稲留 長蔵(いなどめ ながくら)は、戦国時代武将相良氏の家臣。相良氏17代当主・相良晴広の実弟。肥後国岡本城主。

 
稲留長蔵
時代 戦国時代
生誕 大永2年(1522年
死没 永禄10年4月10日1567年5月18日
改名 上村頼定(初名)→稲留長蔵
別名 通称:四郎五郎、左近大夫
戒名 金阿弥陀仏
主君 相良晴広義陽
氏族 上村氏稲留氏
父母 父:上村頼興、養父:稲留下野守
兄弟 相良晴広上村頼孝上村頼堅長蔵
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生涯 編集

大永2年(1522年)、上村頼興の四男として誕生。

最初の名は上村四郎五郎頼定で、西村地頭である稲留下野守の養子となったことから稲留姓を名乗る。その後、父・上村頼興により暗殺された岡本頼春の領地を継承し、岡本城主及び地頭に任じられた。しかし、頼興の死後、兄・晴広の跡を継ぎ当主となった相良義陽に対し、弘治3年(1557年)6月、兄の上村頼孝頼堅と共に造反する。しかし岡本城は義陽方の攻撃によって、同年8月16日(8月13日とも)に落城。長蔵は北原氏の治める飯野[1]へと逃亡した。

その後、義陽に帰国を許され帰還し八代城に住んだ。しかし永禄10年(1567年)に義陽の命により、長蔵の宿老二人が東源兵衛東主馬らに殺害され、長蔵自身も八代奉行高橋駿河守東尾張守らにより殺害された。享年46。

脚注 編集

参考文献 編集