王 瑜(おう ゆ、1382年 - 1439年)は、明代官僚軍人は廷器。本貫淮安州山陽県

生涯 編集

王銘の三男として生まれた[1]。総旗として趙王府に属した。1423年永楽21年)、常山護衛指揮の孟賢らと宦官の黄儼が結んで、永楽帝を殺害し、皇太子朱高熾を廃位して趙王朱高燧を立てようと計画した。その仲間の高正[2]は王瑜の舅であり、計画をひそかに王瑜に告げた。王瑜は驚いて、一族を滅ぼす計画に加担してはいけないと、涙を流して諫めたが、高正は聞き入れなかった。高正が計画の漏れるのを恐れて、王瑜を殺そうとしたので、王瑜は宮殿に駆け込んで廃立の計画を告発した。調査審問により証拠が集まり、孟賢らは全員処刑され、王瑜は遼海衛千戸の位を受けた。1424年(永楽22年)、洪熙帝が即位すると、王瑜は錦衣衛指揮同知に抜擢された。

1433年宣徳8年)3月、王瑜は左軍都督僉事指揮同知となった。11月、都指揮僉事となり、副総兵とされた[3]陳瑄に代わって淮安に駐屯し、運河の水運を監督した。1437年正統2年)10月[4]、左副総兵となり、左軍都督僉事に累進した。1439年(正統4年)8月17日、通州の駅館で死去した。享年は58。

脚注 編集

  1. ^ 贈驃騎将軍左軍都督府都督僉事王公神道碑銘(楊士奇『東里続集』巻24所収)
  2. ^ 明史』王瑜伝による。同書の趙簡王高燧伝は「高以正」とする。
  3. ^ 談遷国榷』巻22
  4. ^ 『国榷』巻23

参考文献 編集

  • 『明史』巻153 列伝第41
  • 故驃騎将軍左軍都督府都督僉事王公神道碑銘(楊士奇『東里文集』巻13所収)