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当時のチベットの指導者は[[ダライ・ラマ14世|第14代ダライ・ラマ]]であった。第二次世界大戦が[[1945年]]に終結すると、インドと中華民国に代表団を派遣してチベットの主権を確立しようと試みたが、[[中国国民党]]内の強硬派の抵抗にあって失敗し、さらに主権確立、つまり完全独立への画策は同年に勃発した[[国共内戦]]で先送りにされた。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)384項-385項</ref>
 
== 戦争経過(第2段階) ==
{{main|チャムドの戦い}}
=== 中国共産党、「チベット侵攻」を発動 ===
[[毛沢東]]率いる[[中国共産党]]は国共内戦に勝利し、[[1949年]][[10月1日]]に中華人民共和国の建国を宣言した。その6週間後に、中国人民解放軍が、[[ガンデンポタン]]の勢力圏の東部境界付近に集結しているという報告があった。ついで中国政府は、ガンデンポタンの勢力圏に対する侵攻チベット併合に着手する。[[1950年]][[1月1日]]に、[[中国国際放送]](ラジオ北京)は「[[パンチェン・ラマ10世]]の要請により、中国人民解放軍はチベットを解放する用意がある」と放送した<ref>ロラン・デエ p.313</ref>。[[ロブサン・テンジン|サムドン・リンポチェ]]および[[ダライ・ラマ14世]]はこれを「中華人民共和国側の一方的な『約束』である」、と主張している。さらに1月7日に中国人民解放軍は「チベットの同胞の解放を開始する」ことを宣言し、中国の侵攻は避けられないものとなった<する。ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)386項</ref>。
 
=== 当時の国際社会の動向 ===
1949年の時点でチベットおよび西側の情報源メディアでは、この侵攻を一般に侵略と呼んでいた<ref name="Rin" />。例えば亡命チベット人の[[ペマ・ギャルポ]]は「チベットは歴史が始まってからずっと独立国家であった」と主張する<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.173</ref>。一方、中華人民共和国内では、この事件は、一般に「チベットの平和的な解放」と呼ばれている<ref>Xinhuanet.com. "[http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/mil/2007-07/12/content_6363380.htm Xinhuanet.com]." ''人民解放軍解放西藏.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref><ref>Scholar.ilib.cn. "[http://scholar.ilib.cn/Abstract.aspx?A=xzmzxyxb-zxshkx200102001 Scholar.ilib.cn]." ''1950 tibet.'' Retrieved on 2008-03-18.</ref>。
 
この中華人民共和国によるチベット侵攻の動きに、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]政府では[[イギリス]]の代表団も出席して国務省にて会議が行われ、中華人民共和国による侵攻に対するチベット抵抗運動を促進して支援するかどうかについて討議され、「チベットに対する小規模な軍事支援が中国人民解放軍に損害を与え、従って侵略を阻止することができるだろう」と結論された。そしてアメリカはイギリスに、インドがチベットへの支援に参加するように、インドに対して説得することを提案した。
1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずは[[カム (チベット)|カム]]の[[康定県|ダルツェド]]で足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドから[[甘孜県|カンゼ]]までの自動車道建設と地形情報収集であった
 
しかしアメリカは、[[朝鮮半島]]における状況が緊迫していたこともあり、自国の利権にあまり関係のない[[南アジア]]における紛争に深く関係することに積極的ではなかった。結果的にアメリカは8月にはチベットにインドを経由した極秘援助を伝え、チベット政府はこれを承諾した。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)387項</ref>
1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。中国人民解放軍は「本体」としたチベット軍がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。(ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかったとする見解もある。
 
=== ダルツェドとカンゼの占領 ===
1950年3月、中国人民解放軍はチベット国境で訓練を積み、まずは[[カム (チベット)|カム]]の[[康定県|ダルツェド]]で足を止めた。ダルツェドは中国(漢族)人が仕切ってきた町であり、抵抗はなかった。4月中ごろまでに3万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らの任務はダルツェドから[[甘孜県|カンゼ]]までの自動車道建設と地形情報収集であった<ref name="MikelDunham55">『中国はいかにチベットを侵略したか』p.55</ref>。
 
1950年6月、中国人民解放軍は、カンゼの先にあるデンゴのチベット軍基地に600人の調査隊を送った。チベット人たちが殺されたが、チベット軍本体がいなかったため、さしたる抵抗も無く町は占拠された。チベット人が殺害されたとの情報に、土地の有力部族長が300人の僧を含む800人の武装勢力を持って反撃し、600人の中国人民解放軍は1人残らず殺された。ただし、解放軍にとって兵士の人命はさほど重要ではなく、占拠に際して十分な情報収集が済んでいたため、この作戦は必ずしも失敗ではなかった<ref>『中国はいかにチベットを侵略したか』p.60</ref>。
 
1950年8月までにカンゼまでの自動車道が完成し、チベット商人はこれを歓迎した。中国人民解放軍はカンゼを占領し、カンゼに拠点を置いた<ref name="MikelDunham55"/>。
 
=== 侵攻開始 ===
[[チャムド地区]]へは1950年秋から、第一書記の[[鄧小平]]の西南局傘下の十八軍が侵攻を開始した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。
 
[[1950年]][[10月7日]]深夜、中国人民解放軍は、[[張国華]][[将軍]]を指揮官として、「中華人民共和国側が中央チベットとの境界である」と主張するようになった、ラサの東方100kmの位置まで侵攻進軍した<ref name="Rin"/>。人民解放軍の兵力は2万人<ref>ユン・チアン『マオ』下巻p.216</ref>もしくは4万人<ref name="LaurentDeshayes314">ロラン・デエ p.314</ref>であったという。人民解放軍は東チベットに3方から同時に進軍した<ref>『中国はいかにチベットを侵略したか』p.65</ref>
 
この進攻に対して、チベットに与した「[[義勇兵]]」を含め8000人のチベット軍が阻止を試み発動した。磴口では[[ムジャ・ダポン]]が率いる部隊が最大の火力であった[[ブレン303軽機関銃]]で応戦した。そこから100キロ南では中国人民解放軍が揚子江の渡河に成功してチベット軍の部隊50名を全滅させてランサムのチベット軍駐屯地に向かい前進した。そこからさらに200キロ南では中国人民解放軍は揚子江を渡河してマーカム・ガートク駐屯地を攻撃し、250名のチベット部隊を全滅させた。
 
[[10月]][[7日]]にチベット北部でムジャ・ダポンの指揮下にあった小部隊は中国人民解放軍を揚子江で阻止していたが、ランサムの部隊はチャムドに向けて後退を開始しており、孤立しつつあった。[[10月]][[8日]]にも中国人民解放軍の波状攻撃を阻止することに成功したが、作戦不可能なまでに戦力を失い、その夜間に指揮官は部隊を解散した。このことで中国人民解放軍はチベット北部で揚子江を渡河したために、磴口のムジャ・ダポンもチャムドまで後退を決意せざるをえなかった。
 
=== チャムド制圧 ===
[[10月]][[16日]]にチャムドで行方不明だった知事[[ンガプー・ンガワン・ジクメ]](アボ)を捜索し、ラサへの交通路が中国人民解放軍に遮断されたために潜伏していたチャムド付近の寺院で発見した。ダポンはンガプーに対して戦力を集中してラサへの交通路を確保することを主張したが、ンガプーは反対して翌日の10月17日に中国人民解放軍に投降した。10日間の抵抗の後にチベットは敗北した。<ref>ピーター・ハークレロード著、熊谷千寿訳『謀略と紛争の世紀 特殊部隊・特務機関の全活動』(原書房、2004年4月5日)388項-390項</ref>。中共軍は、一月あまりの戦闘を経て、同年10月24日、東チベットの軍に勝利し、チャムドを占領した{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。これらの戦争は、「チャムドの戦い」ともいわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}。
 
===被害===
チベットの首都ラサから派遣された兵士は時としてカムの義勇兵を見捨てたこともあり、中国を支持する住民や商人を殺害しとされる<ref name="LaurentDeshayes314"/>。
 
この時の[[チャムドの戦い]]でチベット軍4500人、兵士3500人の内、6000人を“殲滅”したといわれる{{Sfn|毛利和子|1998|p=256}}<ref>A・T・グルンフェルド『現代チベットの歩み』東方書店,1994年,152頁</ref>。[[ダライ・ラマ14世]]側も、この戦闘におけるチベット軍の戦死者を4000人以上としている<ref>[http://www.tibethouse.jp/history/19491001.html ダライ・ラマ法王日本代表部事務所]。</ref>
 
===チャムドの戦いに関するラサ政府の対応===
チャムドから緊急の無線がラサ政府に向けて発せられていたが、彼らはたまたま実施中のピクニックを中断することもなく、インドその他に事態を知らせることもなく、いわば黙殺した。ラサ政府はあくまでも中央チベットさえ守られればよく、事態が中央チベット国内に伝わることでの混乱を恐れていたとも考えられる。たまたまインドにいたチベット代表団に対してインドの[[メディア]]が中華人民共和国による侵攻について質問すると、「そんな事実は無い」とそっけなく否定し、中華人民共和国の行動を黙認しているかのような態度を取った。一方中国人民解放軍は、「僧から歓迎される様子」や「降伏文書調印の様子」を写真に収め、メディアに提供するとう[[プロパガンダ]]活動を忘れなかっ<ref name="MikelDunham66"/>
 
===中国による進駐宣言と印英政府の対応===
[[1950年]][[10月25日]]、中華人民共和国政府は中国人民解放軍のチベットへの進駐を宣言した。これはチャムド侵攻から17日も経ってからのことだった。
== 占領後 ==
翌10月26日、インド政府はこれを「侵略行為」として非難の政府声明を発表し、イギリス政府もこれを支持したが、両国はチベットへの軍事支援については触れず、実際に軍事支援を差し伸べることは無かった<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.120</ref>。
占領の初期において首都ラサを中心に大量の難民が発生。その多くがインドに逃れた。このとき中国人民解放軍の一部が過剰に反抗してくる住民を殺害したりしたために後に問題として扱われている。これらの衝突や紛争の結果、100万人のチベット人が死亡し、6000の僧院が破壊されたとの見方がある。また、当時中央チベットと中国をむすぶ幹線道路建設事業などにおいて一部の現場でチベット人労働者に賃金が支払われず、強制労働化していたとして問題定義された。中国政府はこれらを「極左翼の誤り」とする声明を発表、政府職員の一部は謝罪しているが、人民解放軍については特にこれに対した動きが確認されていない。
[[1950年]][[11月7日]]<ref name="LaurentDeshayes315">ロラン・デエ p.315</ref>(あるいは10月17日<ref name="PemaGyalpo119">ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.119</ref>)、摂政タクタ・リンポチェ・ガワン・スンラプは引退し、テンジン・ギャムツォは成人とされていた18歳に達しておらず(16歳)、本人は望まなかったが、国王としての親政を開始した。そしてラサ議会の示唆に従い、インド国境のヤトンに避難した<ref name="PemaGyalpo119"/>。
===ラサ政府と国際連合・中華民国の対応===
同[[1950年]][[11月7日]]、チベットのラサ政府は[[国際連合]]に対して中華人民共和国による侵攻を訴えたが、国際連合の国連総会運営委員会は、「チベットと中国、インドに平和をもたらすためにも国連の場で討議することはふさわしくない」として、介入に対する審議の延期を決定した<ref>ペマ・ギャルポ『チベット入門』p.121</ref>。またこれについては[[国連軍]]を組織してまで関与していた[[朝鮮戦争]]への対応が精一杯で、チベットに介入する余裕は無かったためとする見方もある<ref name="LaurentDeshayes315"/>。
なおチベット政府は、国際連合の[[常任理事国]]であった[[中華民国]]が独立国として認めておらず、自国領土として扱っていたため、正式な独立国として扱われていない上、文書がチベット政府から直接でなくインドから発送されていたため、本物かどうか確認できなかったからでもある。
この事態に対し、サラエヴォ<ref name="LaurentDeshayes315"/>と[[エルサルバドル]]<ref name="MikelDunham78"/>がチベット擁護を主張したが効果は無かった。
また中華民国政府はあくまでもチベットを「自国領土」とする立場だったため、結果として、自らの敵国である中華人民共和国によるチベットへの侵攻を弁護する形になった<ref name="LaurentDeshayes315"/>。
===中央チベット攻略作戦===
1950年11月9日、中国政府(中国共産党中央政府)は、中央チベット攻略作戦(「'''チベット全域解放作戦'''」と呼称)を準備しつつ、チベット政府との交渉を続けた{{Sfn|毛利和子|1998|p=257}}。
===自治政府の設置===
[[清朝]]末期以来、中国・[[四川省]]の地方政権との間で争奪の対象となっていた東チベット地方では、[[1950年]][[12月15日]]、[[西康省蔵族自治区]]、青海省人民政府等が設置された。戦後のチャムドでは反目しあっていた部族間で略奪や殺戮が激化してしまい、町は地獄と化した。
===チャムド人民解放委員会設立===
==十七か条協定==
{{See|十七か条協定}}
1951年、中国政府側は、東トルキスタン([[新疆]])、青海、チャムドの3方面から人民解放軍を投入し、チベット軍を撃破しながらチベットの首都[[ラサ]]に侵攻した(しかし、首都ラサへの侵攻について包囲作戦は用いられなかった)。
十七ヶ条協定が締結される際、チベット政府([[ガンデンポタン]])の元首である[[ダライ・ラマ14世]]は出席せず、代わりとしてチベット側の代表として、[[ンガプー・ンガワン・ジクメ|アボ・アワン・ジグメ]]がこれに署名した。チベット政府は、[[ンガプー・ンガワン・ジクメ|アボ・アワン・ジグメ]]は協定締結時に使用した[[国璽]]はチベット政府の正式な国璽ではなくアボが事前に偽造した国璽であり協定締結はされていないと主張した(チベット政府側の資料では、チベット政府の元首である[[ダライ・ラマ14世]]はアボがチベット政府側の許可がないままに独断により協定を締結したりなどをしないように配慮し、チベット政府の正式な
国璽はダライ・ラマ14世の手元に厳重に保管しておいたとされていた)。その一方で中国政府はアボの持参した国璽はチベットの正式なものであるとした見解の上、協定は締結されたと主張した(中国政府側の資料ではアボの持参したチベット政府のものとされる国璽はチベット政府の資料から製作した資料のものと一致し、チベット側からも正式な国璽であると話されていたとされていた)。このため、チベット議会がこれを認めなかったため、当時チベット議会で中国への併合について意見が分かれていたとされる内中国併合賛成派のアボは[[ダライ・ラマ14世]]に対して離反を行い中国側につき、以降彼らはチベット議会に参加しなくなった。
この[[十七か条協定]]では、[[ガンデンポタン]]を「[[西蔵地方政府]]」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない<ref>對於西藏的現行政治制度,中央不予變更</ref>」と定められていたが、中国政府のいう「[[西蔵]]」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。
この[[十七か条協定]]では、[[ガンデンポタン]]を「[[西蔵地方政府]]」と規定し、チベットを「中華人民共和国祖国大家庭」に「復帰させる」こと等を定めたり、人民解放軍による蛮行を制限する内容となっていた。協定の第四条では「西蔵の現行の政治制度には、中央は変更を加えない<ref>對於西藏的現行政治制度,中央不予變更</ref>」と定められていたが、中国政府のいう「[[西蔵]]」にはアムドやカムの東部は含まれていなかった。また、チベット軍を中国人民解放軍へ編入するとも定められていた。
===「協定」の放送===
[[1951年]][[5月]][[26日]]には、中華人民共和国の国営放送局である中国国際放送を通じてチベット政府により十七ヶ条協定が締結されたと放送されている。この放送により、中国政府は中華人民共和国国民、支持を中国を指導する立場にある中国共産党へおおいに集めたとされている
=== 十七ヶ条協定の消滅 ===
この後、中国の[[中国人民解放軍]]はチベットの[[首都]][[ラサ]]に侵攻、チベット軍と交戦状態に陥る。これによりダライ・ラマ14世に十七か条協定を承認した(この際、一部の中国併合反対派の者は逃亡したとされこの時からダライ・ラマ14世の亡命先インドでの亡命政府規律の準備や手続きが既に行われていたとする見方もある)。ただしその十七ヶ条協定は一番最初にアボが国璽を押したものとは異なりチベット政府単独による自治を認めていなかった。協定締結後、それに伴って、同協定第八条によりチベット軍は中国人民解放軍に編入された。以降元チベット軍兵士や兵器は、暫くの間チベット地域内に配属されていたとされるが、年々中国人民解放軍内に分散されていき、元チベット軍の施設も、博物館や展示物などに改装されているもの以外は近代化に伴い建て替えなどが進んでいるため現在はチベット地域に残るチベット軍の遺構は極めて少ない。
[[1959年]]、ダライ・ラマ14世はラサを脱出、[[インド]]へ亡命した。その途上、国境の手前でダライ・ラマ14世はチベット臨時政府の発足と十七か条協定の正式破棄を宣言した。これにより、中国政府側も「西藏政府(チベット政府)は廃止された」と公表し、これより十七か条協定は消滅している。
[[1951年]][[9月]][[6日]]、ダライ・ラマ14世は9ヶ月ぶりにチベットの首都ラサに戻り、これによりその3日後に3000人の中国人民解放軍がラサに進駐した。チベット政府内で協定を認めるかどうかが話し合われたが、ラサの三大僧院長の強い意向もあり[[1951年]][[10月]][[24日]]、ダライ・ラマ14世は、「協定を承認し中国人民解放軍の進駐を支持する」とした内容の手紙を中国共産党の毛沢東に送った{{Sfn|毛利和子|1998|p=259}}。
[[ユン・チアン]]によれば、「十七か条協定」は、中華人民共和国側にとっても時間稼ぎの意味があったと主張している。高地に慣れていない中国人民解放軍の兵士にとって、大軍を送り込む幹線道路のない中央チベットは難攻の地であったためである。しかし、中国人民解放軍共和国側の移動の為の幹線道路や施設は次第に建設されて行き、これにより中国華人民解放軍共和国内からチベットによる侵攻が用意になったとしている(幹線道路の他にも中国人民解放軍は戦車などを、チベットの砂漠でも活動が容易なように防塵仕様に改造したり、兵士についてもそのような訓練が導入された。
==その後のチベット側の動向==
===人民会議事件===
1952年3月には、17ヶ条協定の撤回と「中国人民解放軍」のチベットからの撤退を要求する[[人民会議事件]]が発生し、中国政府はチベット政府の首都ラサで抵抗に遭っている。また、中国人民解放共軍の長期駐留は、地元との対立の引き金となる事があり、この対立によって、[[1952年]]には、中国人民解放軍撤退を求める武装団体などと中国人民解放軍が衝突し、は1952年にチベット東部の町である[[ジェクンド]]が甚大な被害を受けている。
===「中央のチベット工作についての指示」===
[[1952年]][[4月6日]]、[[毛沢東]]は「[[中央のチベット工作についての指示]]」を出し、漢族が数十万いる[[新疆]]地区(ウイグル地域)とは異なり、チベット地域には漢族がほとんどいないということを、指摘したうえで、中央チベットなどでの土地改革は延期された。
なお、毛沢東は人民会議事件を受けて、チベット併合の困難さを認識し、以後、チベット政策を重大な問題のひとつとして、[[1959年]]の反乱の処理にいたるまで政治的決定を主導していった。
===チベット住民の武器押収===
東チベットでは放牧が盛んであり、仕事柄銃を持つ住民が多く<ref name="yun2-216">ユン・チアン 下p.216</ref>、とりわけカムの住民は、古来、好戦的なことで知られており、漢族などが古来治めていた地域などを中心として悪評がたっていたことなどから{{Sfn|ロラン・デエ|2005|p=323}}、中国政府は東チベットの治安に当たって、住民から武器を没収した。中国側はチベットの近代化を進める上での当然の処置と考えていたが、カムの住民は抵抗の意を示した。
===「積極分子」「闘争集会」工作===
そこで中国当局は、チベット人を対象に中国政府側への募集をかけて、それに集まった人々を、「積極分子(フルツン・チェンポ)」と認定し、銃回収に当たらせ、また[[タムジン]](闘争集会)という会合を開かせ、中国の統治に不満を持つものを一種の私的裁判にかけた。とりわけ名家の人間には一般の人間より厳しく裁判が行われていた。
また、当時、中国政府は、中央チベットと中国などとを結ぶ幹線道路建設を盛んに行っていたが、チベット人労働者に対して当初から賃金が支払われていたが、[[1954年]]頃からは一部が強制労働に変わっていたことが問題として定義されている。
===「民主改革」からカム反乱へ===
一方、漢人の東チベット地域への入植が進められると、{{Sfn|ペマ・ギャルポ|1988|p=127}}、[[1954年]]に農業改革、[[1955年]]7月に土地共有化の促進が「[[民主改革]]」として着手された。この「民主改革」とは[[共産主義]]思想にもとづいて領主や寺院や富裕層からの土地財産が再分配を目的としたうえで中国政府に没収されるものである。寺院財産の没収を契機とし、翌[[1956年]]から、アムドとカム東部の全域で大規模な蜂起が勃発する。
このような中国による東チベット地域の支配に対して、東チベットの住民の多くは中国政府の政策に対して反抗的となっていった。中国政府はその報復として次々に厳しい政策を打ち出していった。中国に不満を持つ東チベット人の一部は、[[テンスン・ランタン・マガル]](国民防衛義勇軍)を作って反抗しようとした{{Sfn|ロラン・デエ|2005|p=323}}。
これ以降の経緯については、[[カム反乱]]を参照。
 
== 占領後 ==