盛 訥(せい とつ、生年不詳 - 1595年)は、明代官僚は敏叔、は鳳岡。本貫潼関衛

生涯 編集

指揮使の盛徳の子として生まれた。父の盛徳が洛南の反乱を討って戦死すると、盛訥は号泣して数日のあいだ水も口に入れず、兵を発して反乱軍を討ち、報復した。1571年隆慶5年)、進士に及第し、翰林院庶吉士となった。万暦年間、翰林院編修に進んだ。1583年(万暦11年)、翰林院侍読に任じられた[1]1586年(万暦14年)、国子司業に転じた[2]1587年(万暦15年)、右春坊右庶子となった[3]1588年(万暦16年)、順天府での郷試の考試官をつとめた[4]1589年(万暦17年)、左春坊左庶子に進んだ。1590年(万暦18年)、国子祭酒に転じた。1591年(万暦19年)、少詹事となった[5]1592年(万暦20年)、礼部右侍郎に任じられた。1593年(万暦21年)、吏部右侍郎に転じた。1594年(万暦22年)、礼部左侍郎に転じた。6月、母が死去したため、官を去って喪に服した[6]1595年(万暦23年)10月、死去した[7]。礼部尚書の位を追贈された。1621年天啓元年)1月、文定とされた[8]。著書に『玉堂日記』[9]・『定敏軒集』[10]があった。

子に盛以弘があった。

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻72
  2. ^ 『国榷』巻73
  3. ^ 『国榷』巻74
  4. ^ 『輯校万暦起居注』
  5. ^ 『国榷』巻75
  6. ^ 『国榷』巻76
  7. ^ 『国榷』巻77
  8. ^ 『国榷』巻84
  9. ^ 『陝西通志』巻74
  10. ^ 『陝西通志』巻75

参考文献 編集

  • 明史』巻243 列伝第131