秋月種穀

日本の江戸時代中期~後期の武士。江戸幕府旗本秋月種蔭四男で、旗本秋月氏6代当主

秋月 種穀(あきづき たねよし)は、江戸時代中期の旗本寄合席。通称は式部。高鍋藩秋月家分家の旗本寄合席木脇領主秋月家6代当主。石高日向国諸県郡宮崎郡内3,000石。

 
秋月種穀
時代 江戸時代中期
生誕 延享元年(1744年[1]
死没 安永5年6月7日1776年7月22日
改名 勝五郎、種穀
別名 式部(通称)
戒名 紹雲
墓所 広徳寺の梅雲院
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川家治
氏族 秋月氏
父母 秋月種蔭秋月種弘娘ヤヘ
秋月種武
兄弟 種武高井忠篤室、種福種似種穀
原田幸省室、蔭山広賢室、内田長徳
柳生俊峯
銕蔵、種備
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生涯 編集

秋月種蔭の四男として誕生。幼名は勝五郎。

人吉藩相良長在の正室である寿昌院の甥で相良晃長の従兄弟にあたることから、晃長の身代わりとなっていた相良頼完明和4年(1767年)に死去すると、その後継候補として人吉藩相良家重臣より老中筆頭の松平武元に対して種穀の人吉藩主家相良家相続が申請される。しかし、公式上は宝暦2年(1752年)生まれである頼完(実は寛延2年(1749年)生まれ)よりも年齢が高いことや相良家と秋月家とは異姓であることから松平武元より種穀の相良家相続は却下され、武元の甥にあたる遠山友充が相良福将として相良家を相続した。

種蔭の四男であったが、明和8年(1771年)に兄の種武の死去を受けて旗本秋月家の家督を相続し、安永元年(1772年)に徳川家治に初めて御目見を済ます。

兄の種武同様に父が就任していた本所深川火事場見廻役を初め、目立った幕職につく事はなく、安永5年(1776年)に死去。享年33。法名は紹雲。墓所は下谷広徳寺の梅雲院。

木脇領主である旗本秋月家の家督は、本宗家である当時の高鍋藩主秋月種徳の弟にあたる種備が相続した。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜に記載される享年からの逆算

参考文献 編集

  • 『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、昭和40年(1965年))
    • 寛政重修諸家譜 巻第千百八十八