石田玉山
江戸時代後期の挿絵画家
来歴 編集
岡田玉山の門人。大坂の人で姓は石田、名は修徳。字は子秀。はじめ石峰、後に玉峰、蓼華斎、蓼華、揚輝斎と号す。岡田玉山に師事し、のちに師名を継ぎ玉山を名乗り法橋に叙せられた。作画期は文化の頃で、主に読本の挿絵を手がけている。文化末年ごろ江戸に移り、神田紺屋町に住む。ある日、家を出たまま遂に戻らなかったという。
一方で飯島虚心によれば、名は尚友で字は子徳とされ、月岡雪鼎または蔀関月の門人であるという。板刻密画の開祖であり、文化9年(1812年)に76歳で没したとされる[1]。また漆山天童によると石田玉山のほうが岡田玉山の師であるとされている[2]。
岡田玉山と石田玉山は事績が混同されることが多く不明な点が多いが、別人である[3]。
作品 編集
脚注 編集
参考文献 編集
- 井上和雄編 『浮世絵師伝』 渡辺版画店、1931年 ※近代デジタルライブラリーに本文あり。70コマ目。
- 日本浮世絵協会編 『原色浮世絵大百科事典』(第2巻) 大修館書店、1982年
- 熊本県立美術館編 『今西コレクション名品展Ⅲ』 熊本県立美術館、1991年