程について行くためには、規定の自習時間には、時間を惜しんで教科書を勉強せねばならない状況であるのに、山中は自習時間に常にドイツ語の本を開いて何かをせっせと書いていた
今村は下記のように記している
{{Quotation|”あんな天才的秀才だから、区隊長や週番士官もあれ〔山中〕だけは特別扱いにしているのかも知れない”と、思わしめられた。|[[今村均]]。〔〕内は引用者が補充|
山中は、毎日の夕食後、陸士の校庭で30分ほど、キリスト教の説教をしており、何人かの候補生が常連となっていた
陸士では教官・中隊長・区隊長が候補生たちの教育にあたっていたが、候補生ともっとも近いのが区隊長(陸士の卒業成績が上位で、5年から6年の隊附勤務を経た青年将校が任じられる)であった
成績優秀な山中は、担当の区隊長であるN中尉<ref group="注釈">出典に「N中尉」と記載されている。</ref>に当初は一目置かれていたものの、次第に疎んじられるようになった
今村が「小学校以来首席をはずしたことがないと云われる秀才
1968年(昭和43年)に死去した今村は、1966年(昭和41年)に死去した山中と晩年まで親しく交際していたが、山中が陸大を退校させられ、陸軍を去った経緯については、下記のように記している
{{Quotation|が、教官より図抜けている才能が教官多数の嫌忌を招いて半途で退校させられると、すぐに朝日新聞に迎えられ、時の[[孫文|孫逸仙]]氏の支那革命に関する彼の記事は断然他の新聞には見られない異彩をあらわした。|[[今村均]]|
陸大27期首席の栄誉に輝き<ref name=":4" />、陸士19期の出世頭として<ref name="無天組の気概と矜持" />、現役の陸軍大将・[[第8方面軍 (日本軍)|第8方面軍]]司令官で昭和20年の敗戦を迎えた今村が<ref name="無天組の気概と矜持" />、山中の頭脳に畏敬の念を持っていたことが分かる。
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== 参考文献 ==
*{{Citation|和書|title=陸軍員外学生|year=2014|last=石井|first=正紀|authorlink=|edition=|publisher=[[潮書房光人新社|潮書房光人社]](光人社NF文庫)|isbn=}}
*{{Citation|和書|title=続・今村均回顧録|year=
* [[尾崎秀樹]]『
*[[北原尚彦]]『発掘!子どもの古本』([[ちくま文庫]]、2007年、ISBN 978-4-480-423054)所収「原作より面白い?ポプラ社版『名探偵ホームズ」SS.30-39.
*{{Citation|和書|title=日本陸海軍総合事典|year=2005|last=秦|first=郁彦 編著|authorlink=秦郁彦|edition=第2|publisher=東京大学出版会}}
*{{Citation|和書|title=名探偵ホームズ全集([[コナン・ドイル]] 著、[[山中峯太郎]] 訳著)|year=2017a|last=平山|first=雄一(解説・註作成)|authorlink=平山雄一 (翻訳家)|volume=第一|publisher=[[作品社]]|isbn=}}
*{{Citation|和書|title=名探偵ホームズ全集([[コナン・ドイル]] 著、[[山中峯太郎]] 訳著)|year=2017b|last=平山|first=雄一(解説・註作成)|authorlink=平山雄一 (翻訳家)|volume=第二|publisher=[[作品社]]|isbn=}}
*{{Citation|和書|title=名探偵ホームズ全集([[コナン・ドイル]] 著、[[山中峯太郎]] 訳著)|year=2017c|last=平山|first=雄一(解説・註作成)|authorlink=平山雄一 (翻訳家)|volume=第三|publisher=[[作品社]]|isbn=}}
*{{Citation|和書|title=陸軍派閥|year=2018|last=藤井|first=非三四|authorlink=|publisher=[[潮書房光人新社]](光人社NF文庫)|isbn=}}
*{{Citation|和書|title=造船士官の回想(上)|year=1994|last=堀|first=元美|authorlink=|publisher=[[朝日ソノラマ]](文庫版新戦史シリーズ)|isbn=}}
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