秋山門造

日本の明治時代末期から昭和時代前期の軍人

秋山 門造(あきやま もんぞう、1891年明治24年)12月30日 - 1944年昭和19年)2月2日)は、日本海軍軍人。海兵42期。太平洋戦争におけるクェゼリンの戦い司令官として戦死した。死後特進により最終階級は海軍中将

秋山 門造
生誕 1891年12月30日
日本の旗 日本 香川県豊田郡柞田村
死没 (1944-02-02) 1944年2月2日(52歳没)
日本の旗 日本 クェゼリン島
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1914 - 1944
最終階級 海軍中将
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来歴・人物 編集

香川県豊田郡柞田村(現 観音寺市柞田町)出身[1]。農家の秋山清五郎、イセの五男として生まれる[2]

中農だったが、厳しい家庭で、当時は機械化されておらず秋山も小さい頃から農業を手伝い、海兵時代も休暇の度に帰宅して農作業をしていた[3]

旧制香川県立三豊中学校(第7回)[4]を経て、1911年(明治44年)9月11日海軍兵学校第42期)に入校。同期には加来止男がいた。1914年(大正3年)12月19日卒業、席次は117名中66番。1915年(大正4年)少尉任官。

砲術学校高等科及び専攻科を修了後、重巡洋艦愛宕」砲術長、舞鶴要港部参謀戦艦榛名」副長などを歴任した。1937年(昭和12年)12月、大佐進級。「間宮」特務艦長、呉海兵団副長、金沢地方人事部長、厦門方面特別根拠地隊副長兼参謀、艦本広島監督官を歴任。呉海軍工廠総務部長在任中の1943年(昭和17年)5月、少将へ昇進した。

1943年(昭和18年)第六根拠地隊司令官としてマーシャル群島クェゼリン島で指揮を執る。タラワマキンを制圧した米軍はマーシャル諸島クェゼリン環礁の占領を乗りだした。 クェゼリンの日本軍は陸海軍合わせて約5000名、ルオット、ナムル島には海軍3000名がおり、これらの部隊の指揮をとったのは、秋山門造少将(海軍第六根拠地隊司令官)である。 秋山が同島に赴任したのは、1943年11月。米軍上陸が明白だったが、独特の地形に阻まれ陣地構築が不完全であった。 すでに、絶対国防圏の圏外であったクェゼリン島には、初めから救援部隊を送る予定はなかった。 秋山は、米軍上陸初日、前線視察のため司令部壕を出たところ米軍の砲弾を浴びて戦死。死後海軍中将に昇進。

1967年(昭和42年)12月、勲二等旭日章の叙勲が授与された。また、子息の秋山正清海軍大尉は、クェゼリン遺族会をつくり、1966年(昭和41年)遺骨収集を行い、1968年(昭和43年)現地に慰霊碑を建立した[5]

栄典 編集

脚注 編集

  1. ^ 『香川県人物・人名事典』(四国新聞社)(1985年) 9頁
  2. ^ 『讃岐人物風景 18 男たちの青春』(四国新聞社)(1988年) 224頁
  3. ^ 『讃岐人物風景 18 男たちの青春』(四国新聞社)(1988年) 225頁
  4. ^ 『観音寺市誌 資料編』(香川県観音寺市)(1985年) 139頁
  5. ^ 『讃岐人物風景 18 男たちの青春』(四国新聞社)(1988年) 227頁

参考文献 編集

  • 『日本海軍将官総覧』(太平洋戦争研究会)(2010年)
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』(芙蓉書房出版)、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第9巻)(第一法規出版)
  • 明治百年史叢書『海軍兵学校沿革』(原書房)
  • 『回想 三豊中学』(三秀社)(1969年)