田艇吉
田 艇吉(でん ていきち、嘉永5年9月6日(1852年10月18日) - 昭和13年(1938年)11月17日)は、日本の政治家、実業家。丹波国氷上郡柏原藩領下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)出身[1][2]。号は楓軒、松鶴。
経歴 編集
丹波国氷上郡柏原藩領の下小倉村(現在の兵庫県丹波市柏原町下小倉)に田文平の長男として生まれる[1]。8歳より村医だった長沢順方に師事して読み書きを学ぶ。12歳の時に小島省斎に入門[1]。学問を修めた後、明治3年(1870年)には19歳で村総代となった[1]。
明治12年(1879年)第一期兵庫県会議員に当選[1]。氷上郡書記、氷上郡長などを歴任の後、明治24年(1891年)に衆議院議員に当選(以後衆議院議員として当選4回)[1]。明治32年(1899年)、阪鶴鉄道株式会社取締役社長に就任[1]。鐘ヶ坂隧道の開通や阪鶴鉄道の開通などに尽力した[2]。
昭和13年(1938年)11月17日、脳溢血で死去、享年87。
銅像 編集
西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線柏原駅前には艇吉の功績を顕彰するため、銅像が建てられている[1]。台座の「田 艇吉翁」の題字は、若槻礼次郎の揮毫。