石押分之子(いわおしわくのこ)は、『古事記』、『日本書紀』に記述される大和国国津神。『紀』では、磐排別之子と表記される。吉野の国巣の祖(『紀』では、国巣部(ら)の始祖(もとつおや)なりと記される)。

『記』の記述には、神武天皇東征のおり、熊野から吉野(大和)へ入り、3番目に出会った国津神とされ、山に入った所でを押し分けて出て来た上、2番目に出会った井氷鹿と同様にが生えていた(有尾人だった)ので、天皇がお前は誰かと問うと、「私は国津神で、名を石押分之子」と答え、「今、天津神の御子である天皇の行幸と聞き、迎えに参じた者です」と説明した(『紀』に、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれ、巡幸した際の事と記す)。

名称にある「子」とは、誰々の子という意味ではなく、愛称である[1]。また国栖(くず)とは「くにす」がつまった語であり、「国を住み家とする者」の意で、「国津神を祀る人々」を指す[2]

備考 編集

  • 国栖の記述として、大和国吉野とは別に、『常陸国風土記茨城郡の条にも先住民としての国栖の説明がある。それによれば、「国栖(くず)とは俗(くにひと)の語(ことば)で都知久母(つちぐも)」とあり、『風土記 日本古典文学大系』(岩波書店、第14刷1971年、p.46)の脚注4によれば、「土蜘蛛とは土神であり、土着神(国津神)」とする。
  • 『古事記』では、のちに大和国の忍坂(現桜井市)においても尾の生えた土雲(表記は原文ママ)と遭遇しているが、恭順した吉野の国津神とは異なり、久米の歌を歌った八十猛によって斬殺されている。
  • 星野良作は、応神紀の吉野行幸の際に国栖が来朝した記事が、神武紀と共通性があることから、神武紀の記述は、応神(仁徳)期の史実が反映されたものではないかと考える[3]

脚注 編集

  1. ^ 川口謙二 『東京美術選書23 続神々の系図』 東京美術 初版第8刷1996年 ISBN 4-8087-0062-X p.28.
  2. ^ 武光誠 『古事記・日本書紀を知る辞典』 東京堂出版 再版2000年(初版1999年) ISBN 4-490-10526-6 p.244.
  3. ^ 『別冊歴史読本 特別増刊 24《これ一冊でまるごとわかる》シリーズ5 古代天皇家の謎』 新人物往来社 1993年 p.65.

関連項目 編集

  • 土蜘蛛 - 前述の備考に記されるように、国栖(先住民)は土蜘蛛と認識される
  • 国栖奏 - 石押分之子の子孫が朝廷に奏じた行事
  • 長脛彦 - 東征以前からの大和の先住民