王永和
生涯 編集
若くして孝行で知られ、病床の父を18年にわたって看病した。永楽年間、郷試に及第して、厳州府と饒州府の訓導を歴任した。蹇義の推薦により、兵科給事中となった。薊州に駐屯した都督の王彧や錦衣衛の馬順の不法を弾劾した。韓王世子妃の冊立にあたって節を持った。宦官の傲慢の罪を糾弾して剛直で知られた。1441年(正統6年)、都給事中に進んだ。1443年(正統8年)、工部右侍郎に抜擢された。1448年(正統13年)、黄河が河南で決壊し、曹州・濮州・東昌府が水没し、寿張県沙湾が壊滅した。永和はこれの修復にあたった[1]。1449年(正統14年)、オイラトのエセン・ハーンが侵攻してくると、永和は英宗の親征に扈従して、土木の変により殺害された。工部尚書の位を追贈された。諡は襄敏といった。
子の王汝賢は大理寺評事となった。
脚注 編集
参考文献 編集
- 『明史』巻167 列伝第55