盧 金山(ろ きんざん)は清末民初の軍人。北洋系の軍人で、後に北京政府直隷派に属した。貢庭

盧 金山
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)
死去: 1941年民国30年)6月29日
中華民国天津特別市
出身地: 直隷省天津府静海県
職業: 軍人
各種表記
繁体字 盧 金山
簡体字 卢 金山
拼音 Lú Jīnshān
ラテン字 Lu Chin-shan
和名表記: ろ きんざん
発音転記: ルー ジンシャン
テンプレートを表示

事跡 編集

最初は、新建陸軍徳文学堂に入学する。1902年光緒28年)、日本に留学して、成城学校に入学した。1903年(光緒29年)、陸軍士官学校第3期歩兵科で学ぶ。

1904年(光緒30年)に卒業し、帰国して第2鎮歩隊第6標教練官に就任した。1906年(光緒32年)、駐京総司令部正参謀官に異動する。同年10月には陸軍少将銜となった。

1913年民国2年)3月、拱衛軍参謀長に就任する。7月には陸軍第1軍参謀長に異動し、陸軍中将銜を授与された。1914年(民国3年)2月、湖北都督府参議に異動する。6月、湖北陸軍歩兵第5団団長となった。1915年(民国4年)、湖北陸軍第3旅旅長に昇進した。

袁世凱死後は直隷派に属し、1921年(民国10年)8月、第18師師長に昇進した。民国12年(1923年)3月、代理湖北荊州鎮守使に就任する(12月に正式に就任)。10月には、援川軍第4路副司令となった。民国13年(1924年)9月、陸軍上将銜を授かる。1925年(民国14年)1月、長江上遊警備副司令となった。同年5月には、長江上遊警備司令に昇進し、さらに10月には討賊聯軍鄂軍第2路総司令を兼任した。

1926年(民国15年)2月、北京政府中央から湖北督弁に任命されたが、すでに呉佩孚から湖北督弁に任命されていた陳嘉謨に拒否される。同年末、盧金山は、彭漢章率いる国民革命軍第9軍と王天培率いる同第10軍の攻撃を受けて敗北した。1927年(民国16年)、呉が下野すると、盧もやはり下野した。

以後、盧金山は天津に隠居した。日本軍が天津を占領後、盧は親日政府参加を打診されたが、これを拒否している。

1941年(民国30年)6月29日、天津で病没。享年64。

参考文献 編集

  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
王汝勤
長江上遊総司令
1925年5月 - 1927年?
次代
(廃止)