福島 正長(ふくしま まさなが)は、江戸時代前期の人物。父は福島忠勝福島正則の孫にあたる。

 
福島 正長
時代 江戸時代前期
生誕 慶長20年3月25日1615年4月22日[1]
死没 元禄15年9月3日1702年10月23日[1]
別名 左兵衛(通称)、宜斎(号)[1]
戒名 泰祥院徳翁全心[1]
墓所 妙心寺海福院[1]
幕府 江戸幕府
氏族 福島氏
父母 父:福島忠勝、母:やと(松源院)[1]
兄弟 正長、つるまん(半井蛛庵の妻)[1]
正室?:北村刑部の娘[1]
正勝山名隆豊
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生涯 編集

福島正則の次男である忠勝の長男として広島城で誕生。祖父・正則が改易されて信濃へ移った際には、江戸で叔父・福島正利に養育される[1]。元和6年(1620年)、父・忠勝が祖父・正則に先立ち23歳で死去。福島家は叔父・正利が3000余石の旗本として福島氏を再興したが、寛永14年(1637年)嗣子なく没し一旦断絶。正長は病身だったため京都への居住を願い出て、四条の柳馬場通に移り、剃髪して宜斎と号する[1]。天和元年(1681年)、正長の長男で忠勝の孫にあたる正勝が召し出され、幕府に小姓組番頭として仕え、以後福島氏は2000石の旗本として存続している。

元禄15年(1702年)9月3日、88歳で死去[1]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 『広島県史 近世資料編II』(広島県、1976年)p.27