田所重道(たどころ しげみち、天保12年(1841年) - 元治元年2月16日1864年3月23日))は、江戸時代末期の勤皇志士。土佐国土佐郡潮江村の医師、田所春井の次男として生まれる。通称は辰次、のち騰次郎。

坂本龍馬を崇拝し、剣術などを学ぶなど多感な少年期を過ごし、のち従士格に列する事が許される。藩命で持筒役を務め江戸に赴いたおり、苛烈な勤皇思想に没頭し、滞在中の文久元年(1861年)に土佐藩を脱藩した。

2年後、那須信吾の下で天誅組に参加。砲一番組に配されたのち、五條襲撃で代官鈴木正信(源内)らを討ち取るなどの働きを見せる。しかし、京での政変で朝敵とされた天誅組は、圧倒的多数の幕府軍を前に壊滅的な打撃をうけ、重道は敗走途中に捕縛。京の六角獄につながれたのちに、元治元年(1864年)初頭に刑死した。

明治31年(1898年)、正五位を追贈された[1]

脚注 編集

  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.11

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