王 准之(おう じゅんし、太元3年(378年)- 元嘉10年6月8日[1]433年7月10日))は、東晋から南朝宋にかけての学者官僚は元曾。本貫琅邪郡臨沂県

経歴 編集

王訥之の子として生まれた。三礼の伝に明るく、語彙が豊富であった。琅邪国右常侍を初任とし、桓玄の下で大将軍行参軍をつとめた。桓玄が帝を称すると、准之は尚書祠部郎となった。義熙初年、尚書中兵郎に任じられ、劉裕の下で車騎中軍参軍事をつとめた。丹陽丞・中軍太尉主簿となり、山陰県令として出向して有能で知られた。盧循の乱の討伐に参加して、都亭侯に封じられた。劉裕の下で鎮西・平北・太尉参軍を歴任し、尚書左丞となり、琅邪郡大中正を兼ねた。

宋国が建てられると、御史中丞に任じられ、官僚たちに恐れられた。准之の曾祖父の王彪之王彬の子)から、祖父の王臨之・父の王訥之を経て准之まで、4代にわたって御史中丞の職をつとめたことで知られた。かつて准之が五言詩を作ったところ、范泰が「卿はただ弾劾の事しか理解できないようだな」と嘲笑すると、准之はまじめな面持ちで「卿の家に代々雄狐(「好色乱倫の徒」の比喩、『詩経』斉風「南山」による)がいるのとは違うのだよ」と答えた。世子右衛率の謝霊運が殺人を犯した罪に連座して、免官された。

永初元年(420年)、劉裕が帝位につくと、准之は黄門侍郎に任じられた。永初2年(421年)、三年の喪について、鄭玄の礼の注釈により、学問的には27カ月と解釈されてきたが、晋初に王粛の議論が採用されて25カ月に変更されていた。准之は王粛の俗説を排するよう上申し、南朝宋の朝廷に採用された。

司徒左長史に転じ、始興郡太守として出向した。元嘉2年(425年)、江夏王劉義恭の下で撫軍長史となり、歴陽郡太守を兼ね、南豫州と撫軍将軍府の事務を代行した。まもなく入朝して侍中となった。元嘉3年(426年)、都官尚書に転じ、吏部の任を兼ねたが、官吏の人事に当を得ず、貴族たちの失望を買った。丹陽尹として出向した。准之は古い儀礼について訊ねられて答えられないことがなく、彭城王劉義康は准之の礼学を絶賛して、准之が2・3人いれば天下は治まるだろうと評した。准之は『儀注』を編纂して、以後の南朝で用いられた。

元嘉10年6月乙亥(433年7月10日)、死去した。享年は56。太常の位を追贈された。

子の王輿之は、征虜主簿となった。

脚注 編集

  1. ^ 建康実録』巻12, 宋中 元嘉十年六月乙亥条による。

伝記資料 編集