田 秀英[1](でん しゅうえい、? - 崇禎15年10月16日1642年11月8日))は、崇禎帝の寵妃。

経歴 編集

揚州の人。陝西商人の田弘遇と妻の呉氏(娼婦の出身)の娘として生まれた(一説に、田弘遇は秀英の養父で、実父は不明)。天啓年間、信王朱由検(のちの崇禎帝)の邸に入り、側室となった。信王が皇帝に即位すると礼妃に封じられ、のち貴妃に進んだ。承乾宮に住まった。父の田弘遇は正一品左都督に任じられた。

「美しい」纏足と美貌に加え多芸多才なため、寵愛を受けた。周皇后としばしば諍いを起こし、一度は幽閉されたが、3か月後に復位した。崇禎14年(1641年)、皇貴妃に進んだ。崇禎15年10月16日(1642年11月8日)、薨去した。恭淑端恵静懐皇貴妃され、天寿山に葬られた。

崇禎17年3月18日(1644年4月24日)、北京が李自成軍によって陥落すると、崇禎帝は周皇后を自殺させ、夜半に自身も首を吊って自殺した。李自成の命令で、田秀英の墓が開かれ、崇禎帝と周皇后が合葬された。これが、今日も崇禎帝の陵墓として残る思陵(明の十三陵の一つ)となった。

子女 編集

  • 永悼王 朱慈炤
  • 朱慈煥(悼霊王)
  • 朱慈燦 − 夭折。悼懐王の位が贈られた。

伝記資料 編集

  • 明史
  • 『崇禎長編』
  • 『思陵典礼記』
  • 『北游録』

脚注 編集

  1. ^ 『北游録』「貴妃田氏名秀英。妹淑英、今更嫁。」『人海記』「田貴妃名秀英、其妹名淑英。」