石原 彦太郎(いしはら ひこたろう、嘉永7年11月16日1855年1月4日) - 明治31年(1898年8月30日)は、衆議院議員自由党)、甲府市長

石原彦太郎

経歴 編集

甲斐国甲府柳町に父「彦太郎(光邦)」、母「たけ」の長男として生まれる[1]。慶応4年3月5日、東山道総督参謀の板垣退助らが甲府城に入ると石原家(冨士彦)を宿舎とした。この際、彦太郎は大いに板垣に心酔し、後年に板垣が自由民権運動を起こすとこれに賛同し、自由党に入党した。1875年(明治8年)1月に山梨県第一区副戸長となり、1889年(明治22年)7月1日の甲府市制施行に伴う、同月19日及び20日の両日に渡った第一回市会議員選挙において、第一期議員30名の中の一人として甲府市会議員(1889年(明治22年)7月20日 - 1895年(明治28年)7月19日)に当選し1891年(明治24年)6月20日には議長に選出され、1893年(明治26年)1月20日まで務めている。また、同年10月には山梨県会議員に選出されたが1894年(明治27年)9月に辞職し、同月の第4回衆議院議員総選挙に山梨県第一区(甲府市、西山梨郡中巨摩郡北巨摩郡)から立候補し衆議院議員に当選。1897年(明治30年)11月6日には甲府市長(在任期間:1897年(明治30年)11月6日 - 1898年(明治31年)6月18日)となったが、病のため翌年4月に東京医科大学病院に入院し、在任7か月で甲府市長を辞任。辞任2か月後に死去、享年45。

親族 編集

脚注 編集

  1. ^ 甲府市の大地主であった石原家は屋号を「冨士彦」と称し、代々質屋と乾物商を営んでいた。

参考文献 編集

  • 林信次『山梨自治制史』山梨自治制史発行所、1906年。