石巻 家貞(いしまき いえさだ、生没年不詳)は、戦国時代武将後北条氏の家臣。後に名を家種(いえたね)と改める。下野。子に康保板部岡康雄(息右衛門、板部岡江雪斎の養父)、康敬天用院がいる。

一部史料で見られる「石巻康信」も家貞と同一人物とされ、これが真実であるなら息子達と同様に北条氏康から「康」の1字を賜ったことになる。

生涯 編集

北条氏の奉行人・評定衆や相模西郡郡代などを務めた。石巻氏は三河国八名郡石巻郷が名字の地とされる。石巻家貞は北条氏綱に仕えて、虎朱印状の奉行として遠山直景とならんで登場している。小田原城初期の内務管理を取り仕切っていたとされる。 『北条氏所領役帳』では御馬廻衆の筆頭として321貫文の知行高が記されている。

天文2年(1533年)3月の虎印判状が初見。以降約35年間に渡り北条家が発給した様々な文書に名前がみえるが、永禄11年(1568年)6月を最後として名前がみられなくなる。永禄12年(1569年)に子の康保が評定衆になっているため、永禄11年6月から永禄12年の間に家督を嫡男・康保に譲り隠居、または死去したと思われる。

参考文献 編集

脚注 編集