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| 配偶者1 = [[アリエノール・ダキテーヌ]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 子女 = ウィリアム(ギヨーム)<br />[[若ヘンリー王|ヘンリー(アンリ)]]<br />[[マティルダ・オブ・イングランド|マティルダ(マティルド)]]<br />[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード(リシャール)]]<br />[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジェフリー(ジョフロワ)]]<br />[[エレノア・オブ・イングランド|エレノア(エレアノール)]]<br />[[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン(ジャンヌ)]]<br />[[ジョン (イングランド王)|ジョン(ジャン)]]
| 王家 = [[File:Royal Arms of England.svg|15px]] [[プランタジネット朝|プランタジネット家]]
| 王朝 = [[プランタジネット朝]](アンジュー朝)
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}}
 
'''ヘンリー2世'''({{lang-en|'''Henry II'''}}, [[1133年]][[3月5日]] - [[1189年]][[7月6日]]<ref>{{Kotobank|ヘンリー2世}}</ref>)は、[[プランタジネット朝]](あるいはアンジュー朝)初代の[[イングランド王国]]の[[イングランド君主一覧|国王]](在位:[[1154年]] - 1189年)である。[[ノルマンディー公国|ノルマンディー]][[ノルマンディー公|公]](在位:[[1150年]] - 1189年)、[[アンジュー]][[アンジューの領主一覧|伯]](在位:[[1151年]] - 1189年)でもあった。[[アリエノール・ダキテーヌ]]の2番目の夫として知られている。
 
父は[[フランス王国]]の有力貴族の[[アンジュー伯]][[ジョフロワ4世]]、母は[[神聖ローマ皇帝]][[ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ5世]]の皇后で、皇帝ハインリヒ5世の死後イングランドにもどり、その後帰国、フランスに渡ってジョフロワ4世と再婚した[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]である。外祖父(母マティルダの父)はイングランド王の[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]であった。母マティルダはヘンリー1世死後、[[1141年]]内の数か月という短期間ながらイギリス初([[スコットランド]]を含めて)の女性君主となった人物である。
 
ヘンリー2世は頑丈な体躯をもち、猪首であった。また、「大食ではなく造化の間違い」でできたといわれるほどの巨腹であったが、波乱の生涯を送り、精力的に活動した<ref name=horigome238>[[#{{sfn|堀米庸三|堀米(1974)pp.1974|p=238-241]]</ref>}}。父方と母方からの相続と自身の婚姻により広大な所領を獲得し、[[ピレネー山脈]]から南フランスおよびイングランドにまたがる、いわゆる「[[アンジュー帝国]]」を築いたが、晩年は息子たちの反乱に苦しんだ<ref name{{sfn|堀米庸三|1974|p=horigome238/>238-241}}
 
== 生涯 ==
=== 即位、遺産継承、結婚 ===
[[ファイル:EleonoraAkvitt vitraz.jpg|left|thumb|150px|[[アリエノール・ダキテーヌ]]を描いた[[ステンドグラス]]]]
[[11351127年]]、[[ヘンリー1世 (イングランド王)|ヘンリー1世]]は娘の[[マティルダ (神聖ローマ皇后)|マティルダ]]に対する貴族たちの臣従の誓いをさせ、1133年に生まれた孫のアンリ(後のヘンリー2世)にも臣従を取り付けた。[[1135年]]にマティルダを次のイングランド王に定めて崩御した。この決定にマティルダの従兄の[[スティーブン (イングランド王)|スティーン]](ヘンリー1世の姉[[アデル・ド・ノルマンディー|アデラ]]の子)が異を唱えて同年イングランド王に即位すると、両者の間に「[[無政府時代 (イングランド)|無政府時代]]」と呼ばれる長い内戦が続いた{{sfn|森護|1986|p=37-39}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=31}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=716}}
 
アンジュー伯[[ジョフロワ4世]]とマティルダの長子として[[1133年]]にフランス西部の[[ル・マン]]に生まれたアンリ(のちのヘンリー2世)は、12歳になると(または13歳か14歳になる[[1146年]]末か[[1147年]]初頭)イングランドに渡って母を助け、[[1147年]]マティルダ[[アンジュー]]に戻ってからも、[[1149年]]以降何度かイングランドに渡ってスティーン側と戦った。いずれの戦闘も短期間で、戦況にはさほど影響は与えなかったが、[[スコットランド王国|スコットランド]][[スコットランド君主一覧|王]][[デイヴィッド1世 (スコットランド王)|デイヴィッド1世]]から[[騎士]]に叙されたことでスティーブンの動揺を誘い、マティルダ派に希望を与えた{{sfn|石井美樹子|1988|p=199}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=34-35}}
 
1150年、既に父が征服していたノルマンディー公位を受け継いだが、同年8月に[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]](若年王)はスティーブンに味方してノルマンディーへ進軍、この時はルイ7世の側近[[シュジェール]]の仲介で戦争は起こらなかったが、翌1151年1月にシュジェールが死去するとノルマンディーの政情は不安定に戻った。加えて、父が[[ポワチエ|ポワティエ]]代官ジロー・ベルレと紛争を起こし捕らえたことでルイ7世との対立が悪化、スティーブンの息子の[[ブローニュ=シュル=メール|ブローニュ]]伯[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ4世]](ユースタス)もルイ7世からの援助獲得を画策して一層複雑な情勢となっていった。この状況を打破するため、[[クレルヴォーのベルナルドゥス]]が仲介を申し出た{{sfn|桐生操|1988|p=75-76}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=195-197}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=93-94}}。
[[1150年]]、すでに父ジョフロワが征服していた[[ノルマンディー公]]位を受け継いだ。さらに[[1151年]]、父の死によりアンジュー伯領を受け継いだ。[[1152年]]には、[[フランス王国|フランス王]][[ルイ7世 (フランス王)|ルイ7世]](若年王)の王妃であった11歳年上の[[アリエノール・ダキテーヌ]](エリナー・オブ・アキテーヌ)と結婚し、彼女の相続地[[アキテーヌ公]]領の共同統治者となった。
 
1151年8月に父と共にルイ7世の[[パリ]]([[シテ島]])の[[シテ宮殿]]に姿を現し、ベルレの件で[[破門]]された父がベルナルドゥスから提案された、ベルレの釈放を引き換えにした破門解除の和睦を蹴ったため交渉は決裂したが、父がベルレを釈放したため一件落着となりルイ7世に臣従、ノルマンディー公位を確定させた。さらに同年9月、父の死によりアンジュー伯領を受け継いだ。翌[[1152年]][[5月18日]]にはルイ7世の王妃であった11歳年上の[[アリエノール・ダキテーヌ]](エリナー・オブ・アクイテイン)とポワティエで結婚し、彼女の相続地[[アキテーヌ公]]領の共同統治者となった{{#tag:ref|再婚話はジョフロワ4世・アンリ父子とアリエノールとの間で進められていたと推察され、1151年8月のルイ7世との会談決裂後、ジョフロワ4世がベルレをすぐに解放したこととルイ7世に係争地[[ヴェクサン]]を譲ったことが挙げられ(破門も解除された)、ジョフロワ4世父子がパリを去った直後にアリエノールとルイ7世の離婚手続きが開始されたこともあり、1152年[[3月21日]]に発表されたアリエノールとルイ7世の離婚、および2ヶ月後に挙行された5月18日のアリエノールとアンリの再婚は1151年から下準備が進められていたとされている{{sfn|桐生操|1988|p=77-78,83}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=198-204}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=96,101-102}}。|group=注釈}}{{sfn|桐生操|1988|p=76-84,100-101}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=197-209}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=93-97,101,104-105}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=35-37}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=322}}。
アリエノールの先夫であるルイ7世は、自身の妹婿でスティーヴンの息子のブローニュ伯[[ウスタシュ4世 (ブローニュ伯)|ウスタシュ]]と結んでアキテーヌ公領に侵入してきたが、アリエノールの夫となったアンリはこれを防いでいる。[[1153年]]にウスタシュが急死すると、アンリはスティーヴンと和平協定を結んでスティーヴン死後のイングランド王国の王位継承者となり、[[1154年]]にスティーヴンが亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位した<ref name=kato76>[[#加藤|加藤(2001)pp.76-78]]</ref>。なお、このときから、イングランド君主の称号は "''Rex Angliae''" (イングランド国王)となっている。
 
アリエノールの先夫であるルイ7世はフランスの西半分がアンリの手に入ったことに危機感を抱き、自分の許可なく結婚したアンリが宮廷出頭を無視したことを口実に7月にノルマンディーへ侵入、アンリの弟{{仮リンク|ジョフロワ (ナント伯)|en|Geoffrey, Count of Nantes|label=ジョフロワ}}も領地相続の不満から加勢したが(父の遺言を無視した兄にアンジューの相続権を奪われた)、アリエノールの夫となったアンリは7月半ばから8月末までにこれを防ぎ、[[シノン]]・{{仮リンク|ルーダン|en|Loudun}}・{{仮リンク|ミルボー (ヴィエンヌ県)|en|Mirebeau|label=ミルボー}}を奪取して弟を降伏させた。ルイ7世も当初の勢いを失い休戦、背後の安全を確保したアンリは[[1153年]]1月にアリエノールを残してイングランドへ渡った{{sfn|桐生操|1988|p=85-88}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=210-212}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=115-118}}{{sfn|加藤雅彦|2001|p=76-78}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=35,39}}。
これにより、イングランド王国にアンジュー家によるプランタジネット朝が創始され、ヘンリー2世が領有する地域は、ピレネーからアキテーヌ、[[ポワトゥー]]にかけてのフランス南西部、[[アンジュー]]、ノルマンディーなどフランス北西部、さらにイングランドの新領土を加えた広大なものとなった<ref name=kato76/>。なお、ヘンリー2世の創始した王朝は、本来では「アンジュー朝」と称されるべきであり、事実[[15世紀]]までは「アンジュー」と呼ばれていたが、現在では一般に「プランタジネット朝」が用いられる。これは、ヘンリー2世の父ジョフロワが[[エニシダ]](プランタ・ゲニスタ)の小枝を帽子に刺して戦地に赴いたことに由来する<ref name=kato76/><ref group="注釈">プランタジネットの家名を用いたのは、実際には[[ヨーク朝|ヨーク家]]の[[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|ヨーク公リチャード]]が最初である。[[#加藤|加藤(2001)p.78]]</ref>。
 
[[1月6日]]に到着したイングランドでは劣勢に傾いたスティーブンから和平を打診され、スティーブンの弟の{{仮リンク|ウィンチェスター司教|en|Bishop of Winchester}}{{仮リンク|ヘンリー・オブ・ブロワ|en|Henry of Blois|label=ヘンリー}}と[[カンタベリー大司教]]{{仮リンク|シオボルド・オブ・ベック|en|Theobald of Bec}}が交渉に当たった。和平に反対したウスタシュ4世が[[8月17日]]に急死すると、[[11月6日]]にアンリはスティーブンと和平協定({{仮リンク|ウォーリングフォード協定|en|Treaty of Wallingford}}、ウィンチェスター協定とも)を結んで、スティーブンの次男でウスタシュ4世の弟のブローニュ伯[[ギヨーム1世 (ブローニュ伯)|ギヨーム1世]]に所領保有など補償を与えた上でスティーブン死後のイングランド王位継承者となる。翌1154年春に一旦ノルマンディーへ帰還し、妻と渡海中に生まれた長男{{仮リンク|ギヨーム9世 (ポワティエ伯)|en|William IX, Count of Poitiers|label=ウィリアム}}と[[復活祭]]を祝い、[[ルーアン]]で母と対面したりして過ごした。[[10月25日]]にスティーブンが亡くなると協定どおりヘンリー2世として即位、妻子を連れて再渡海して[[12月8日]]にイングランドに上陸した。そして[[12月19日]]に[[ウェストミンスター寺院]]でアリエノールと共にイングランド王・王妃として戴冠した(アリエノールは妊娠中で不在、[[1158年]]に{{仮リンク|ウスター大聖堂|en|Worcester Cathedral}}で戴冠したとも)。ウィリアムは[[1156年]]に夭折するも夫妻は8人の子を儲けた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=322}}{{sfn|加藤雅彦|2001|p=76-78}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=824}}{{sfn|桐生操|1988|p=91-96}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=219-223}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=118-124}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=63-64,69}}。なお、この時からイングランド君主の称号は"''Rex Angliae''"(イングランド国王)となっている。
 
これにより、イングランド王国にアンジュー家によるプランタジネット朝が創始され、ヘンリー2世が領有する地域は、ピレネー山脈からアキテーヌ、[[ポワトゥー]]にかけてのフランス南西部、アンジュー、ノルマンディーなどフランス北西部、さらにイングランドの新領土を加えた広大なものとなった。なお、ヘンリー2世の創始した王朝は、本来では「アンジュー朝」と称されるべきであり、事実[[15世紀]]までは「アンジュー」と呼ばれていたが、現在では一般に「プランタジネット朝」が用いられる。これは、ヘンリー2世の父ジョフロワ4世が[[エニシダ]](プランタ・ゲニスタ)の小枝を帽子に刺して戦地に赴いたことに由来する{{#tag:ref|プランタジネットの家名を用いたのは、実際には[[ヨーク朝|ヨーク家]]の[[ヨーク公]][[リチャード・プランタジネット (第3代ヨーク公)|リチャード]]が最初である{{sfn|加藤雅彦|2001|p=78}}。|group=注釈}}{{sfn|加藤雅彦|2001|p=76-78}}{{sfn|森護|1986|p=42}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=322-323}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=70-71}}。
 
ちなみに、弟ジョフロワには1152年の降伏でルーダンだけ与え、引き換えにアンジュー領有を認めさせた。そのジョフロワは[[ブルターニュ公国]]で反乱を起こした貴族たちの要請で[[ナント]]伯になったが、1158年[[7月27日]]に急死するとヘンリー2世は先祖からのブルターニュ宗主権を主張してナントを領有、ルイ7世にも認めさせた。これは後にブルターニュを手に入れる布石となった{{sfn|桐生操|1988|p=108-109}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=242}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=149-150,152}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=39-40}}。
 
=== アンジュー帝国 ===
{{Main|アンジュー帝国}}
[[ファイル:France 1154 Eng.jpg|thumb|250px|right|1154年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(茶、褐色の部分)]]
ヘンリー2世は、長い内戦で疲弊していたイングランドを安定させると、さらなる勢力拡大を図った。北方では、[[スコットランド王国|スコットランド]]王[[マルカム4世 (スコットランド王)|マルカム4世]]を屈服させ、[[ノーサンバーランド (イングランド)|ノーサンバーランド]]と[[カンバーランド]]を領有した。[[1174年]]には、息子たちとの内乱(後述)に乗じてノーサンバーランドへ攻め込んできた[[ウィリアム1世 (スコットランド王)|ウィリアム1世]](マルカム4世の弟)も破り、[[ファレーズ協定条約]]でスコットランドのイングランドへの臣従などイングランド優位の項目を取り決めた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=71-72}}
 
西方では、スティーブン時代に失われた[[ウェールズ]]の支配を復活させた。[[1157年]]から[[1165年]]まで8年に渡るウェールズ遠征に乗り出すが、ゲリラと豪雨に悩まされあまり成果は無かった。とりわけウェールズの有力者[[オワイン・グウィネズ]]などウェールズ諸侯とは対立したが、遠征がひとまず終了した1165年以後は穏健な態度で接していった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=48-49}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=72}}。
西方では、スティーヴン時代に失われた[[ウェールズ]]の支配を復活させた。[[アイルランド]]に関しては、アイルランドで{{仮リンク|ケルズ教会会議|en|Synod of Kells}}が開かれた3年後の[[1155年]]、イングランド出身の唯一の[[ローマ教皇]]、[[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]]が"Laudabiliter(ラウダビリテル)"と題する[[教皇勅書]]を発し、ヘンリー2世に対してアイルランド攻撃を許可し、アイルランド全島の教化を命じたと伝わるが、この勅書の信憑性については疑問も持たれている<ref group="注釈">ハドリアヌス4世は、ヘンリー2世が弟のウィリアムに封土を与えるためにアイルランド侵攻を許可したともいわれる。[[#PGMS|マックスウェル・スチュアート(1999)p.125]]</ref>。ヘンリー2世はアイルランドへの植民を進め、[[ローマ教会]]との交渉でその宗主権を認められ、[[1171年]]、「[[アイルランド卿]]」の称号を入手した。
 
[[アイルランド]]に関しては、アイルランドで{{仮リンク|ケルズ教会会議|en|Synod of Kells}}が開かれた3年後の[[1155年]]、イングランド出身の唯一の[[教皇|ローマ教皇]][[ハドリアヌス4世 (ローマ教皇)|ハドリアヌス4世]]が"Laudabiliter(ラウダビリテル)"と題する[[教皇勅書]]を発し、ヘンリー2世に対してアイルランド攻撃を許可し、アイルランド全島の[[ケルト系キリスト教|ケルト教会]]から[[カトリック教会]]への教化を命じたと伝わるが、この勅書の信憑性については疑問も持たれている。これとは別に、ウェールズ南部のアングロ・ノルマン人貴族たちは先住民の抵抗とヘンリー2世の中央集権化で挟み撃ちにされ、打開策としてアイルランドへの植民を進め、アイルランド南東のレンスター王{{仮リンク|ダーマット・マクモロー|en|Diarmaid mac Murchadha}}の援軍要請に応じて[[ノルマン人のアイルランド侵攻|アイルランド侵攻]]を[[1169年]]から始めた(その中にはマクモローの娘との結婚でレンスター王位を継いだ[[ペンブルック伯]]{{仮リンク|リチャード・ド・クレア (第2代ペンブルック伯) |en|Richard de Clare, 2nd Earl of Pembroke|label=リチャード・ド・クレア}}もいた){{#tag:ref|ハドリアヌス4世は、ヘンリー2世が弟のウィリアムに封土を与えるためにアイルランド侵攻を許可したともいわれる{{sfn|P.G.マックスウェル・スチュアート|高橋正男|1999|p=125}}。|group=注釈}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=147}}{{sfn|川北稔|1998|p=58-59,416-418}}。
[[フランス王国|フランス]]ではルイ7世との抗争を続けながら、四男の[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジョフロワ]](ジェフリー)の婚姻により[[ブルターニュ地域圏|ブルターニュ]]公領を支配下に置き、さらに[[トゥールーズ]]伯に対してアキテーヌ公の宗主権を主張して、これを臣従させた。これらは後に「[[アンジュー帝国]]」と通称されるようになる。ただし、この「帝国」はヘンリー2世が個人として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、統合性は名実ともに備わっておらず、一円的な領域支配からは遠かった。そのため、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
 
当初アイルランドを現地任せにしていたヘンリー2世は[[1171年]]に支配確立のため自らアイルランドへ遠征、[[ゲール人]]のアイルランド諸王の恭順とペンブルック伯らアングロ・ノルマン人貴族たちの臣従を取り付け、教皇の手紙を根拠に宗主権を認めさせ「[[アイルランド卿]]」の称号を入手した。同年に{{仮リンク|ヒュー・ド・レイシー (ミーズ卿)|en|Hugh de Lacy, Lord of Meath|label=ヒュー・ド・レイシー}}を[[副王]]([[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]])に任命・統治させ、[[1175年]]には[[アイルランド上王]]の称号でも呼ばれたヘンリー2世は{{仮リンク|ウィンザー条約 (1175年)|en|Treaty of Windsor (1175)|label=ウィンザー条約}}で改めて宗主権を認めさせ、政治・行政・司法でイングランド化を推進するようになる{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=72}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=147-148}}{{sfn|川北稔|1998|p=59,418-420}}。
ヘンリー2世はさらに、次男の[[若ヘンリー王|若ヘンリー]]をルイ7世の娘[[マルグリット・ド・フランス (1158-1197)|マルグリット]]と結婚させて、当時世嗣がいなかったフランス王位もねらったが、これはのちに[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が誕生したため果たせなかった。また、ヘンリー2世には娘が3人いたが、長女[[マティルダ・オブ・イングランド|マティルダ]](モード)は[[ザクセン君主一覧|ザクセン公]]兼[[バイエルン大公|バイエルン公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ]](獅子公)に、次女[[エレノア・オブ・イングランド|エリナー]]は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]に、三女[[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン]]は[[シチリア王国|シチリア]]王[[グリエルモ2世]]に嫁がせ(夫と死別後トゥールーズ伯[[レーモン6世 (トゥールーズ伯)|レーモン6世]]と再婚)、これらと結んで[[神聖ローマ皇帝]]の[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](赤髭王、バルバロッサ)に対抗した。
 
フランスではルイ7世との抗争を続けながら、四男の[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジェフリー]]の婚姻によりブルターニュ公国を支配下に置いた。[[1166年]]に[[ブルターニュ君主一覧|ブルターニュ公]]{{仮リンク|コナン4世 (ブルターニュ公)|en|Conan IV, Duke of Brittany|label=コナン4世}}に彼の娘[[コンスタンス・ド・ブルターニュ|コンスタンス]]とジェフリーとの婚約を強制させ、ジョフロワ2世ことジェフリーの名の下にブルターニュを手に入れたのである。さらに[[トゥールーズ伯]]{{仮リンク|レーモン5世 (トゥールーズ伯)|en|Raymond V, Count of Toulouse|label=レーモン5世}}に対してアキテーヌ公の宗主権を主張して、[[1159年]]の遠征はルイ7世の介入で失敗したが、[[1173年]]にレーモン5世を臣従させた。これらは後に「[[アンジュー帝国]]」と通称されるようになる{{#tag:ref|トゥールーズ遠征でルイ7世が立ちはだかった時、ヘンリー2世は攻撃せず撤退、トゥールーズ遠征も打ち切った。このヘンリー2世の転換には[[封建制|封建制度]]上の問題に触れる恐れがあったからとされ、フランスではルイ7世に臣従しているため、宗主のルイ7世に攻撃出来なかったという推測が歴史家から説明されている。またヘンリー2世自身も王である以上、臣下の権利を守るのは君主の義務という封建制度の原理を破ったら、自らの首を絞めることにもなりかねない危惧も抱いていたとされる{{sfn|石井美樹子|1988|p=241-242}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=156-157}}。|group=注釈}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=48-49}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=239-243,300}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=153-158,193}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=44-45}}。
こうして、征服王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]によって始められた中世イングランドの基礎づけは、またしてもフランス出身のヘンリー2世によって大成されることとなった<ref name=horigome238/>。
 
ただし、この「帝国」はヘンリー2世が個人として各爵位とそれにともなうそれぞれの封土を所有しているだけであり、統合性は名実ともに備わっておらず、一円的な領域支配からは遠かった。そのため、ヘンリー2世の死後は「帝国」は再び分離し始めることとなった。
 
更にヘンリー2世は、1158年に[[大法官]][[トマス・ベケット]]の外交手腕で次男の[[若ヘンリー王|若ヘンリー]]をルイ7世の娘[[マルグリット・ド・フランス (1158-1197)|マルグリット]]と婚約させて、[[1160年]]に2人の結婚式を挙げて持参金の[[ヴェクサン]]を強引に奪った。この結婚で当時世嗣がいなかったフランス王位も狙ったが、1165年にルイ7世と3番目の妃[[アデル・ド・シャンパーニュ|アデル]]との間に息子[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]]が誕生したため果たせなかった。また、ヘンリー2世には娘が3人いたが、長女[[マティルダ・オブ・イングランド|マティルダ]](モード)は[[ザクセン公国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|公]]兼[[バイエルン公国|バイエルン]][[バイエルンの君主一覧|公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ]](獅子公)に、次女[[エレノア・オブ・イングランド|エレノア]]は[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|王]][[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]に、三女[[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン]]は[[シチリア王国|シチリア]][[ナポリとシチリアの君主一覧|王]][[グリエルモ2世]]に嫁がせ(夫と死別後トゥールーズ伯[[レーモン6世 (トゥールーズ伯)|レーモン6世]]と再婚)、これらと結んでフランスに対抗して[[神聖ローマ皇帝]][[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]](赤髭王、バルバロッサ)や教皇と協調関係を保った{{#tag:ref|1160年にルイ7世が3度目の結婚を挙行した際、ルイ7世は政略結婚を通じてシャンパーニュ伯領を治める[[ブロワ家]]に接近、自分とアリエノールとの間に生まれた2人の娘(ヘンリー2世には継子に当たる)[[マリー・ド・フランス (1145-1198)|マリー]]と[[アリックス・ド・フランス (1150-1195)|アリックス]]をそれぞれ[[シャンパーニュ伯]][[アンリ1世 (シャンパーニュ伯)|アンリ1世]]、[[ブロワ]]伯[[ティボー5世 (ブロワ伯)|ティボー5世]]兄弟と婚約、自身もシャンパーニュ伯兄弟の妹アデルと結婚することでプランタジネット家を牽制することを狙った。一時はプランタジネット家とブロワ家どちらかがフランスを手に入れるかが焦点になったが、フィリップ2世の誕生で後者が勝利を収めた{{sfn|桐生操|1988|p=109-110,119-120}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=225-226,244}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=151,163}}。|group=注釈}}{{sfn|桐生操|1988|p=106-110,119-121}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=243-245,261}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=145-150,161-164}}{{sfn|川北稔|1998|p=59}}。
 
こうして、征服王[[ウィリアム1世 (イングランド王)|ウィリアム1世]]によって始められた中世イングランドの基礎づけは、またしてもフランス出身のヘンリー2世によって大成されることとなった{{sfn|堀米庸三|1974|p=238-241}}。
 
=== 内政 ===
{{See also|コモン・ロー#歴史}}
即位当初のヘンリー2世は、無政府時代からイングランドに秩序と平和を取り戻すことに尽力、巨大な領土を1つに纏め王権の強化を目指し、各地へ巡回して地方の裁判や徴税の調査に出かけ、王国の職務に専念した。アリエノールはヘンリー2世と共に領国巡回したり、裁判で所領紛争を調停したり、ヘンリー2世が不在の領土を守る役目も果たし、夫を共同統治者として支えた。ただし、ヘンリー2世は[[1155年]]からトマス・ベケットを大法官に抜擢して右腕に取り立てると、アリエノールを国政から遠ざけている。またベケットに命じて[[ウェストミンスター宮殿]]を再建させた{{sfn|桐生操|1988|p=98-103}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=234-239,249-251}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=124-129,146-147}}。
ヘンリー2世は即位すると諸侯に命じ、内戦時代に築かれた城砦を破棄させ、不当に奪った領土を返還させてヘンリー1世時代の諸権利を回復させた。さらに、戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、[[巡回裁判官]]を各地に派遣して地方の行政を監視させ、起訴[[陪審制]]を定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。現在に続くイギリスの諸制度の多くは、この時代に整えられたものだといわれている。ヘンリー2世統治のもとで、イギリス独特の議会制度の淵源となる、いわば強制的自治と形容すべき、封建的な諸勢力からの干渉を廃した王権に直属した地方自治制度の大枠が形づくられ、イングランド全土に適用される[[コモン・ロー]]が整えられたのである<ref name=horigome238/>{{Efn|国家財政や地方の会計報告が規則的に連続して残されるようになるのは、ヘンリー2世の治世初めになってからである<ref>{{Cite book|和書|author=[[フレデリック・メイトランド|F・W・メイトランド]]|year=1981|title=イングランド憲法史|publisher=創文社|pages=P.15}}</ref>。}}。なお、[[イングランド王室紋章]]にライオンの紋章を採用したのはヘンリー2世であるといわれている<ref group="注釈">リチャード1世がそれまで1頭だったライオンを3頭に増やしたといわれている。</ref>
 
ヘンリー2世は即位すると諸侯に命じ、内戦時代に築かれた城砦({{仮リンク|違法城砦|en|Adulterine castle}})を破棄させ、不当に奪った領土を返還させてヘンリー1世時代の諸権利を回復させた。さらに、戦争で疲弊していたイングランドの行政・司法・兵制を再建し、[[巡回裁判所]]の拡充を図り巡回裁判官を各地に派遣して地方の行政を監視させ、起訴[[陪審制]]([[大陪審]])と{{仮リンク|土地回復訴訟|en|Grand Assize}}も定め、土地などの占有権侵奪回復訴訟を令状によって国王裁判所に集中させた。現在に続くイギリスの諸制度の多くは、この時代に整えられたものだといわれている。ヘンリー2世統治のもとで、イギリス独特の[[イギリスの議会|議会]]制度の淵源となる、いわば強制的自治と形容すべき、封建的な諸勢力からの干渉を廃した王権に直属した地方自治制度の大枠が形づくられ、イングランド全土に適用される[[コモン・ロー]]が整えられたのである{{#tag:ref|国家財政や地方の会計報告が規則的に連続して残されるようになるのは、ヘンリー2世の治世初めになってからである<ref>{{Cite book|和書|author=[[フレデリック・メイトランド|F・W・メイトランド]]|year=1981|title=イングランド憲法史|publisher=創文社|pages=P.15}}</ref>。|group=注釈}}{{sfn|堀米庸三|1974|p=238-241}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|森護|1986|p=46}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=72-74}}。なお、[[イングランド王室紋章]]にライオンの紋章を採用したのはヘンリー2世であるといわれている{{#tag:ref|リチャード1世がそれまで1頭だったライオンを3頭に増やしたといわれている{{sfn|森護|1986|p=67-68}}。|group=注釈}}。
[[ノルマン・コンクエスト]]以来、歴代イングランド王は同時にノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめくヨーロッパ大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居住していることが多く、[[ノルマンディー]]の[[ルーアン]]が実質的な首都だった。
 
また、祖父ヘンリー1世が着手していた国家統治機構や制度を用いてイングランドを安定に導き、不在時のイングランドを行政長官(または{{仮リンク|最高法官|en|Justiciar}})が政務を統括、[[Exchequer|イクスチェッカー]]([[財務省 (イギリス)|財務省]]の原型)が中枢機関として機能する体制を整えた。イングランドはフランスより中央集権化されていて、年2回の復活祭・[[9月29日]]のミカエル祭に各地の地方長官を集めた収支報告がそれを象徴しており、彼等を[[ロンドン]]か[[ウィンチェスター (イングランド)|ウィンチェスター]]に召集して会計報告をイクスチェッカーでチェック、地方財政と諸侯を監視・掌握した。それだけでなく封臣が下封した騎士の領地の一斉調査を[[1163年]]から始め、調査が完了した1166年にイングランドの領土全般に渡る帳簿を作成、主従関係の実態を把握すると[[1168年]]、従軍しない封臣に[[軍役]]と引き換えに貨幣で代納する[[軍役代納金]]も設け、この金で[[傭兵]]を雇い軍事力を増強した。より一層の増員を図り[[1181年]]には{{仮リンク|武装条例 (1181年)|en|Assize of Arms of 1181|label=武装条例}}を制定、都市の財産査定に基づき市民の武装と王の軍へ参加させることを定めた一方、発展していく都市に自治権を与え自治都市として王権の味方にする政策も進め、政治・財政・軍事を整えていった。かたや防衛費のため財政難でたびたび[[賢人会議]]を召集して課税問題を討議、ヘンリー2世が頻繁にイングランドを不在にするため賢人会議はロンドンか[[ウェストミンスター]]で召集、やがて議会へと発展していった{{sfn|森護|1986|p=46}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=237-238}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=127-128}}{{sfn|川北稔|1998|p=55-56}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=50-51,61-62}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=33-34}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=51-52,77-79}}。
大陸に比べ領土が確定し、比較的安定した統治が見込まれるイングランドは、軍事・財政面で大陸経営を支える役割を担っていたが、イングランド貴族の多くは[[軍役代納金|軍役免除金]](スクテージ)を支払って大陸での従軍から逃れることを望んだ。これは、のちに独立性の強い[[ジェントリ]](郷紳)と呼ばれる階層が発生する原因にもなった。
 
[[ノルマン・コンクエスト]]以来、歴代イングランド王は同時にノルマンディー公を兼ねていることが多かったので、有力諸侯がひしめくヨーロッパ大陸の領土を巡回するため長くフランスに滞在し、イングランドに滞在することは少なかった。ヘンリー2世もその例にたがわずフランスに居住していることが多く、[[ノルマンディー]]のルーアンが実質的な首都だった。
 
司法改革も推進、全国の巡回裁判区を6つに分けたり大陪審を採用、1166年の{{仮リンク|クラレンドン条例|en|Assize of Clarendon}}制定、[[1176年]]にはクラレンドン条例を補充・拡大した{{仮リンク|ノーサンプトン条例|en|Assize of Northampton}}制定で前述の土地回復訴訟などが明文化、王の裁判権を地方に伸ばしてコモン・ロー形成を促進する一方で貴族の裁判権を弱め、国王裁判所が土地訴訟に介入する道筋を作った。またイングランド不在の間は{{仮リンク|リチャード・ド・ルーシー|en|Richard de Luci}}、{{仮リンク|ラヌルフ・ド・グランヴィル|en|Ranulf de Glanvill}}が、ノルマンディー不在の間は{{仮リンク|リチャード・オブ・イルチェスター|en|Richard of Ilchester}}が摂政あるいは副王として代行に当たった。こうして1176年末にはアンジュー帝国は封建国家のままとはいえ、君主の権力が強化された広大な国家として君臨していった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|川北稔|1998|p=56-57}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=51-52,59-61}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=148,526}}。
 
大陸に比べ領土が確定し、比較的安定した統治が見込まれるイングランドは、軍事・財政面で大陸経営を支える役割を担っていたが、イングランド貴族の多くは軍役代納金(スクテージ)を支払って大陸での従軍から逃れることを望んだ。これは、後に独立性の強い[[ジェントリ]](郷紳)と呼ばれる階層が発生する原因にもなった(軍役代納金はヘンリー2世以後も続いたが、[[1327年]]を最後に徴収されなくなる){{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=671}}。
 
=== トマス・ベケット殺害事件 ===
[[ファイル:Thomas Becket Murder.JPG|right|thumb|190px|トマス・ベケット(1118年-1170年)殺害を描いた[[14世紀]]の[[写本]]挿絵]]
領国統治安定のためには[[ローマ教皇庁]]との協力も欠かせないため、1160年から教皇[[アレクサンデル3世 (ローマ教皇)|アレクサンデル3世]]と良好な関係を築いた。同年挙行した若ヘンリーとマルグリットの結婚許可を取り付けるために教皇に接近、イングランド教会の首座司教たるカンタベリー大司教の人事に対する支持も取り付けている。アレクサンデル3世としても、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世との対立でヘンリー2世の支持が必要だった{{sfn|桐生操|1988|p=121}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=47}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=74}}。
[[カンタベリー大司教]][[トマス・ベケット]]は、ヘンリー2世の信頼と愛顧を一身に集めた腹心であり、また、息子の[[若ヘンリー王|ヘンリー]](若ヘンリー)の家庭教師を任せた友人でもあった。ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとし、また、政教関係の難しい調整を期待して、かつて[[大法官]]としてトマス・ベケットを[[1162年]]にイギリスの総司教座につかせたのである<ref name=horigome238/>。このとき、ベケットは「これで貴下の愛顧もわれわれの友情も終わりだろう。なぜなら、貴下が教会事項について要求されるだろうことは、私の承認できぬことだから」と語ったといわれる<ref name=horigome238/>。
 
大法官トマス・ベケットは、ヘンリー2世の即位に功績があり側近として重んじられたカンタベリー大司教シオボルド・オブ・ベックの薫陶を受け、ヘンリー2世の信頼と愛顧を一身に集めた腹心であり、息子の若ヘンリーの家庭教師を任せた友人でもあった。ヘンリー2世は王による教会支配を強化しようとし、政教関係の難しい調整を期待して、[[1161年]]のベック亡き後にカンタベリー大司教が空位になっていたことを踏まえ、かつて大法官として重用したベケットを翌[[1162年]]にカンタベリー大司教に就かせたのである。だがこの時、ベケットは「これで貴下の愛顧もわれわれの友情も終わりだろう。なぜなら、貴下が教会事項について要求されるだろうことは、私の承認できぬことだから」と語ったといわれる{{sfn|堀米庸三|1974|p=238-241}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|森護|1986|p=47-48}}{{sfn|桐生操|1988|p=111-112}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=249-254}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=166-168}}{{sfn|川北稔|1998|p=57}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=75-76}}。
大司教となったトマス・ベケットは教会の自由を唱え、ことあるごとに王と対立した。特に、裁判制度の整備を進める上で[[クラレンドン法]]を制定して、「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。ベケットは[[1164年]]、国外追放に処せられた<ref name=roberts152>[[#ロバーツ|ロバーツ(2003)p.152]]</ref>。
 
大司教となったベケットは大法官だった頃とは打って変わって教会の自由を唱え、ことあるごとに王と対立した。特に、王は裁判制度の整備を進める上で[[1164年]][[1月30日]]に[[クラレンドン法]](クラレンドン条例とは別)を制定して「罪を犯した聖職者は、教会が位階を剥奪した後、国王の裁判所に引き渡すべし」と教会に要求したが、ベケットはこれを教会への干渉として拒否した。ベケットは同年[[11月2日]]、国外追放に処せられフランスへルイ7世を頼り亡命した{{#tag:ref|当時の聖職者には特権があり、聖職者の犯罪は殺人・姦通など世俗的な犯罪でも教会裁判所で裁かれるが、ほとんどが軽罪あるいは無罪同然で済むという問題があった。また教会裁判所も権力を拡大していたため対策としてクラレンドン法が制定された。内容は教会裁判所で扱う訴訟は国王裁判所の管轄にすること、聖職者の教皇庁への上訴や出国に国王の許可を要すること、犯罪者として訴追された聖職者は教会裁判所で裁かれた後は国王裁判所でも裁かれることなどが明記され、{{仮リンク|聖職推挙権|en|Advowson}}を[[財産権]]([[物的財産]])として遺贈・売却を可能にして俗人による聖職者推挙の拡大も図り、王権の教会に対する優越を確立しようとした。この法に対しベケットは聖職者の国王裁判所処罰に反対したため王と対立した{{sfn|森護|1986|p=50}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=6,148-149}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=75}}。|group=注釈}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|桐生操|1988|p=112-119}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=254-260}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=168-170}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=51-52}}{{sfn|J.M.ロバーツ|池上俊一|2003|p=152}}。
[[1170年]]、イングランドに帰国したベケットは、親国王派の司教たちを解任した<ref name=roberts152/>。これに対し、国王が大司教暗殺を望んでいると誤解した4人の騎士は、カンタベリー大聖堂においてヘンリー2世に無断でベケットを暗殺した<ref name=horigome238/>。人々はベケットを[[殉教者]]と見なし、ローマ教会は即座にベケットを[[列聖]]した。ヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、[[修道士]]の粗末な服装でベケットの墓に額ずき[[懺悔]]をするとともに、[[ローマ教皇]]に降伏しなければならなくなった<ref name=horigome238/>。この事件は、後述するように、ローマ教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反まで招いたのであった<ref name=horigome238/>。
 
ベケットは教皇やフランス王に庇護されながらヘンリー2世との対立を継続、ヘンリー2世も教皇に圧力をかけてベケットを脅かし、ルイ7世の仲介で行われた和睦交渉も決裂して両者の対立に終着点が見えない中、[[1170年]][[6月14日]]、ヘンリー2世はウェストミンスター寺院にて、若ヘンリーの共治王戴冠式をカンタベリー大司教ベケットの不在の時に挙行({{仮リンク|ヨーク大司教|en|Archbishop of York}}{{仮リンク|ロジャー・ド・ポン・レヴェック|en|Roger de Pont L'Évêque}}が戴冠式を代行)。対するベケットは[[12月1日]]にイングランドに帰国すると、親国王派で戴冠式を挙行した司教たちを破門した{{sfn|J.M.ロバーツ|池上俊一|2003|p=152}}。これにヘンリー2世が激怒、国王が大司教[[暗殺]]を望んでいると誤解した4人の騎士は[[12月29日]]、[[カンタベリー大聖堂]]においてヘンリー2世に無断でベケットを暗殺した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|森護|1986|p=48-49}}{{sfn|桐生操|1988|p=121-125,133-144}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=271-278}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=178-181}}{{sfn|川北稔|1998|p=57-58}}{{sfn|P.G.マックスウェル・スチュアート|高橋正男|1999|p=127-128}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=52-53}}。
 
人々はベケットを[[殉教者]]と見なし、カトリック教会は即座にベケットを[[列聖]]したためヘンリー2世の立場は非常に悪くなり、[[1172年]][[5月21日]]にノルマンディーの[[アヴランシュ]]にて、衆人環視の中で[[修道士]]の粗末な服装でベケット暗殺に無関係だと宣誓しつつも鞭打ち・[[懺悔]]をするとともに、カンタベリー大聖堂の復権や教皇への服従など教会に譲歩しなければならなくなった({{仮リンク|アヴランシュの和解|en|Compromise of Avranches}})。この事件は、後述するようにカトリック教会への譲歩ばかりではなく、臣下の反逆や息子たちの離反まで招いたのであった{{sfn|堀米庸三|1974|p=238-241}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|森護|1986|p=49-50}}{{sfn|桐生操|1988|p=153,159-160}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=294}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=190-191}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=53-55}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=47}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=76}}。
 
=== 十字軍 ===
トマス・ベケット殺害に対する懺悔として、王は[[十字軍]]遠征を約束し、当面の資金援助として[[テンプル騎士団]]に騎士200人分の費用を提供した。また争点だったクラレンドン法の一部撤回を余儀なくされ、教皇庁の上訴禁止条項と聖職者の国王裁判所処罰は撤廃された。しかし教会の世俗的権利に関する裁判権は国王に属することも確認され、教会に対する王権の優位はほぼ確保された{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=47}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=191}}{{sfn|川北稔|1998|p=58}}
 
[[1185年]]、サラディン([[サラーフッディーン]])の重圧の前に風前のともし火であった[[エルサレム王国]]から救援を要請する使節団がヨーロッパを巡回し、イングランドにもやってきた。エルサレム国王[[ボードゥアン4世 (エルサレム王)|ボードゥアン4世]]はアンジュー家の分家出身で、ヘンリー2世の従弟に当たったが、病気のため子供がおらず、ヘンリー2世に十字軍従軍とエルサレム王位継承を要請した。しかし、ヘンリー2世は人員と資金の提供は承知したが従軍の約束はしなかった{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|2005|p=68-69}}
 
[[1187年]]の[[ヒッティーンの戦い|ハッティンの戦い]]の後、エルサレムは陥落し、ヨーロッパでは[[第3回十字軍]]が勧誘された。三男の[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]]は即座に参加を希望したが、ヘンリー2世とフィリップ2世はお互いに牽制し合い、まず協定を決めることから始めなければならなかった。ヨーロッパ中で有名な{{仮リンク|サラディン税|en|Saladin tithe}}が徴収されたが、ヘンリー2世は結局聖地には向かわなかった{{sfn|桐生操|1988|p=224}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=340-341}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=236-237}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|2005|p=70-72}}
 
=== 息子たちの反乱 ===
[[ファイル:Henry II of England - Illustration from Cassell's History of England - Century Edition - published circa 1902.jpg|thumb|right|190px|[[1902年]]の書籍のイラストに描かれたヘンリー2世]]
ヘンリー2世と王妃アリエノールとの間には、早世したウィリアム(1153年 - 1156年)の他、[[若ヘンリー王|若ヘンリー]](アンリ、1155年生)、[[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]](リシャール、1157年生)、[[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジェフリー]](ジョフロワ、1158年生)、[[ジョン (イングランド王)|ジョン]](ジャン、11671166)の4人の息子がいた。彼ら息子たちのうち、1人として父を裏切らない者はいなかった<ref name{{sfn|堀米庸三|1974|p=horigome238/>238-241}}
 
きっかけはヘンリー2世が愛妾{{仮リンク|ロザモンド・クリフォード|en|Rosamund Clifford}}を囲ったことでアリエノールと不仲になったことにある。アリエノールが妊娠中の1166年頃にロザモンドを{{仮リンク|ウッドストック宮殿|en|Woodstock Palace}}に引き入れ同居(2人の関係は[[1173年]]頃とも)、それまで結婚生活に愚痴を言わず、束の間の浮気は目をつぶっていたアリエノールだが、ロザモンドの同居で夫との別居を決意したアリエノールは愛人との同居を拒み、子供たちと供の者を連れて[[オックスフォード]]の{{仮リンク|ボーモント宮殿|en|Beaumont Palace}}へ移りそこでジョンを出産、夫妻の仲に修復不可能な亀裂が入った{{#tag:ref|ロザモンドには彼女を称える詩人や戯曲家が生み出したバラードや戯曲で様々な伝説が語られ、嫉妬心の強いアリエノールからロザモンドを守るため、ヘンリー2世は複雑な迷路に作り替えたウッドストック宮殿にロザモンドを住まわせた、迷路を突破したアリエノールがロザモンドに毒か剣か自殺を迫ったという逸話が残るが、ロザモンドが死亡した1176年時点でアリエノールはヘンリー2世に幽閉されていたため事実でない(後述)。ロザモンドの詳しい死因は不明だが病死であり、遺体はオックスフォードの{{仮リンク|ゴッドストウ|en|Godstow}}にある修道院に埋葬されたが、墓は売春婦ということで移送され現在は所在不明、修道院も現存していない{{sfn|森護|1986|p=51-53}}{{sfn|桐生操|1988|p=127}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=262-264}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=164-165}}。|group=注釈}}{{sfn|桐生操|1988|p=126-128}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=262-266}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=164-166}}。
[[1169年]]、ヘンリー2世はフランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてアンジューと[[メーヌ]]の地を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、フランス王に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが、支配できずに逃げ帰っている)<ref group="注釈">「欠地王」「無地王」のあだ名はこのことに由来する。「失地王」の訳語は、後年のローマ教皇やフランス王との紛争によって起こった結果と誤解されたことから生じた誤訳である。[[#堀米|堀米(1974)p.241]]</ref>。
 
[[1167年]]12月、アリエノールと共にノルマンディーの[[アルジャンタン]]で宮廷を開き、そこでポワティエとアキテーヌの反乱を鎮めるため、ポワティエへアリエノールを代理として赴任させた後、[[1168年]]1月にイングランドへ戻った。妻には護衛として[[ソールズベリー伯爵]]{{仮リンク|パトリック・オブ・ソールズベリー (初代ソールズベリー伯)|en|Patrick, 1st Earl of Salisbury|label=パトリック・オブ・ソールズベリー}}を付け、[[リュジニャン家]]の兵士に襲われソールズベリー伯は戦死したがアリエノールは逃げ延び、捕虜になったソールズベリー伯の甥[[ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]](後の初代ペンブルック伯)はアリエノールが身代金を支払い解放、以後マーシャルはヘンリー2世とアリエノールの子供たちの忠実な側近として台頭していった。だが、アリエノールは夫からの自立を画策し、自領の平定に尽力しつつもアンジュー帝国から自領を切り離し、子供たちへ与えることを計画、夫と対立してでも子供たちの権利を支持することを決意、以後夫と別居状態に入った{{sfn|桐生操|1988|p=128-130}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=266-268,272}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=170-174}}。
1169年のフランスとの協約に従い、ルイ7世の娘婿でもある若ヘンリーは1170年に共同王として戴冠するが実権はなく、父に対して不満を抱いていた。特に自身の教育係だったトマス・ベケット暗殺事件で父に対する不信感はさらに強まり、加えて父のジョンへの偏愛にも怒っていた。当時30代だったヘンリー2世は息子への領地の分配を単に名目上のものと考えていたが、実際は息子たちがルイ7世に臣従したことにより、大陸側の領土の宗主はフランス王であるという事態が生じてしまった。[[1173年]]、若ヘンリーは敬愛したベケット同様、父の支配を逃れるべくルイ7世のもとへと走り、ヘンリー2世と不仲になった母アリエノールやリチャード、ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こす。戦いは序盤以降はヘンリー2世が優勢で、翌[[1174年]]には両者は和解した。しかし、彼らの母アリエノールだけは以後十数年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いられることになった。
 
[[1169年]]、ヘンリー2世は{{仮リンク|モンミライユ|en|Montmirail}}で会見したフランス王ルイ7世の提案により、14歳になる若ヘンリーを後継者と定めてノルマンディー・アンジュー・[[メーヌ]]・[[トゥーレーヌ]]を、12歳のリチャードにはアキテーヌ、11歳のジェフリーにブルターニュを分配し、ルイ7世に臣従礼をとらせることで大陸側の所領を確認させた{{#tag:ref|モンミライユの会談では先の分割相続と婚約が両国王との間で話し合われ、リチャードとアデルの婚約およびジェフリーとコンスタンスの婚約も確認されたが、王子たちは形式的とはいえルイ7世に臣従したため彼は王子たちへの宗主権を持つことになり、アンジュー帝国を揺るがす危うい状態になった。アリエノールは会談に出席していなかったが、臣従式は夫の権力が子供たちに移る第一歩と捉えていたという{{sfn|桐生操|1988|p=130-131}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=269-271}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=174-176}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=49-50}}。|group=注釈}}。わずか2歳だったために領地を与えられなかった末子のジョンは、ヘンリー2世に“領地のないやつ(Lack Land)”とあだ名をつけられ、逆に不憫がられ溺愛されるようになる(後にアイルランドを分配されるが、支配できずに逃げ帰っている){{#tag:ref|「欠地王」「無地王」のあだ名はこのことに由来する。「失地王」の訳語は、後年の教皇やフランス王との紛争によって起こった結果と誤解されたことから生じた誤訳である{{sfn|堀米庸三|1974|p=241}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=296}}。|group=注釈}}。一方、アリエノールは息子の1人リチャードを後継者と定め、自領アキテーヌをリチャードへ継承させる計画を進め、1170年の復活祭にて[[リモージュ]]でリチャードのアキテーヌ公戴冠式を挙行している。水面下で妻が策謀を巡らせ、息子たちとヘンリー2世に不満を抱く貴族たちを加え不穏な動きが噂される中、同時期にヘンリー2世もイングランドで若ヘンリーの共治王戴冠式を挙行、1172年にはベケット暗殺事件で悪化した教会との関係もアヴランシュの和解で修復、1172年[[9月27日]]には改めて若ヘンリー王とマルグリット夫妻をウィンチェスターで戴冠させ、翌1173年2月にはレーモン5世も臣従してヘンリー2世の権威は絶頂に達した{{sfn|桐生操|1988|p=130-133,161}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=278-280}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=174-178,190-192}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=49,53-54}}。
ヘンリー2世は若ヘンリーらを許し、両者のあいだで和解が成立したが、その後も若ヘンリーに君主としての実権がない状況に変化はなかった。フランス王ルイ7世は[[1180年]]に死去し、[[1182年]]にヘンリー2世はようやく若ヘンリーに君主としての権限を与えるべく、アキテーヌ公リチャードとブルターニュ公ジェフリーに対し、若ヘンリーへの臣従礼をとらせようとした。ところが、ジェフリーは最終的には従ったが、リチャードは若ヘンリーへの臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため若ヘンリーとジェフリーがリチャードを攻撃する騒ぎになった。[[1183年]]に若ヘンリーは病死し、リチャードがヘンリー2世の後継者となった。
 
ところが同年、ジョンとモーリエンヌ伯の女相続人との結婚話が浮上した時、諸侯にこの話を発表した際にシノン・ルーダン・ミルボーもジョンに与えることを発表したが、これに反発した若ヘンリー王が自分の相続分からこの3つの城を削られることに反対した。共治王としての実権が無い不満、自身の教育係だったベケット暗殺事件で生じた父に対する不信感もあり、若ヘンリー王は自分へ実権の譲渡を主張したが、当時30代だったヘンリー2世は息子への領地の分配を単に名目上のものと考えていたため却下した。婚約自体は成立したが若ヘンリー王の父への反発は大きく、[[3月7日]]に若ヘンリー王は敬愛したベケット同様、父の支配を逃れるべくルイ7世のもとへと走り、父と不仲になった母や2人の弟リチャード・ジェフリーと組んで父の独裁に対して反乱を起こす。プランタジネット朝の父子の仲違いを好機と見たルイ7世も若ヘンリー王に協力、宗主権を利用して若ヘンリー王を庇護した上でフランス諸侯を召集、スコットランド王ウィリアム1世、[[ブロワ]]伯[[ティボー5世 (ブロワ伯)|ティボー5世]]、[[フランドル伯]]{{仮リンク|フィリップ1世 (フランドル伯)|en|Philip I, Count of Flanders|label=フィリップ1世}}と弟のブローニュ伯{{仮リンク|マチュー・ダルザス|fr|Mathieu d'Alsace|label=マチュー}}らが若ヘンリー王に加勢した{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|桐生操|1988|p=161-166}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=297-303}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=192-197}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=55-56}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=80-81}}。
リチャードは、母アリエノールの気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、ヘンリー2世死後にイングランド王となってからは戦争に明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であった。リチャードは、父からアキテーヌ公位を末弟のジョンに譲るように命じられると、これを拒絶した。一方、ジェフリーは父ヘンリー2世から離れ、ルイ7世の後を継いだフランス王[[フィリップ2世 (フランス王)|フィリップ2世]](尊厳王)のもとへ身を寄せ、[[1186年]]、パリでフィリップ2世が開催した[[馬上槍試合]]での怪我がもとで急死した。
 
反乱の規模は大きく、イングランド、アキテーヌ、ブルターニュ、ノルマンディー辺境地域が蜂起した。ヘンリー2世にはノルマンディーの大部分とアキテーヌの少数派貴族と主要都市が忠誠を貫いていたが状況は不利で、この時期にヘンリー2世が教皇へ宛てた手紙で反乱を起こした子供たちの敵対を嘆き、自分が家族に命を狙われる状況を悲痛な様子で書き綴っている{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=197}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=56}}。
 
しかし、6月に始まった戦いは序盤こそ不利だったが、ヘンリー2世はありったけの金をかき集めて2万人の[[ブラバント]]人傭兵を雇い、得意戦術である素早い用兵で縦横無尽にアンジュー帝国を駆けずり回り反乱軍を討伐、8月にノルマンディーを解放してルイ7世の軍を退却させた。1174年1月に反乱の首謀者と目されたアリエノールをフランス宮廷へ逃げようとした所を捕らえ[[シノン城]]へ幽閉、続いてイングランドへ渡りカンタベリー大聖堂にあるベケットの墓を詣で、墓前で祈りを捧げ心機一転すると、イングランドで留守を預かっていたグランヴィルがウィリアム1世を捕らえたとの報告を受け窮地から立ち直り、引き続き反乱軍討伐に奔走する一方でアリエノールをシノン城からイングランド南西の[[ソールズベリー]]の塔へ移し監禁した。以降はヘンリー2世が優勢で8月にルーアンを包囲したルイ7世の軍を再び退却させ、9月までに反乱を鎮圧して全面勝利に終わらせた。そしてヘンリー2世は若ヘンリー王ら息子たちと和解したが、アリエノールだけは以後15年間、反逆の罪でイングランドでの監禁生活を強いた{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|桐生操|1988|p=166-174}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=303-309}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=197-206}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=57}}。
 
ヘンリー2世は若ヘンリー王らを許し両者の間で和解が成立、ウィリアム1世の臣従を記したファレーズ条約で息子たちの措置も確認された。若ヘンリー王は共治王の称号は留め置かれたが、ノルマンディーからの収入の半分と所有していた4つの城を減らされた上で、[[アンジェ]]から得られる1万5000ポンドの年給と2つの城を改めて受け取り、リチャードはアキテーヌの収入の半分と2つの城を、ジェフリーはブルターニュを授かった。ジョンには反乱の原因となった3つの城を受け取る代わりに、リチャードとジェフリーの共有する領地からの年貢と城が与えられた(もう1つの原因である結婚話は相手の急死で破談)。反乱の教訓として息子たちにいくらか自治権を授けたが名目的に過ぎず、実権を渡さない姿勢を崩さず息子たちを臣従させ(リチャードとジェフリーは1172年、若ヘンリー王は1175年に父へ臣従)、以後も若ヘンリー王に君主としての実権がない状況に変化はなかった。また反乱の混乱から秩序を回復するため、ノーサンプトン条例・代行制・武装条例などに見られる司法・行政・軍事改革を推進していった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|桐生操|1988|p=174-175}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=309}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=206}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=57-64}}。
 
反乱鎮圧後はアリエノールとの離婚を教皇に願い出て却下され、再婚相手にリチャード1世の婚約者でルイ7世と2番目の妃[[コンスタンス・ド・カスティーユ|コンスタンス]]の娘[[アデル・ド・フランス (ヴェクサン女伯)|アデル]](若ヘンリー王の妃マルグリットの同母妹)の名が取り沙汰され、アデルが結婚しないままヘンリー2世の元に留め置かれていたためヘンリー2世との間に醜聞が疑われるなど(アデルはルイ7世とリチャードの同盟を阻止するための人質だったとも)、家庭内不和が収まらないままだったが、領内と外交は小康を保ち平和な日々を過ごした。ルイ7世は[[1180年]]に死去しフィリップ2世が即位、[[1182年]]にヘンリー2世はようやく若ヘンリー王に君主としての権限を与えるべく、リチャードとジェフリーに対し若ヘンリー王への臣従礼をとらせようとした。ところがジェフリーは最終的には従ったが、リチャードは若ヘンリー王への臣従を拒み、アキテーヌに戻って反抗した。そのため若ヘンリー王とジェフリーがリチャードを攻撃する騒ぎになったが、兄弟の争いは[[1183年]]に若ヘンリー王が病死したことで終息、リチャードがヘンリー2世の後継者となった。ヘンリー2世は内戦中病身の若ヘンリー王を見舞いに行こうとしたが、若ヘンリー王を警戒した側近に止められ息子の死に目に会えず(代わりにサファイアの指輪を息子へ送った)、息子の死に悲しみながらもアンジュー帝国相続の再分配に迫られた{{sfn|桐生操|1988|p=175-176,179-196}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=309-323}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=208-217}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=64-67}}。
 
[[1184年]][[11月30日]]、リチャード・ジェフリー・ジョンの3人の息子を始め一時釈放したアリエノールも加えて、ウェストミンスター宮殿で聖アンドレの日を家族で祝った。続いて12月に[[ウィンザー城]]で家族会議を開き、若ヘンリー王の死で変更に迫られたアンジュー帝国の領地相続について話し合った。リチャードは母の気質を最も濃厚に受け継いだ人物といわれ、父の死後にイングランド王となってからは戦争に明け暮れ、「獅子心王」とあだ名される勇敢な戦士であったが、ヘンリー2世はアリエノールの影響力が大きいリチャードを危険視して愛情を与えず、代わりにアリエノールに疎まれたジョンを溺愛した。相続領分配でそうしたヘンリー2世の意向が現れ、リチャードには若ヘンリー王へ与えるはずだったノルマンディー・メーヌ・アンジューを、ジェフリーにブルターニュを相続、ジョンにはリチャードにポワティエ・アキテーヌを譲らせることを命令した。だがリチャードは、兄と同じく実権の無い共治王にされる恐れがあるこの命令を拒絶したため、リチャードをなだめるためアリエノールへのアキテーヌ返還を了承させ、ジョンのアキテーヌ継承は諦めた。一方、ジェフリーは父から離れフィリップ2世のもとへ身を寄せ、[[1186年]]、パリでフィリップ2世が開催した[[馬上槍試合]]での怪我がもとで急死した。ジェフリーと妃コンスタンスの間に息子[[アルテュール1世 (ブルターニュ公)|アルテュール1世]](アーサー)が生まれたが、プランタジネット家を嫌うコンスタンスの意向でアーサーはフランス宮廷へ預けられ、ブルターニュはアンジュー帝国から離れていった{{sfn|桐生操|1988|p=196-199,225}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=323-328,335}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=217-220,223,235}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=67-68}}。
 
=== 失意の最期 ===
フィリップ2世に代替わりしたフランスとは彼の姉妹に付随していた嫁資を巡り対立していた。若ヘンリー王の未亡人マルグリットは1186年に[[ハンガリー王国|ハンガリー]][[ハンガリー君主一覧|王]][[ベーラ3世 (ハンガリー王)|ベーラ3世]]と再婚、同母妹アデルはリチャードとの結婚がされないままだったため、姉妹のそれぞれの嫁資ヴェクサンと{{仮リンク|ジゾール|en|Gisors}}の返還をフィリップ2世から求められたが返事を引き延ばし続けた。ヘンリー2世とフィリップ2世はジゾールの楡の大木の下でしばしば会見して返還交渉したが、いつも物別れに終わりその度に双方の臣下たちの小競り合いが生じて険悪な雰囲気になり、[[1188年]]8月の会見ではイングランド側の兵士が矢を射かけて怒ったフランス人たちが突撃、イングランド側が退散して交渉が破談するという事件もあった{{sfn|桐生操|1988|p=199-203}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=328-329}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=224-225}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=68}}。
[[1188年]]にヘンリー2世とフィリップ2世の争いのさなかの和平交渉中、リチャードは父の前でフィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)をし、公然と父との敵対を宣言した。翌[[1189年]]の戦いの中、[[ル・マン]]にたてこもったヘンリー2世はリチャードとフィリップ2世の追跡をかわそうと郊外に火を放つが、炎は市街へと燃え広がり、自身の生まれた街は焦土と化した。すでに健康を害していたヘンリー2世は精神的ショックに耐えられず、[[シノン城]]に撤退し、さらに寝返った者の名簿の先頭に最愛の息子ジョンの名があるのを見て最後の気力を失い、まもなく崩御した。56歳没。
 
同年11月にジゾールで開かれたヘンリー2世とフィリップ2世の何度目かの和平交渉中、リチャードは父の前でフィリップ2世に臣従の誓いをし、公然と父との敵対を宣言した。ヘンリー2世の元から臣下たちは離れ、ウィリアム・マーシャルなど忠誠を誓った騎士たちだけが残りリチャード・フィリップ2世の前で劣勢になり、翌1189年の戦いの中、ル・マンにたてこもったヘンリー2世は6月にリチャードとフィリップ2世の追跡をかわそうと郊外に火を放つが、炎は市街へと燃え広がり、自身の生まれた街は焦土と化した。既に健康を害していたヘンリー2世は精神的ショックに耐えられずシノン城に撤退し、休戦協定が結ばれたがル・マンを手放さざるを得なかった。さらに寝返った者の名簿の先頭に最愛の息子ジョンの名があるのを見て最後の気力を失い、7月6日に崩御した。56歳だった{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=323}}{{sfn|桐生操|1988|p=203-214}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=329-332}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=225-227}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=68-69}}。
 
最期を看取ったのは、忠臣[[ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]]など供回りの者と、息子の中では[[庶子]]で僧籍にあった{{仮リンク|ジェフリー (ヨーク大司教)|en|Geoffrey (archbishop of York)|label=ジョフロワ(1152年以前 - 1212年)}}だけであった。遺体はシノン近郊の[[フォントヴロー修道院]]に安置された。なお父ヘジュー帝国を受け継いだチャドは父最期を看取っ葬儀に出席しジョフロワは、1189年幽閉中のアリエノールを釈放しイングランド王リチャード1世して即位した。母子はヘンリー2世の厳罰主義を改めがら彼の側近たちを赦免して味方に取り込み、ジョンにも多くの領土を与えて支持を取り付け、寛大な政策でアンジュー帝国を固めたリチャード1世は第3回十字軍参加して遠征へ向かって[[ヨーク大司教]]に任ぜられいっ{{sfn|桐生操|1988|p=214-227}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=332-342}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=229-}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=69-72}}
 
== 人物 ==
ヘンリー2世は中肉中背で筋肉質、赤味がかった金髪とくぼんだ灰色の目で数か国語を操る教養人でありながら、本能に忠実で荒々しい性格だった。相当な学者でもあり、先祖譲りの激情家だった<ref name=horigome238/>。また、その精力的なことは驚嘆に値するもので、政務に熱心なその日常にはおよそ休息というものがなく、戦争がないときには日の出から日没まで狩猟をおこなった、地方で代官の仕事ぶりを監督するめ頻繁に巡回する、民衆から苦情を辛抱強く聞いて人気を高める、家臣たちは王の行動に振り回され右往左往するなどの逸話が伝えられ、帰館しても夕食以外は座っていることすらできなかったといわれている<。行動の素早さは軍事にも活かし、予期せぬ奇襲で敵軍を混乱に陥れたり、妨害・不意打ちを得意戦術にして多くの勝利を収めた{{#tag:ref name=horigome238/><ref group="注釈">|[[堀米庸三]]は、子息リチャード獅子心王とジョン欠地王はともかくとして、ヘンリー2世自身は専制的ではあったものの、長い目でみればイングランドの人びとの幸福の基礎を築いた君主のなかの1人といってよいと評価している。[[#{{sfn|堀米庸三|1974|p=241}}。|group=注釈}}{{sfn|堀米(1974)p.庸三|1974|p=238-241]]</ref>}}{{sfn|桐生操|1988|p=83-84,100-101}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=209}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=102-103,105,125-127}}
 
巧妙な外交を駆使して、相手を完膚なきまでに叩き潰さず、相手が何かを手にしたと思わせる、いわゆる名を捨てて実を取る手法も得意としていた。一方、自らの権威は手放さず、息子たちには主導権を渡さず領土を1人へ一括相続させようともせず、分割相続を考えたことが反乱を招いた。またフランス出身のヘンリー2世はフランス人で押し通し、語学に堪能だが日常で話す言葉は[[フランス語]]か[[ラテン語]]で、[[英語]]は最後まで理解しなかったため、イングランドにおける統治の充実は大陸における野望達成の手段に過ぎなかったとの見方もある{{sfn|森護|1986|p=47}}{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=48,53-54}}{{sfn|君塚直隆|2015|p=77-78}}。
 
とはいえ子供たちに対する愛情はあり、若ヘンリー王の浪費癖と軽率さには手を焼いていたが、息子の将来に期待を込めてベケットを家庭教師に任じて英才教育を施し、成長してからも若ヘンリー王を溺愛していた。立派な君主になって欲しい願いから自分の側に置いて巡回裁判見学や狩猟に同行させたり、家臣に若ヘンリー王への臣従礼を取らせるなど息子への配慮に尽くしたが、若ヘンリー王は師であるベケット殺害で父への信頼を失い、父が自分へ実権を譲らない姿勢と自分の所領をジョンに割譲すべきという命令に反発し父子の仲は決裂、深刻な内戦を起こしていった。それでも1183年に病気で死ぬ寸前の若ヘンリー王から使者を送られた際、使者を通じて若ヘンリー王に指輪を渡し健康回復と許しを与え、死去の報告を聞くと涙をこらえながら息子の早い死を悲しんだ。リチャードは能力を高く買いつつも妻のお気に入りで彼女の影響が大きいため愛情を持てず、反対に妻から疎まれたジョンを溺愛したが、1189年に裏切ったリチャードに追い詰められた所でジョンにも裏切られ、ショックで死亡するという皮肉な最期を迎える羽目になった{{sfn|桐生操|1988|p=154-156,193,213}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=291-296,320-323,331-332}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=187-188,192-194,213-219,227}}。
 
晩年になるとじっとしていられない習慣が悪化、急速に老けていった。1184年に一時釈放したアリエノールが美しさと威厳を保っていたのと対照的に、馬に蹴られて不自由になった片足を引きずり肥満が進行、無頓着でだらしなくなり自制心が欠けた性格が露になり、狩猟に熱中するあまり些細な違反者は死刑や終身刑など厳罰に処し、力で押さえ付けた家庭内不和は妻と息子たちの反乱を招いた。こうした晩年の様子を歴史家{{仮リンク|ピエール・ド・ブロワ|en|Peter of Blois}}から痛烈に皮肉られ、宮廷の退廃ぶりが滑稽な筆致で描かれている。また不吉な伝説をヘンリー2世になぞらえる例もあり、ウィンチェスター宮殿に4羽の子鷲が父鷲を傷つける絵があったとされ、反抗的な息子たちに追い詰められたヘンリー2世の最期を暗示したと伝えられている{{sfn|桐生操|1988|p=198}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=324-326}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=220-223}}。
 
== アーサー王物語との関わり ==
アリエノールの宮廷には『[[アーサー王物語]]』に組み込まれた物語を書いた詩人・物語作家たちが出入りしており、[[ベルナルト・デ・ヴェンタドルン|ベルナール・ド・ヴァンタドゥール]]、[[ウァース]]、[[マリー・ド・フランス (詩人)|マリー・ド・フランス]]、[[クレティアン・ド・トロワ]]、{{仮リンク|ブノワ・ド・サンテ=モール|en|Benoît de Sainte-Maure}}、[[ブリテンのトマ]]らが『[[トリスタンとイゾルデ]]』、『[[ブリュ物語]]』、『{{仮リンク|トロイ物語|en|Roman de Troie}}』、『{{仮リンク|エレックとエニード|en|Erec and Enide}}』、『[[ランスロまたは荷車の騎士]]』などを作り上げ、アーサー王物語は[[騎士道物語]]と[[ミンネ|宮廷恋愛]]が混じり合った作品として開花、アリエノールも宮廷を通じてアーサー王物語をヨーロッパ全土や東方に広めるのに一役買った。ヘンリー2世もアーサー王物語を気に入り、ベルナールとアリエノールの関係を疑い彼を妻から引き離したが、[[アーサー王]]を思い起こす叙事詩を庇護したことで妻と共にアーサー王流行に貢献した{{sfn|桐生操|1988|p=90-91}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=217-219,229-233}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=137-142}}{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=90-91}}。
 
といっても、ヘンリー2世のアーサー王物語の復興と伝播には政治的意図もあった。それはアーサー王物語が[[カペー朝]]フランスへの対抗および自家の権威強化に役立つと考えたからであり、[[カール大帝]]の後継者を称するカペー朝が大帝と臣下たちの伝説を広めたのに対し、ヘンリー2世はかつてイングランドをスティーブンから解放した自分をアーサー王に重ねつつ、アーサー王と[[円卓の騎士]]の伝説を作り上げて対抗した。また、ヘンリー2世の母方の曽祖父に当たるウィリアム1世が敢行した[[1066年]]の[[ノルマン・コンクエスト]]以来、少数派で支配層の[[ノルマン人]]と多数派で被支配層の[[アングロ・サクソン人]]は仲が悪く、王家のイングランドにおける基盤も盤石とは言えなかった。こうした事態解決のため、ヘンリー2世は『[[ブリタニア列王史]]』に目を付け、サクソン人より前の[[グレートブリテン島|ブリテン島]]の住民・[[ブリトン人]]とノルマン人を結び付けるためにアーサー王物語を採用した{{#tag:ref|このプロパガンダは父のジョフロワ4世が既に始めており、側近の[[ジェフリー・オブ・モンマス]]が書き上げたブリタニア列王史でアーサー王神話の土台を作っただけでなく、サクソン人をブリトン人とノルマン人共通の敵として捉え、ブリトン人・ノルマン人の団結を促す内容を盛り込んだ。ヘンリー2世もこの路線に乗る形でアーサー王物語を利用、ブリトン人・ノルマン人の連合を画策した{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=39-44}}。|group=注釈}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=233-234}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=142-143}}{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=35-44}}。
 
ヘンリー2世の狙いはアーサー王の後継者として自分を位置付けることで権威強化を図ること、ブリトン人・ノルマン人の連合に邪魔だったアーサー王復活の民間伝承を否定して、ブリトン人が自分たちノルマン人に頼らざるを得なくする環境を作り出すことにあった。そうした目的でウァースにブリタニア列王史を[[ラテン語]]から[[アングロ=ノルマン語|アングロ・ノルマン語]]に翻訳させ、ブリュ物語が誕生した。またウァースはアーサー王物語の発展に貢献、円卓の騎士を作り出したり、物語でアーサー王がサクソン人を討伐してから征服のため大陸へ渡るまで、平和な時代を築いたという表現で12年の空白を生み出したりしたことで、後世の作家たちが想像して数々の物語を生み出す余地を与えた{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=44-47}}。
 
アーサー王物語のクライマックスとして、ヘンリー2世は1184年に火災に遭った{{仮リンク|グラストンベリー修道院|en|Glastonbury Abbey}}へ再建資金を援助した。一方でアーサー王復活を夢見ていたブリトン人の希望を打ち砕く噂が流れ、復活の時を待ったアーサー王は叶わず死んだとの噂が広まった。グラストンベリー修道院はアーサー王終焉の地・[[アヴァロン]]に擬せられ、ヘンリー2世の死後[[1190年]]に修道士たちが修道院の墓地にアーサー王と王妃[[グィネヴィア]]の墓を発見、宝剣[[エクスカリバー]]もアーサー王の墓から出たという噂が広まり、グラストンベリー修道院はアーサー王ゆかりの巡礼地として定着していった{{sfn|石井美樹子|1988|p=233-234}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=142-143}}{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=47-48,160}}。
 
以上の伝説にどこまでヘンリー2世が関与していたか不明だが、アーサー王物語は騎士道物語として人々に受け入れられプランタジネット朝にアーサー王の威光が輝き、伝説の「発明」にヘンリー2世が果たした役割は大きく取り上げられている。以後もアーサー王にまつわる話が伝わり、ヘンリー2世とアリエノールの曾孫に当たる[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]はアーサー王の王冠をウェストミンスターに持ち出したり、円卓を囲む習慣を持ち込んだりしている{{sfn|アンリ・ルゴエレル|福本秀子|2000|p=149}}{{sfn|アンヌ・ベルトゥロ|村上伸子|松村剛|1997|p=48}}。
 
== 子女 ==
*# {{仮リンク|ギヨーム9世 (ポワティエ伯)|en|William IX, Count of Poitiers|label=ウィリアム}}(1153年 - 1156年) - ポワティエ伯
*# [[若ヘンリー王|ヘンリー]](1155年 - 1183年) - 1170年から1183年までイングランド王(父と共治)
*# [[マティルダ・オブ・イングランド|マティルダ]](1156年 - 1189年) - [[ザクセン君主一覧公国|ザクセン]][[ザクセン君主一覧|公]]兼[[バイエルン|バイエルン]][[バイエルンの君主一覧|公]][[ハインリヒ3世 (ザクセン公)|ハインリヒ獅子公]]妃
*# [[リチャード1世 (イングランド王)|リチャード]](1157年 - 1199年) - イングランド王リチャード1世(獅子心王)
*# [[ジョフロワ2世 (ブルターニュ公)|ジェフリー]](1158年 - 1186年) - [[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]]ジョフロワ2世
*# [[エレノア・オブ・イングランド|エレノア]](1162年 - 12151214年) - [[カスティーリャ王国|カスティーリャ]][[カスティーリャ君主一覧|]][[アルフォンソ8世 (カスティーリャ王)|アルフォンソ8世]]の王
*# [[ジョーン・オブ・イングランド (シチリア王妃)|ジョーン]](1165年 - 1199年) - [[シチリア王国|シチリア]][[ナポリとシチリアの君主一覧|]][[グリエルモ2世]]の王妃、後に[[トゥールーズ伯]][[レーモン6世 (トゥールーズ伯)|レーモン6世]]
*# [[ジョン (イングランド王)|ジョン]](1167(1166年 - 1216年) - イングランド王(欠地王)
 
* 他に、庶子としてジョフロワ(1152年以前 - 1212年) - ヨーク大司教
他に、庶子として{{仮リンク|ヨーク大司教|en|Archbishop of York}}{{仮リンク|ジェフリー (ヨーク大司教)|en|Geoffrey (archbishop of York)|label=ジェフリー}}(ジョフロワ、1152年以前 - 1212年)と[[ソールズベリー伯爵]]{{仮リンク|ウィリアム・ロンゲペー (第3代ソールズベリー伯)|label=ウィリアム・ロンゲペー|en|William Longespée, 3rd Earl of Salisbury}}(1176年頃 - 1226年)がいる。ジェフリーは父の死後はリチャード1世に仕えヨーク大司教に就任、ウィリアムは第2代ソールズベリー伯{{仮リンク|ウィリアム・オブ・ソールズベリー (第2代ソールズベリー伯)|label=ウィリアム・オブ・ソールズベリー|en|William of Salisbury, 2nd Earl of Salisbury}}の娘{{仮リンク|エラ・オブ・ソールズベリー (第3代ソールズベリー女伯)|label=エラ|en|Ela of Salisbury, 3rd Countess of Salisbury}}と結婚して{{仮リンク|妻の権利|en|Jure uxoris}}でソールズベリー伯になり、リチャード1世とジョンの2代に仕え{{仮リンク|五港長官|en|Lord Warden of the Cinque Ports}}、{{仮リンク|ウェールズ国境警備長官|en|Welsh Marches}}などを歴任した。また、イングランド最初の[[紋章]]使用者として歴史に名を残している{{sfn|森護|1986|p=53-56}}{{sfn|石井美樹子|1988|p=339}}{{sfn|レジーヌ・ペルヌー|福本秀子|1996|p=243}}。
 
== 関連作品 ==
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
 
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|23}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[堀米庸三]]|translator=|chapter=|editor=|year=1974|month=12|title=世界の歴史3 中世ヨーロッパ|publisher=[[中央公論新社|中央公論社]]|series=[[中公文庫]]|isbn=|ref=堀米}}
* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* {{Cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃(訳)|chapter=|editor=[[高橋正男]](監修)|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=[[創元社]]|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}}
* [[桐生操]]『王妃アリエノール・ダキテーヌ <small>-リチャード獅子王の母-</small>』[[新書館]]、1988年。
* {{Cite book|和書|author=J.M.ロバーツ([[:en:John Roberts (historian)|en]])|translator=月森左知・高橋宏|chapter=神裁政治とインノケンティウス3世|editor=[[池上俊一]](日本語版監修)|year=2003|month=5|title=世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ|publisher=[[創元社]]|series=図説世界の歴史|isbn=4-422-20245-6|ref=ロバーツ}}
* {{Cite book |和書 |author=[[石井美樹子]] |title=王妃エレアノール <small>ふたつの国の王妃となった女</small>|publisher=[[平凡社]] |date=1988-04|isbn=978-4582472158|ref=石井 1988}}
* {{Cite book |和書 |author=[[レジーヌ・ペルヌー]]、[[福本秀子]]訳 |title=王妃アリエノール・ダキテーヌ|publisher=[[パピルス (出版社)|パピルス]] |date=1996-03|isbn=978-4938165178|ref=ペルヌー 1996}}(原書はフランスで1965年に発刊)
* {{仮リンク|アンヌ・ベルトゥロ|en|Anne Berthelot}}著、[[村上伸子]]訳、[[松村剛]]監修『アーサー王伝説』[[創元社]]([[「知の再発見」双書]])、1997年。
* [[川北稔]]編『新版世界各国史11 イギリス史』[[山川出版社]]、1998年。
* {{Cite book|和書|author=P.G.マックスウェル・スチュアート|translator=月森左知・菅沼裕乃(訳)|chapter=|editor=[[高橋正男]](監修)|year=1999|month=12|title=ローマ教皇歴代誌|publisher=創元社|series=|isbn=4-422-21513-2|ref=PGMS}}
* [[アンリ・ルゴエレル]]著、福本秀子訳『プランタジネット家の人びと』[[白水社]]([[文庫クセジュ]])、2000年。
* [[松村赳]]・[[富田虎男]]編『英米史辞典』[[研究社]]、2000年。
* {{Cite book|和書|author=J.M.ロバーツ([[:en:John Roberts (historian)|en]])|translator=月森左知・高橋宏|chapter=神裁政治とインノケンティウス3世|editor=[[池上俊一]](日本語版監修)|year=2003|month=5|title=世界の歴史5 東アジアと中世ヨーロッパ|publisher=創元社|series=図説世界の歴史|isbn=4-422-20245-6|ref=ロバーツ}}
* {{Cite book|和書|author=[[加藤雅彦]]|translator=|chapter=第7章 イギリス|editor=|year=2005|month=2|title=図説ヨーロッパの王朝|publisher=[[河出書房新社]]|series=ふくろうの本|isbn=4-309-76059-7|ref=加藤}}
* レジーヌ・ペルヌー著、福本秀子訳『リチャード獅子心王』白水社、2005年。
* [[君塚直隆]]『物語 イギリスの歴史(上) <small>古代ブリテン島からエリザベス1世まで</small>』中央公論新社([[中公新書]])、2015年。
 
== 関連項目 ==
* [[コモン・ロー]]
* [[アンジュー帝国]]
* [[百年戦争]]
* [[ルー物語]]
* [[オックスフォード大学]]
* [[イングランドの国旗]]
* [[イングランド教会史]]
 
== 外部リンク ==
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[[Category:カトリック教会に破門された人物]]
[[Category:ル・マン出身の人物]]
[[Category:アーサー王伝説]]
[[Category:1133年生]]
[[Category:1189年没]]