福岡ソフトバンクホークス

福岡ソフトバンクホークス
会社名 福岡ソフトバンクホークス株式会社
創設年度 1938年
所属リーグ
パシフィック・リーグ
歴代チーム名
  • 南海軍(1938年 - 1944年途中)
  • 近畿日本軍(1944年途中 - 1945年
  • グレートリング(1946年 - 1947年途中)
  • 南海ホークス(1947年途中 - 1988年
  • 福岡ダイエーホークス(1989年 - 2004年
  • 福岡ソフトバンクホークス(2005年 - 現在)
本拠地
福岡Yahoo! JAPANドーム
Fukuokadome ground.jpg
収容人員 3万5695人(ヤフードーム、野球開催時3万5773人)
フランチャイズの遍歴
永久欠番
なし
獲得タイトル
日本一(5回)
1959 | 1964 | 1999 | 2003 | 2011
リーグ優勝(17回)
1946 | 1948 | 1951 | 1952 | 1953 | 1955 | 1959 | 1961 | 1964 | 1965 | 1966 | 1973 | 1999 | 2000 | 2003 | 2010 | 2011
セ・パ交流戦優勝(3回)
2008 | 2009 | 2011
成績(タイトル以外)
アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝)
2011
日本シリーズ出場(14回)(太字は勝利した年)
1951 | 1952 | 1953 | 1955 | 1959 | 1961 | 1964 | 1965 | 1966 | 1973 | 1999 | 2000 | 2003 | 2011
クライマックスシリーズ(4回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
1勝3敗
2007 | 2009 | 2010 | 2011
プレーオフ(2004-2006)(3回)
(太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)
0勝3敗
2004 | 2005 | 2006
プレーオフ(前後期制)(1回)
(太字は勝利した年、斜体は後期優勝)
1勝0敗
1973
球団組織
オーナー 孫正義(代行:笠井和彦
運営母体 ソフトバンク
監督 秋山幸二

福岡ソフトバンクホークス(ふくおかソフトバンクホークス、Fukuoka SoftBank Hawks)は、日本プロ野球球団でパシフィック・リーグの球団のひとつ。

福岡県保護地域とし、同県福岡市中央区にある福岡Yahoo! JAPANドーム専用球場(本拠地)としている。ウエスタン・リーグに所属する二軍の本拠地は同市東区にある福岡市雁の巣レクリエーションセンター野球場である。[1]

球団の歴史

大阪時代(南海時代)

戦前

1938年昭和13年)3月31日南海鉄道を親会社とする南海軍(なんかいぐん)が結成される。同年3月29日日本職業野球連盟に加盟したが、既に1937年度から8チームでのリーグ戦を開催していたため、南海軍の出場を認めると9チームで開催することとなり、日程上1チームは試合から外されてしまう。また、当時の部員は監督と選手合わせて14名と人数的にも少ないため、加盟が認められるかどうか不安な材料も多かった。しかし、連盟とリーグ参加各チームは条件付きの参入を決めた。これは春季リーグの参加は開幕が近づいており、日程編成の調整が難しかったことも考えられているが、一番の理由としては「選手を補強し、その実力を考慮に入れた上で秋季リーグからの参加を認める」というもので、春季リーグはいわばリーグ戦に参加できない準加盟チーム扱いでのスタートだった。その為秋季リーグ戦から参加となる。本拠地は大阪府堺市堺大浜球場1939年に本拠地球場として中百舌鳥球場が完成したが、公式戦は主に阪急西宮球場阪神甲子園球場で行われた。1940年4月6日の対阪急軍戦で、南海軍は2-32の30点差をつけられての記録的大敗を喫するなど戦前のチーム成績は今ひとつだったが、鶴岡一人岩本義行神田武夫と実力のある選手がチームを支えた。1944年の戦時企業統合政策(陸上交通事業調整法)により南海鉄道は関西急行鉄道と合併して同年6月1日より近畿日本鉄道となり、合わせて球団名を近畿日本(きんきにっぽん)へ改称した(後年、近鉄は大阪近鉄バファローズという球団を持つことになるが、ホークスとは球団としての関係はない)。

鶴岡監督政権

野村監督時代

広瀬監督時代から南海身売りまで

福岡移転以降

平和台

福岡ドーム

福岡ダイエーホークスを経験しているNPB所属現役選手一覧*()は現在、福岡ソフトバンクホークスに在籍している選手
守備位置 選手
投手 小椋真介) (馬原孝浩) (新垣渚)(神内靖杉内俊哉 三瀬幸司 篠原貴行 寺原隼人 山田秋親
内野手 小久保裕紀) (明石健志)(金子圭輔井口資仁
捕手・外野手 山崎勝己) (松中信彦) (城所龍磨城島健司 的場直樹 荒金久雄 井手正太郎

二度目の球団売却 ソフトバンク時代

新チームマークは英語の「S(SoftBank)」と「h(Hawks)」を組み合わせたもので、チームロゴに挿入されている黄色の2本線は親会社のソフトバンクのCIロゴをアレンジしたもの(元々は海援隊旗印から取った物)である。
福岡市内での優勝パレード(2011年12月11日)

チームの特徴

大阪時代

福岡移転以降

球団愛称

マスコット

福岡ソフトバンクホークスのマスコットはダイエー時代より使用されている、鷹を擬人化したもので「ハリー・ホーク」など8体。ハリーホークの体の色はダイエー時代はオレンジ、ソフトバンクになってからはイエローになっている。

ちなみに、南海時代も鷹を擬人化したマスコットキャラクターが存在していた(愛称・たかちゃん)。ペットマーク等に使われていた。

ユニホームの変遷

大阪時代

福岡移転以降

特別ユニホーム

球団旗の変遷

運営会社

福岡ソフトバンクホークス株式会社
Fukuoka SoftBank HAWKS Corp.
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
810-0065
福岡市中央区地行浜2-2-2
設立 1969年3月
業種 サービス業
事業内容 プロ野球球団「福岡ソフトバンクホークス」の運営
代表者 笠井和彦(代表取締役社長兼オーナー代行)
資本金 1億円(2010年2月28日時点)
純利益 8億5,500万円
(2010年2月期)
純資産 21億1,500万円
(2010年2月28日時点)
総資産 45億8,600万円
(2010年2月28日時点)
決算期 2月末日
主要株主 ソフトバンク 100%
関係する人物 孫正義(オーナー)、王貞治会長)、小林至取締役執行役員
外部リンク http://softbankhawks.co.jp/
特記事項:2005年1月「株式会社福岡ダイエーホークス」から現商号へ商号変更。
福岡ソフトバンクホークス株式会社
球団保有
福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社
野球およびその他スポーツ施設の経営・管理
映像や音声等コンテンツの配信サービス

ユニフォーム等のスポンサー

2005年度より移動用スーツおよびネクタイなどを提供。オフィシャルサプライヤーである。

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
(1946年、1948年、1951年 - 1953年、1955年、1959年、1961年、1964年 - 1966年、1973年、1999年 - 2000年、2003年、2010年 - 2011年)※1
(2011年)
(2008年 - 2009年、2011年)
(1959年、1964年、1999年、2003年、2011年)
(1941年、1946年 - 1966年、1968年、1970年、1972年 - 1974年、1976年 - 1977年、1998年 - 2007年、2009年 - 2011年)※2
(1938年秋 - 1940年、1942年 - 1944年、1967年、1969年、1971年、1975年、1978年 - 1997年、2008年)

※1 1973年は前期1位(年間勝率では3位)でプレーオフに進出、阪急を3勝2敗で破りリーグ優勝。

※2 1998年はオリックスと同率の3位であり、1997年はオリックスは2位・ダイエーは同率4位のため、1999年の開幕権を得られず。

2004年2005年のプレーオフはレギュラーシーズン最高勝率球団として第2ステージに進出(5ゲーム差以上で1勝のアドバンテージを得られることになっていたが、両年とも4.5ゲーム差で、アドバンテージ無しでの戦いとなった。)。2004年は西武、2005年はロッテに、共に2勝3敗で敗退。当時のプレーオフの規定により、両年とも最終成績は2位となった。

2006年のプレーオフは、レギュラーシーズン3位により第1ステージから登場。シーズン2位の西武を2勝1敗で破って第2ステージに進むものの、この年は、2004年・2005年と2年続けてレギュラーシーズン最高勝率球団のチーム(ソフトバンク)が敗れたため制度が変更され、ゲーム差に関係なく無条件で1位チームに1勝のアドバンテージが与えられたこともあり、シーズン1位の日本ハムに2連敗で敗退。

2007年は、レギュラーシーズン3位で、この年からセ・リーグもプレーオフ制を導入し名称変更されたクライマックス・パに第1ステージから登場。シーズン2位の千葉ロッテに1勝2敗で敗退した[25]

その他の記録

歴代の本拠地

その他、福岡移転後は準本拠地として北九州市民球場藤崎台県営野球場でも公式戦を行っている。

歴代の監督

太字は優勝達成監督

※1 1962年シーズンは成績不振を理由に数か月間休養。この間に蔭山和夫が代行
※2 就任4日後に実質指揮を執ることなく急逝。南海蔭山新監督急死騒動を参照
※3 1977年はシーズン終了まで2試合を残して解任。残り2試合は穴吹義雄が代行
※4 2006年7月6日から2006年シーズンオフまで手術のため休養。森脇浩司が代行

永久欠番

なし

準永久欠番扱い

15:藤井将雄
「炎の中継ぎ」として活躍し、1999年、当時のパ・リーグ最多ホールド記録を樹立。福岡移転後のリーグ初優勝および日本一の原動力となる。日本シリーズ中に胸部の痛みを訴え、入退院を繰り返しつつも復活を期して2軍で調整していたが、2000年10月13日、チームのV2を見届けたのち、肺癌のために逝去。享年31。
2001年以降、15番は欠番となっている。なお、大沢啓二が南海ホークス選手時代に着けていた番号でもある。
89:王貞治
1995年から2008年までの14年間、ホークスの監督として指揮を執り3度のリーグ優勝と2度の日本一を成し遂げ(巨人監督時代を含むと4度のリーグ優勝)、ゼネラルマネージャーとしても球団に多大な功績を残した。球団は背番号89番を空けて将来の監督に与える方針を示していたが、王の後を継いだ秋山幸二が「恐れ多くも自分が背負うには重すぎる」と辞退。これにより、球団は89番を欠番扱いとする事を表明した。
90:景浦安武
水島新司の漫画『あぶさん』に登場する野球選手(主人公)で、外野手兼指名打者。連載開始の1973年から「現役引退」となった2009年まで90番をつけ続けていた。10月6日の対オリックス戦が最終試合となったが、現実における同日の試合終了後に福岡ドームにおいて引退セレモニーが行われ、水島新司がスピーチしている。
藤原満がコーチ就任時に背番号90を希望するものの、水島から「これはあぶさんの背番号だから」と断られたという逸話があるほどで、暗黙の了解でこの背番号の使用は禁制となっている。そのため、南海時代から90番をつけた人物はなく、現在に至るまで球団の配慮で欠番扱いになっている。
52:川崎宗則
2011年までホークスに在籍し、遊撃手として活躍した。2012年にシアトル・マリナーズに移籍した後は、球団の配慮で彼が戻ってくるまで欠番扱いにしている。

かつての欠番

9:小久保裕紀
2003年シーズン終了後に読売ジャイアンツへ無償トレードされて以降、チーム不在の3年間、ダイエー時代につけていた「9」は欠番扱いだった。ホークスに復帰した2007年以降、引き続き「9」を付けてプレーしている。

主な歴代球団歌

灰田勝彦は「歌手よりも野球選手になりたかった」と公言するほどの野球ファンで、野球関連ではこの曲以外にも『野球小僧』『輝けロビンス』(大陽ロビンス球団歌)を歌っている。福岡ソフトバンクホークスになった現在においても関西でのゲームでは試合の合間に応援団によりトランペットで演奏される。ホークス応援席では南海時代からのファンを中心に異様な盛り上がりを見せるのが常である。
1980年ごろ製作。香川伸行の応援歌「青春ドカベン」のカップリング(B面)曲だった。
1986年ごろ、水島監修の下製作。「南海ホークス応援歌」として企画された。
福岡移転以来、「WE ARE THE CHAMPION……」の節で始まる長年公式球団歌としてその役を担っていた。球場(試合開始1時間前に流されていた)の他、ダイエー系列店舗やダイエー系列であったコンビニエンスストアローソンでもこの曲が流され、優勝の際やシーズン終了のセレモニーで流された。また、平成元年から平和台時代を中心に、時折中継していたサンテレビのホークス戦中継の合間のCMに入る直前の音楽としても(得点スコアをバックに)この歌の終りの演奏部分が起用されていた。しかし、後述の『いざゆけ若鷹軍団』(当時:公式応援歌)に対して知名度が低く、ソフトバンクに球団が移行すると共にその幕を下ろすことになった(後年、阿久悠は、この曲が利用されなくなってしまったことを大変遺憾に思うというコメントを発表している)。
球団公式サポートソング。九州朝日放送全面協力のもと、KBCラジオ内で応援歌タイトルを募集、それをもとにエスカーゴが楽曲制作、KBC野球放送でのオンエアーの他、STOPやオールザッツホークス等のイベントで歌われた。
なお、エスカーゴは2003年に解散している。
球団公式セレモニーソング。福岡ソフトバンクホークスの誕生に合わせて制作され、2005年の開幕戦で藤井本人によって初披露された。ヤフードームでの試合に勝った時は「勝利の花火」を上げて『いざゆけ若鷹軍団』とこの曲が流れるのが定番となっている。開幕後初勝利の試合後や、藤井本人がライブなどで来福している際、生歌を披露することがある。

キャンプ地

以前は高知県高知市営球場で行われていた。

福岡移転後のチームスローガン

福岡ダイエーホークス

福岡ソフトバンクホークス

ほかに「WE = HAWKS」、ロッテ戦限定スローガンとして「倍返し。」
ほかに「WE = HAWKS」、「ストロングホークス」、終盤戦・クライマックスシリーズスローガンとして「優勝へ、全開!」
ほかに「WE = HAWKS」、開幕戦スローガンとして「熱気ブン!ブン!全員開幕」、シーズン終盤に「誇りを胸に、頂点へ」
ほかに「WE = HAWKS」、終盤戦スローガンとして「フリキレ!! いざ、頂点へ。」
ほかに終盤戦スローガンとして「勝たんといかんばい!」
その他、終盤戦スローガンとして「燃えるんダ」

エピソード

没収試合で掴んだ初優勝

1946年シーズンは、11月5日の最終日まで優勝の行方がわからなかった。この日、後楽園球場東京巨人軍セネタース、そしてグレートリング対中部日本軍の変則ダブルヘッダーが行われ、巨人が勝ってグレートリングが敗れると2チームが同勝率で1位となり、同点決勝戦に持ち越される可能性があった。だが、第1試合で巨人が1-4で敗れたため、グレートリングは出番を待たずに創部9年目、悲願のリーグ戦初優勝を決めた。なお、グレートリングはその最終戦で別所昭を先発に迎えたが、鼻血と失神により途中降板するアクシデントがあり、4-7で敗れている。

鶴岡一人は後年「(優勝したのは)パシフィック藤本さん(同チーム監督)のおかげだよ」と述べている。これは、パシフィックは戦前の既存球団に在籍していた藤井勇白石敏男を獲得。すでに両選手は戦前所属した球団から給料をもらっていなかったので、藤本は自由契約の身分だと考えて獲得したが、日本野球連盟は調査をすることを決めて「調査が完了するまでは公式戦出場を認めない」とした。だが、それを無視して2人を無断で5月の公式戦4試合に出場させてしまい、後にこれらが没収試合となってしまった。このうち2試合がグレートリング戦で、5月23日の試合は7-5でグレートリングが勝っていたので勝敗には関係ないが、26日の試合はパシフィックに4-7で敗戦していた。これが没収試合の規定で9-0でグレートリングの勝利となった。もし没収試合がなく、最終戦が上記の成績だったら、巨人対グレートリングの同点決勝となっていた。

毎回得点試合・毎回失点試合

1952年6月7日、後楽園球場での対東急フライヤーズ戦で、日本プロ野球史上初の毎回得点記録が達成された。それも1回から5回までは毎回2点ずつを小刻みに取り、最終9回には一挙4点を挙げ18-4での大勝劇で史上初の快挙を飾った。スコアは毎回得点の項にテーブルとして掲載している。

逆に毎回失点を喫してしまった経験は2回ある。1回目は1975年5月11日の対阪急ブレーブス戦(阪急西宮球場)で4-15で敗れ、阪急に毎回得点[26]を献上している。2回目はダイエーに移行した1997年5月7日の対西武ライオンズ戦で、7回に大量6点を失うなど、0-21の完封負けを喫している。

日本シリーズ最少観客動員記録

1953年の日本シリーズ(対巨人戦)は、本来第5戦を後楽園球場、第6・7戦を大阪球場で行う予定だったが、日米野球の日程の関係と当時の大会規定で「第1・3・5・7戦と第2・4・6戦は毎年両リーグが交互に指定し、また第1・2戦、第3・4戦、第5・6戦はそれぞれ連続して同じ地区の球場を指定すること」という取り決めもあり、予定を変えて5・6戦を南海主催、7戦を後楽園という日程として行った。このうち第6戦は本来の大阪球場ではなく大阪タイガースの本拠地の阪神甲子園球場を借りて開催したが、有料観客はわずか6346人というシリーズ史上最少記録となった。

杮落としがサスペンデッドゲーム

1987年5月23日、この年に開場した柏崎市佐藤池野球場の杮落としとして、対ロッテオリオンズ戦(現:千葉ロッテマリーンズ)が開催された。ところが、当日は激しい降雨で、本来なら中止にしたいところだったが、柏崎市では1950年以来37年ぶり[27]の公式戦開催とあって、前売り券も売り切れる好調ぶりであることから、大会を主催した新潟日報と柏崎市は強行開催をしようと天候の回復を待った。

そして小康状態となるのを見てグラウンドの整備や土の補充を行い、当初発表の14時より32分遅れて14時32分に試合開始となったが、再び大雨になったため64分の中断を強いられる。それでも注目度が高いことを考慮して試合成立にこだわり、何とか試合は成立した。中断明け後は問題なく試合が行われ続けたが、佐藤池球場にはナイター照明設備が設置されておらず、日没になればその時点で試合を打ち切らなければいけない。当時の新潟の日没時刻は18時20分で、ギリギリまで開催することも可能だったが、雲が分厚かった影響もあり、これ以上試合を続けると球が見え辛くなって危険という理由で、8回表・4-4で迎えたロッテの攻撃途中の17時44分をもってサスペンデッドゲームが宣告された。この試合の続きは7月8日に平和台で開催され、河埜のサヨナラ適時打で勝利した[28][29][30]

パ・リーグはサスペンデッドゲームの条項を2012年度から廃止することを決めた(セ・リーグ、およびセ・パ交流戦は元々このルールはない)ため、事実上この試合が日本プロ野球最後のサスペンデッドゲームとなった。

このサスペンデッドの中断前の試合が行われた次の日、5月24日には新潟市鳥屋野運動公園野球場で開催が予定されながら、この豪雨の影響が災いし、グラウンドコンディション不良という理由で開催中止となってしまった[31]

なお、南海は1977年 - 1988年まで、夏季を中心として「新潟シリーズ」を行っており、初日の土曜は原則として長岡市悠久山野球場、2日目は鳥屋野運動公園野球場を会場として行った[32]。ただし、1981年の対西武ライオンズ戦では、初戦が上越市営球場、前述の1987年と1988年の対鉄バファローズ初戦は柏崎で行われている。また、日曜の開催のうち、1977年・1978年と1982年[33]は当時2シーズン制であったため、できるだけ1カード3連戦を消化できるようにするためにダブルヘッダーで実施されたことがある。

堺市への幻の移転計画

大阪球場は、1994年の関西国際空港開港に伴う難波地区の再開発計画の対象地域に指定されていたため、1990年を最後に閉鎖が決まった。親会社である南海電気鉄道は大阪球場に代わる新球場の建設を検討していたところ、大阪市に隣接する堺市が、当時の市長の意向で熱心に誘致を進めた。当初の計画案では、中百舌鳥球場(2軍本拠地兼練習場)もしくは堺大浜球場を増改築して本拠地とし、改修中の暫定措置として日本生命球場や、住之江区で計画されていた大阪市南港中央野球場を使用することも検討されていた。しかし、ダイエーへの球団譲渡と福岡市への本拠移転によって、この計画も幻となってしまった。

大阪球場はその後、1989年・1990年の2年間だけ、近鉄バファローズが準本拠地として使ったのを最後に役目を終えた。再開発は閉鎖後から行われる予定だったが着工がずれ込んだため、暫定措置としてフィールド部を住宅展示場として使用した後、1998年に完全閉鎖。その後の再開発事業により、なんばパークスとなった[34]

生卵事件

1996年5月9日、対近鉄バファローズ戦(日本生命球場)での試合[35]に2-3で敗れた後、苛立ちを募らせた一部のファンが暴徒化し、王や選手の乗ったバスに向かって「お前ら、プロか」と言う罵声と共に生卵を投げつける事件が起きた。この年は開幕から低調で、チームはこの敗戦で4連敗、この日時点での成績は9勝22敗、借金13、勝率も3割を切る惨状に、前日にも敗戦に怒ったファンがバスを取り囲む騒ぎが起きるなど、王の采配を疑問視するファンの暴走が相次いでいた。

他にもスタンドから「王ヤメロ、王ヤメロ、やる気が無いなら辞めちまえ」という辞任を求めた野次が飛んだり、「頼むからヤメテくれ、サダハル」「その采配が、王まちがい(大間違い)」「ヘタクソ采配 王貞治」「病原性敗北菌 OH-89」「さよならダイエー、こんにちはアサヒビール」「門田 助けてくれ!」「南海 復活!」「杉浦 再登板」「チーム不振 山本和範解雇の責任を取れ 瀬戸山隆三」「5年も待てるか 今すぐ辞めろ! サダハル」「忌中」などの散々な横断幕が掲げられる光景があったほか、FDHの頭文字が不甲斐ない(F)・だらしない(D)・恥ずかしい(H)の略だとも言われた。

保護地域でのビジターゲーム

ホークスが福岡に移転してから、公式戦では2回、地元福岡県でビジター扱いの試合を行っている。

1999年6月11日 - 6月13日、対オリックス・ブルーウェーブ戦(福岡ドーム)

詳細はオリックス・バファローズ#敵地でのホームゲームを参照。

2008年5月29日、対横浜ベイスターズ戦(北九州市民球場

詳細は横浜DeNAベイスターズ#九州で交流戦を参照。

以上の試合とも、ベンチの配置の関係でビジター扱いのホークスは1塁側、対戦相手側は3塁側のベンチを使用していた(協約上、ホームチームがベンチを選べる)。

オープン戦では、福岡ドームや北九州で読売ジャイアンツと、北九州ではこれに広島東洋カープと地元でのビジターゲームを行ったことがあった。

台湾での公式戦

2002年5月14日・15日に、台北市立天母棒球場で対オリックス・ブルーウェーブ2連戦を開催した。井箟重慶によると、台湾での公式戦はもともとオリックスが計画していたものの、収支面の見通しが立たずに断念。計画が宙に浮く格好になっていたが、2002年にダイエーが開催に漕ぎ着けたものだったという。

天母棒球場の収容人員は1万人程で、しかも興行権を台湾企業に6000万円で売却したため、2試合を開催したとしても経費を差し引くと収支はあまり無い。福岡ドームで試合を行えば1試合で1億円の収入になるが、ダイエーが台湾での公式戦開催に踏み切ったのは、将来的な経済波及効果への期待からである。台湾から福岡・北九州へ訪れる観光客は年間約25,000人で、これがホークス効果で増えれば10億円規模の地元還元へと繋がると見積もったのである。実際に試合当日の球場周辺には「柳川・阿蘇・スペースワールドを巡り、夜は福岡ドームでホークス戦観戦」といった内容のパッケージツアーのパンフレットが並べられていたという。

一方、台湾側にも公式戦開催にメリットがあった。台湾プロ野球は中華職業棒球聯盟(CPBL)として1990年にスタートしたものの、1997年に起こった八百長問題、さらに後発の台湾大聯盟(TML)との対立でファン離れが進んでいた。そのため、人気回復策として日本のプロ野球チームを招聘しようと考えていたのである。もちろん台湾国籍を持つ王貞治の存在も大きな要因で、この試合にかける台湾側の期待は大きく、試合開始前のセレモニーには陳水扁馬英九が駆けつけるほどだった。

試合は松浦亜弥の始球式で始まり、第1戦は5-4でダイエーがサヨナラ勝ち、第2戦はオリックスが8-7で勝利した。

ただし、台湾での公式戦を開催したことで新たな問題点も発生している。1つは相手チームの説得で、2003年には高雄市で対西武ライオンズ2連戦を予定していたが、西武との交渉がまとまらず開催には至らなかった[36]。台湾での試合後、ダイエーは長野オリンピックスタジアムでの対西武ライオンズ2連戦、さらに対大阪近鉄バファローズ2連戦と遠征が続き、台湾での第2戦から5連敗を喫し、これが原因で遠征前に首位だったダイエーは順位を落とし、以後首位に返り咲くことはなかった。

東京での主催遠征

2004年6月15日、この日予定していた対大阪近鉄バファローズ戦(2連戦の第1試合)を、王貞治の監督通算1000勝記念試合として、王の古巣・読売ジャイアンツの本拠地である東京ドームで「主催試合」として開催した。

東京ドームは2003年まで日本ハムファイターズも本拠地としていたため、日本ハムと巨人以外のチームは主催試合を行えなかったが、2004年に日本ハムが本拠地を札幌へ移転したことによって、東京都を保護地域としている読売ジャイアンツと東京ヤクルトスワローズの許諾が得られれば、パ・リーグ各チームが自由に主催できるようになり、これを受けて実現したもの。

ちなみに、2004年6月15日の試合は近鉄として最後となる東京ドームでの試合となり[37]、第2試合(6月16日)は福岡ドームで開催された。

また、2012年7月2日に東京ドームで西武との主催試合を開催予定[38]

放送

中継番組

テレビ

上述の他に、ダイエーがスポンサーだった時代に、サンテレビジョンサンテレビボックス席で中継したことがある。これは当時サンテレビの主要株主にダイエーが就いていた事による為で、阪神戦の中継できない試合(読売ジャイアンツ中日ドラゴンズとのビジター戦)開催日などを利用して年間20-30試合程度放送していた。(1989年から1994年ごろと、2001年。当時はダイエーと取引関係のあった企業が中継の協賛スポンサーとしてコマーシャルを提供したことがあった。また、女子バレーボールダイエーオレンジアタッカーズ(現・久光製薬スプリングス)の中継も同様のスポンサー形式で放送したことがあった)

ラジオ

インターネット

いずれも放送素材はスカパーのJ SPORTS等を流用させてもらう形での配信であり、2011年の場合はビジターも視聴可能だったのでビジターの場合は解説者の解説が相手チームよりなことが多数あった(もちろんソフトバンク主催試合においてはソフトバンク寄りの解説が多かった)。

過去に放送されていた中継番組

いずれも南海時代。

応援・報道番組

現在放送中の応援番組

※プロ野球三都物語は開幕前に1年に1度放送。

過去に放送されていた応援番組

南海時代に親会社の南海電鉄の提供で放送。福岡移転の際、MCの横山由美子は「福岡へ行ってもがんばれホークス!」の台詞でチームにエールを送った。ちなみに横山の義父の3代目桂春団治も古くからの熱心な南海ファンとして有名である。

イベント

ヤフードームの本拠地戦では「100%エンタ・ドーム宣言」と銘打って毎試合何らかのイベントを行っている。

○○デー

特定の選手やファンを対象とした、「○○デー」企画が行われている。以下に例をあげる。

キッズデー
ホークスのファンクラブ会員の子供を中心に、ウグイス嬢に代わり場内放送を体験するなどの企画が催されている。
○○選手応援デー
ホークスの主力選手の応援デーで、対象選手のグッズつきチケットが発売されたり、入場者に無料で対象選手のお面や被り物が配布される。
チケット得割デー
内野席は半額、外野席は全席1,000円になる。
球音を楽しもうデー
鳴り物応援を禁止し、打球や捕球の音を楽しもうと呼びかけている。
クラブホークスデー
オフィシャルファンクラブ「クラブホークス」会員を対象に様々なイベントが行われる。

鷹の祭典

2004年から、夏休み中のホームゲームで「鷹の祭典」と銘打ったイベントを行っている。このイベントの目玉は入場者全員へのレプリカユニフォームのプレゼントで、ほかにもファン参加型のイベントや市内での大規模なプロモーションが行われる。

女子高生デー

ドォーモデー

応援スタイル

メガホンダンス

福岡ソフトバンクホークスの応援は、前身の福岡ダイエー時代から続く「メガホンダンス」(以下、メガダン)というもので、他の球団では見られない独自の応援といえる。主に外野スタンドのファンが、ホークス攻撃時にメガホンを持ち、曲によって異なるダンスを選手応援歌やヒッティングマーチに合わせて踊る。振り付けは、メガホンダンスの名のとおり、主に腕しか動かさない(ヒッティングマーチには走り回るものもある)。

1999年より、球団から『応援パフォーマンスビデオ・DVD』が販売されている(2005年からDVDでも販売開始、2007年からVHS販売なし)。

ジェット風船

7回のホークス攻撃前の『いざゆけ若鷹軍団』演奏後に黄色のジェット風船を飛ばす(企業とのタイアップイベントの関係で違う色の風船を飛ばす場合もある)。また、ホークスが勝利した場合は「白星」にかけて白いジェット風船を飛ばす[42]

アウトテーマ

アウトテーマは原則的に使用する。テーマ曲は大阪道頓堀の飲食店「くいだおれ」のCM曲のアレンジであり、これは大阪にフランチャイズを置いた南海ホークスからの名残である。後半部分は1アウトなら1回、2アウトなら2回、3アウトなら3回鳴らす。但し、進塁打や犠牲バント成功のときは鳴らさない。

伝統を引き継ぐ動き

上述の通り、かつての南海ホークス時代から継続して使用されている応援テーマも多い。 また、現在のチームカラーは親会社のソフトバンクの企業カラーである黄色と黒であるが、全国的に(特に関西・東日本では)応援席で応援団の使用する法被や応援旗は旧南海ホークスのチームカラーである濃緑や球団旗に使用されていたマゼンタを基調としたものが圧倒的に多い。

2008年には、球団創設70周年及び福岡移転20周年という節目の年に当たる事から南海電鉄とダイエーにも趣旨を説明した上で、南海時代(南海ホークスとして最後に日本一になった昭和39〈1964〉年当時のもの)と福岡ダイエー時代(1999年と2003年に日本一になった当時のもの)のユニフォームが復刻された(特別ユニフォームを参照)。スタンドでも南海ホークスの球団旗が振られた。

その他

2011年東日本大震災を受け、通常の球団旗を使った応援以外に、福岡Yahoo!JAPANドームでの主管試合において、地震で被災した県(青森県岩手県宮城県福島県茨城県千葉県)を激励するためにそれぞれ白地に黒文字で「がんばろう!!○○(都道府県名)」と書かれた大旗をファンが振るシーンがある(試合開始前、および勝利して試合を終了したときなど)。

福岡ソフトバンクホークスマーケティング

福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社
Fukuoka Softbank Hawks Marketing Corp.
種類 株式会社
略称 FSBHM
本社所在地 日本の旗 日本
810-0065
福岡市中央区地行浜2-2-2
設立 2002年8月16日
業種 サービス業
事業内容 野球等スポーツ施設などの経営・管理、野球興行の運営
代表者 笠井和彦
会長代表取締役社長
資本金 1億円
(2010年2月28日時点)
純利益 3億6,700万円
(2010年2月期)
純資産 72億2,300万円
(2010年2月28日時点)
総資産 201億8,000万円
(2010年2月28日時点)
従業員数 174人(2010年2月28日時点)
決算期 2月末日
主要株主 ソフトバンク 100%
関係する人物 小林至取締役
外部リンク http://www.softbankhawks.co.jp/
特記事項:2004年12月17日に現商号へ商号変更

福岡ソフトバンクホークスマーケティング株式会社は、2002年8月設立、創業。当初はソフトバンクのパソコンソフトなどのノベルティの管理をしている会社であった。それがダイエーの球団売却を受けて、現社名に変更。ヤフードームのチケットの販売(北九州市民球場などは別会社)、公式ページ、携帯サイト、球場の広告の営業、ファンクラブの経営、グッズの販売、ソフトバンク携帯のノベルティの配布および抽選、などを行っている。

ファンクラブ

オフィシャルファンクラブは「クラブホークス(ClubHAWKS)」。有料会員の入会・継続特典はファンクラブカードのほか、レプリカユニフォームなど数種類から選べるグッズ、ファンクラブ専用ピンバッジとなっている。 そのほか有料会員は、年4回発行の会報、チケットの先行販売、福岡ドームでホークス主催試合開催時の優先入場、サイン会やトークショーなど球団イベントへの参加権などの特典を受けられる。かつては観戦やオフィシャルショップ『DUGOUT』での買い物でポイントがたまるポイントプログラムもあった(付与は2007年度まで、使用は2008年度まで)。 現在は、オフィシャルショップ『DUGOUT』での買い物の際、ファンクラブカードの提示により、5%割引になる。

ショップ

オフィシャルグッズショップは「ダグアウト」。ヤフードーム横にある旗艦店のほか小倉に展開している。2007年6月までは福岡市の中心部天神大丸天神西通り)やマリノアシティ福岡などにも出店していたが、現在は撤退している。

ヤフードーム店
福岡市中央区 ヤフードーム西側・8番ゲート正面
コレット井筒屋/I'm店
北九州市小倉北区 コレット井筒屋8階、I'm専門店街内

上記のオフィシャルショップ以外にも福岡県内各地にグッズ取扱店もある。

脚注

  1. ^ なお、1988年までは大阪府を保護地域にしていた。
  2. ^ 「近畿日本鉄道100年のあゆみ」(2010年12月、近畿日本鉄道発行)p.216によれば球団名は南海電鉄への分離に先駆けて同年5月3日に「近畿グレートリング」から「近畿日本ホークス」に改称している。
  3. ^ 前後期制元年73年は前期のみ最高勝率で年間勝率3位、史上初の「レギュラーシーズン年間最高勝率球団ではないリーグチャンピオン」及び「レギュラーシーズン年間最高勝率球団ではない日本シリーズ出場チーム」
  4. ^ ちなみに、同年には阪急電鉄がブレーブスをオリエント・リース(現:オリックス)へ譲渡することを発表。関西を代表する2つの球団の歴史が大きく動いた年でもあった。
  5. ^ なお、この試合は日生球場で行われた最後のプロ野球公式戦だった。
  6. ^ 球団の地元である北部九州地区でRKB毎日放送で中継された第5戦は、ビデオリサーチ調べで平均視聴率47.1%(RKB毎日放送史上1977年・1978年の日本レコード大賞に次ぐ歴代3位)、瞬間最高視聴率71.6%という驚異的な数字を記録した。
  7. ^ この対戦は互いにホームグラウンドで全勝したため、内弁慶シリーズと呼ばれた。
  8. ^ 年間最高勝率球団たるポストシーズン敗退=日本シリーズ不出場は73年阪急・75年近鉄・79年阪急・82年日本ハムに次ぎ史上5度目、ホークスは翌年及び6年後も経験、セリーグでも巨人が07年経験
  9. ^ ホークス、またも短期決戦に泣く
  10. ^ 日本プロ野球では2007年の巨人に次ぐ2例目
  11. ^ 永井良和・橋爪紳也『南海ホークスがあったころ』(紀伊國屋書店、2003年)P150
  12. ^ 『南海ホークスがあったころ』P151。南海側は前年の3倍の契約料を要求したという。
  13. ^ 『南海ホークスがあったころ』P152
  14. ^ 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)には、1991年に刊行された毎日放送の社史で、1971年に甲子園の阪神・巨人戦の放送枠を得たことを強調したり、1970年代のナイター中継方針について「阪神、巨人を中心にしたセ・リーグに主眼を置き、パ・リーグ在阪球団のカードを混じえ…選ぶのが基本」と記されていることが紹介されている(同書P90 - 91)。
  15. ^ http://www.softbankhawks.co.jp/news/detail/6000.html
  16. ^ 『南海ホークスがあったころ』P40 - 43。「女性器」とするのは『南海ホークス四十年史』(1978年)、「男性器」とするのは鶴岡一人の著書『南海ホークスとともに』(1962年)、「性行為」とするのは五百崎三郎の『南海ホークス物語』(1956年に「日刊オールスポーツ」という新聞に掲載)である。また鈴木龍二も回顧録の中で、キャピー原田に教えられた話として女性器説を記している。
  17. ^ 『南海ホークスがあったころ』P43
  18. ^ 『南海ホークスがあったころ』P43。メジャーリーグのセントルイス・カージナルスと同じで、ショウジョウコウカンチョウという鳥の名前である。
  19. ^ ロゴや鷹のマークなど、この年に登場したホークスの意匠は今竹七郎が制作した。
  20. ^ 鷹のマークからNHマーク(Nの右側とHの左側の縦線を共有するデザイン)に。
  21. ^ 投手陣から「サイン交換の際に、捕手の出すサインが見づらい」との指摘があったため。
  22. ^ 現役時代(巨人)では日本シリーズで5度戦った「南海ホークス」の復刻ユニホームを着て指揮を執り、しかも「南海ホークス」のユニホームを着た初の外様指揮官(現役時代は所属経験無し)となった王貞治は復刻した濃緑のユニホームに袖を通した際、「最近は派手なユニホームが多いけど、こういう色はいいねえ」と感想を述べた。
  23. ^ なお、大阪への「里帰り」は1988年以来、20年ぶり。
  24. ^ エバーライフは同じ福岡にあるアビスパ福岡の胸スポンサーにもなっている
  25. ^ この年から、レギュラーシーズン最高勝率球団がリーグ優勝となり、クライマックスシリーズ自体は、日本シリーズへの出場権をかけた戦いとして位置づけられるようになった。
  26. ^ この時は阪急が後攻なので9回の攻撃がなく、攻撃が行われた8回までの得点で毎回得点が成立する。
  27. ^ 前回は1950年7月18日に新潟県立柏崎高等学校の校庭で行われた読売ジャイアンツ対大洋ホエールズ戦。よってパ・リーグの公式戦は初めての開催だった。
  28. ^ 通常、サスペンデッドゲームの中断前の試合が地方球場(専用球場でない球場)で開催された場合は、続行試合は特例として専用球場で行われるが、続行試合も地方球場で行われるのはこれが事実上史上初だった。
  29. ^ なお、サスペンデッドの続きは、本来は7月7日の開催を予定していたが、こちらも雨天の影響で中止・順延されている。
  30. ^ 専用球場以外という点で考えると、1954年6月16日の中日球場での近鉄パールズ対東映フライヤーズの続きが、8月10日に中日球場で行われた。当時の近鉄は、沿線地域を配慮して名古屋を準本拠地としていたためである。
  31. ^ 史上最後のサスペンデッドゲームより。
  32. ^ にいがたプロ野球熱戦譜より。
  33. ^ 1981年もダブルヘッダーが予定されていたが、接近していた台風の影響で中止している。
  34. ^ 中百舌鳥球場も地元の草野球や少年野球などの一般利用向けに使われていたが、2001年に閉鎖され、跡地にはマンションが建設された。
  35. ^ この試合は日生球場で行われた最後のプロ野球公式戦で、日生球場は南海が堺市に本拠地移転が行われた場合、完成するまでの仮の本拠地として使うことも検討されていた。
  36. ^ 高雄での開催が予定された2試合は、北九州市民球場で代替開催された。この時、仮に西武と合意に達していたとしても、同時期に台湾が重症急性呼吸器症候群感染地域に指定されることとなったため、いずれにせよ開催は不可能であった。
  37. ^ プロ野球再編問題を参照のこと。
  38. ^ 2012年度 パシフィック・リーグ選手権試合日程(7月) - 日本野球機構オフィシャルサイト
  39. ^ 福岡ソフトバンクホークス主催試合 完全生中継 - 日テレプラスWebサイト
  40. ^ ライオンズ・クラシック2010にて復刻した太平洋クラブ時代のユニフォームを着用。
  41. ^ ライオンズ・クラシック2011にて復刻した西鉄ライオンズ初代ユニフォームを着用。
  42. ^ 2009年シーズンの大半の試合では、新型インフルエンザの感染拡大被害防止の為ジェット風船が自粛された。

関連項目

外部リンク