祗林寺(しりんじ、キリムサ、기림사)は、慶尚北道慶州市にある仏教寺院。韓国仏教界の最大勢力である曹渓宗大韓仏教曹渓宗)の第18教区本寺である仏国寺の末寺である。日本統治時代は、朝鮮三十一本山の一つだった。

祗林寺(林井寺⇒祗林寺)
1629年(李氏朝鮮仁祖7年)の建築様式を残す大寂光殿
1629年(李氏朝鮮仁祖7年)の建築様式を残す大寂光殿
所在地 慶尚北道慶州市陽北面虎岩里419
山号 含月山
宗派 曹渓宗(華厳宗⇒禅宗⇒曹渓宗)
寺格 曹渓宗の第18教区本寺仏国寺の末寺
朝鮮三十一本山日本統治時代
本尊 毘盧遮那仏
創建年 不詳
開基 光有聖人
中興年 643年新羅善徳女王12年)
中興 元暁617年 - 686年
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歴史 編集

天竺人の光有が林井寺を創建したことをもって、祗林寺の創建としているが、創建年は不詳である。

643年新羅善徳女王12年)に華厳宗の僧侶の元暁が再建し、林井寺を祗林寺に改名した。

新羅の神文王(在位681年692年)が東海で海龍に化した父文武王(在位661年 - 681年)から萬波息笛という笛を得て、王宮に帰る途中、祗林寺の西側の小川のほとりでしばらく休んだという記述が、『三国遺事』の中にある。なお祗林寺は文武王陵の近くにある。

李氏朝鮮太宗による1407年(太宗7年)の仏教弾圧の際、存続を許された88寺院の中に祗林寺の名前はなく、廃寺になったようである。 世宗による1424年(世宗6年)の仏教弾圧の際は、存続を許された36寺院の中に祗林寺は含まれ、禅宗の18寺院の一つとして存続した(朝鮮の仏教#李氏朝鮮時代の仏教弾圧)。

1592年宣祖25年)から1598年(宣祖31年)に行われた日明戦争のさい、祗林寺は戦略的要衝で僧兵や義兵の拠点になった。なおこの時焼失したという記録はない。

1863年哲宗14年)の火災で多くの建物が焼失したが、1629年仁祖7年)建立の大寂光殿は焼失を免れた。

日本統治時代1911年、寺刹令施行規則(7月8日付)によって、朝鮮三十本山に指定された(1924年以降は朝鮮三十一本山)。仏国寺は祗林寺の末寺だったが、現在は立場が逆転している。

 
祗林寺の末寺だった頃の仏国寺(1914年撮影)

文化財[1] 編集

  • 大寂光殿(宝物第833号)
    • 1997年に行われた解体工事の際に発見された墨書銘によると、1629年崇禎2年)に5度目の重修が行われ、1755年乾隆20年)に改造重修が行われ、1785年(乾隆50年)に第6重創が行われ、1978年に第7重修が行われたと書かれていた。
  • 乾漆菩薩半跏像(宝物第415号)
  • 塑造毘廬遮那三仏坐像(宝物第958号)
  • 塑造毘廬舍那仏腹蔵典籍(宝物第959号)

脚注 編集

外部リンク 編集