石原 修(いしはら おさむ、1885年10月18日 - 1947年6月29日)は、日本の産業衛生、労働衛生の先駆者。福岡医科大学(現:九州大学)卒業後、東京帝国大学内務省に移り、「工場衛生調査」を委嘱され、1913年衛生学上よりみたる女工の現況を発表。その後、工場法が成立した。

略歴 編集

兵庫県伊丹町出生。京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学)在学中、衛生学を志す。1908年卒業。翌年3月、上京して[1]東京帝国大学の衛生細菌学教室(横手千代助教授)に移り、7月、内務省(翌1910年には農商務省)の「工場衛生調査」を嘱託され、調査の企画・実施・とりまとめを中心的に担当する。1911年東京市技師。

1913年「女工と結核」の講演と論文「衛生学上より見たる女工之現況」を発表。 「日本の工場は労働環境が劣悪で、20歳以下の女工が次々と結核に冒され、帰郷後、異常な高率で死亡している」として警告した[2]。この発表と引き続く工場法が成立5年後に施行された。

1916年、初代鉱務兼工場監督官。以降、主に農商務省で行政に携わる。1921年、農商務省から欧米に出張し同年のILO(国際労働機関)会議に政府委員として列席。同年、九大から医学博士号が贈られる。論文名は「衛生学上より見たる女工の現況」特にその付録「女工と結核」は有名。紡績女工の悲惨な労働と罹病の関係をあきらかにし、帰郷死亡者の7割が結核死で、論議をよんだ[3][4]。ほかに硅肺、映画館の空気調査、貧民街の調査、研究を行った。1926年(大正15年)には産業医学会を設立した。

1924年、退官。1926-35年、大阪医科大学及び大阪帝国大学(衛生学)教授。衛生学を実践的学問とするよう努めた。この時期、東京帝国大学の社会医学研究会の学生たちも指導。1933年、文官分限令で休職、1935年に退官。国の政策に反対したので、追放に近い[5]。1937年、内務省社会局嘱託として健康保険相談所顧問。1946年、年金保険厚生団事業部長。同年、日本産業衛生協会の労働基準検討小委員会に参加、労働基準法の制定に向けて積極的に発言、1947年に同法が公布、その施行を待たずに同年没した。

主たる業績 編集

卒業後まもなく、内務省嘱託の命を受け、20数道府県に出張、1年かけて農村における疾病の統計的観察をしている。対象は10万人近く、同行20名以上の計算係が統計的分析をした。女性労働者の研究では、特に繊維産業の労働者の結核罹病がある。結核に罹って郷里に帰っても他の人に伝染させ、ひいては、徴兵制度下の壮丁の体位の低下をもたらす。結核は医学的問題だけではないことを、勇気をもって訴えたが、最晩年の2年を除いて、彼の後半生は志を得たとはいえない[6]

家族 編集

著書 編集

  • 『衛生学上より見たる女工の現況』(1913年)
  • 『袖珍衛生試験法』(1919年)
  • 『新稿労働衛生』(1926年)

参考資料 編集

脚注 編集

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、104頁。 
  2. ^ 下川耿史 『環境史年表 明治・大正編(1868-1926)』296頁 河出書房新社刊 2003年11月30日刊 全国書誌番号:20522067
  3. ^ 日本労働運動史料2 労働運動史料委員会編
  4. ^ 国家医学会雑誌323号
  5. ^ 村上[2010:132]この項は浦部信義が書く。
  6. ^ 村上[2010:132-133]

外部リンク 編集