石 璞(せき はく、生年不詳 - 1469年)は、明代官僚は仲玉。本貫彰徳府臨漳県

生涯 編集

1411年永楽9年)、郷挙により、国学に入った。監察御史に任じられた。1412年(永楽10年)、四川按察使として出向した[1]1436年正統元年)、江西按察使に転じた。1438年(正統3年)、囚人を逃した罪に問われて、江西按察副使に降格された。1442年(正統7年)、山西布政使に転じた。

1448年(正統13年)2月に工部尚書の王卺が太監の王振と対立して致仕すると、5月に石璞は王振と仲が良かったことから召し出されて、工部尚書に任じられた。1449年(正統14年)、処州葉宗留が反乱を起こすと、総兵官の徐恭らが討伐に赴き、石璞はその軍務に参与した。軍が到着する前に、葉宗留はすでにその仲間の陳鑑胡に殺されており、浙江巡撫の張驥が陳鑑胡を招降して、反乱の勢力は衰えていた。石璞らは逗留して功績がなく、御史の張洪らに弾劾され、軍を返して奏聞するよう命じられた。

景泰帝が即位すると、石璞は北京に召還され、大理寺卿を兼ねた。1450年景泰元年)4月、太原で募兵した。11月[2]宦官の金英が獄に下されると、法司は石璞がかつて金英に賄賂を贈っていたとして弾劾した。石璞は獄に下され、斬刑を論告されたが、特別に許された。大同に出向して軍の食糧輸送を監理した。1451年(景泰2年)4月、石亨が京営の兵を選抜して操練にあたると、石璞は総督宣府軍務を命じられた。6月、北京に召還されて工部の事務にもどされた。1452年(景泰3年)4月、太子太保の位を加えられ、二官の俸給を受けた。

黄河が沙湾で決壊すると、石璞はこれを修復するよう命じられた。石璞は決壊箇所を塞ぐ前に、別に河道を浚渫した。黒洋山から徐州まで舟が通るようにしてから、決壊箇所をもとのように塞いだ。1453年(景泰4年)、沙湾で黄河が再び決壊したため、石璞は再び赴いて修復にあたった。1454年(景泰5年)4月、母が死去したため、石璞は帰郷したが、喪に服す間もなく工部の事務に復帰した。

1455年(景泰6年)1月、石璞は兵部尚書に転じ、于謙とともに兵部の事務を協同で監理した。1456年(景泰7年)1月、湖広苗族の乱が起こると、石璞は総督軍務を命じられ、南和伯方瑛とともに反乱を討った。1457年天順元年)2月、勝利を奏聞した。6月、北京に召還され、致仕を命じられた[3]1460年(天順4年)冬、李賢の推薦により、南京左都御史に任じられた。このとき石璞は老いて耳が聞こえなくなっていたため、仕事をつとめることができなかった。1463年(天順7年)、錦衣衛指揮僉事の門達に弾劾されて罷免され、帰郷した。1469年成化5年)閏2月甲子、死去した[4]

脚注 編集

  1. ^ 談遷国榷』巻15
  2. ^ 『国榷』巻29
  3. ^ 『国榷』巻32
  4. ^ 『国榷』巻35

参考文献 編集

  • 明史』巻160 列伝第48