立花道雪

戦国大名 (1513-1585)

戸次 鑑連/立花 道雪(べっき あきつら/たちばな どうせつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊後戦国大名大友氏家臣臼杵鑑速吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた[9]

 
戸次 鑑連/戸次 道雪
福岡県柳川市福厳寺所蔵
時代 戦国時代から安土桃山時代
生誕 永正10年3月17日1513年4月22日
死没 天正13年9月11日1585年11月2日
改名 八幡丸(幼名)、戸次孫次郎→親守→親廉→鑑連→麟伯軒道雪(号)[1]
別名 通称:孫次郎、左衛門大夫、伯耆守、紀伊入道、丹後入道、摂津入道[注釈 1]
渾名:鬼道雪、雷神、九州の軍神[3]弓矢八幡摩利支天の化身[4][5]
神号 梅岳霊神[6]
戒名 福厳院殿前丹州太守梅岳道雪大居士
墓所 福岡県新宮町梅岳寺
福岡県柳川市福厳寺
官位 左衛門大夫紀伊守伯耆守丹後守
幕府 室町幕府筑後守護代筑前守護代
主君 大友義鑑宗麟義統
氏族 藤原北家秀郷流大友氏族(戸次氏立花氏
父母 父:戸次親家、母:由布惟常の女・正光院
継母:臼杵長景の女・養孝院
兄弟 姉(清田鑑綱正室)、一万田親泰[注釈 2]、姉(安東家忠正室)、某(早世)、戸次鑑連(道雪)、筑前立花氏庶流立花鑑高正室、片賀瀬戸次氏第三代当主戸次親方正室、利光鑑教正室、戸次親繁正室(臼杵鑑速養女)、戸次鑑方戸次親行(子に立花次郎兵衛統春)、戸次親行正室
正室入田親誠の娘・波津(白山院)[7]
継室:浦辺衆田原氏之女[異説][8]
継室問註所鑑豊[注釈 3]の娘・仁志(宝樹院)
側室宗像正氏の娘・色姫(竹龍院)
実女:立花琴枝(15歳で早世)、戸次政千代(12歳で早世、生母は不明)、立花誾千代立花宗茂正室)、
養子立花宗茂戸次鎮連立花道清安武方清
養女戸次親延の娘小野鎮幸)室、安武鎮則の娘・於吉米多比鎮久)室、高橋紹運の女・甲斐立花成家)室[2]由布惟明の娘大鳥居信岩室)
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大友義鑑大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している[10]

生涯 編集

少年期・家督相続 編集

永正10年(1513年)3月17日、大友家の一族である豊後国大野郡(大野荘)大野郷藤北(大分県豊後大野市大野町)の鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれる[11]。最近、生誕地は、県民の森四辻峠付近の柳ヶ台(大野町高野字城浦)と解明された[要出典]。幼名は八幡丸(はちまんまる)[11]。長兄は早世したため嫡男として育てられる。

幼くして母を失い、父も病床にあったために代わりに継母(父の後妻で臼杵鑑速の姉)によって育てられた。元服前の14歳の時、病弱な父に自ら志願し、補佐の老臣3人と共に2,000人の兵率いて出陣、これが初陣となる[11]。この時は大内領の豊前馬ヶ岳城(現在の福岡県行橋市)を攻め、八幡丸は金の指揮旗を振って奮戦し、兵力で3,000ほど勝る大内軍に勝利して凱旋した[11][12][13][14][15]。その直後の大永6年(1526年)、父・親家の死にともない、元服して戸次氏の家督を相続し、親守(ちかもり)、親廉(ちかかど)を名乗った。家督相続後は大友義鑑に仕え、のちにその偏諱を賜って鑑連に改名する。

その後、天文4年(1535年)8月22日、肥後菊池氏などの肥後国人の反乱の際には、肥後国に出陣して車返の戦いで勇猛奮戦し、乱を鎮圧した[16][17][18][19][20]。天文15年(1546年)の秋月文種の一度目の謀反の時には、義鑑の命を受け、佐伯惟教臼杵鑑速吉弘鑑理など大友諸将と共に筑前古処山城へ出陣、この乱も鎮圧した[21][22]

二階崩れの変 編集

天文19年(1550年)2月、義鑑が嫡男・義鎮を廃嫡にし、三男・塩市丸を後継者としようとしたことから、反発した義鎮派の家臣、田口蔵人介と津久見美作守が義鑑を襲撃するという二階崩れの変が発生、数日後に義鑑は変で受けた傷がもとになって死去する。この際、鑑連は義鎮を支持、彼の家督相続に力を尽くした。また、鑑連は二階崩れの変の直後に阿蘇氏を頼って肥後国に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討、さらに肥後において菊池義武を討伐し、隈本城を攻め落とした。

天文22年(1553年)、41歳となった鑑連は異母弟・鑑方の子・鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している[注釈 4][23]。しかし、天文23年(1554年)11月20日には相良氏へ護送中の菊池義武を豊後直入郡木原で自害させ[24][25][26][27]弘治2年(1556年)5月には小原鑑元、本庄新左衛門尉統綱、中村新兵衛長直(名は鎮信とも)、賀来紀伊守惟重らが起こした謀反(姓氏対立事件)に対してこれらを肥後、豊後で討伐するなど[28][29][30][31][32][33][34][35][36]、前線での活動から退いた形跡はない。

毛利家や筑前諸勢力との戦い 編集

以後も大友氏の重臣として活躍し、特に筑前や豊前の侵攻を企図する毛利氏との抗争に力を費やしている。弘治3年(1557年)7月7日~28日には毛利元就と通じた秋月文種を自害に追い込み[37][38][39][40][41]、続いて8月23日に筑紫惟門の五箇山城を攻めた[28][42][43][44][45][46][47]、同年に義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれると、旧大内領の確保にも努めたほか、永禄3年(1560年)8月16日~19日、筑前の宗像氏貞に対して許斐山城、白山城、蔦ヶ嶽城に数度の侵攻[48][49][50]永禄年間には豊前に出陣して、度々大里・柳ヶ浦・松山城や香春岳城 [51]、門司城などの地で毛利元就の軍勢と戦っている(門司城の戦い[52][53]。こうした功績から永禄4年(1561年)に義鎮の補佐役である加判衆と筑後国方分・守護代に任じられている[54]

永禄5年(1562年)、尼子義久の要請を受けた宗麟は再度豊前出兵を命じ、二老(戸次鑑連・吉弘鑑理)と7人の国衆を派遣した。7月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、原田親種[注釈 5]を追い出し、城将・千手宗元を降伏させた[55] 。13日、鑑連は門司城へ進軍し、第二次柳ヶ浦の戦いに鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の戦功を挙げ、その騎馬疾駆や縦横馳突の活躍ぶりを敵味方とも驚かせた[56][57][58][59] ものの、翌14日には毛利勢の小原隆言桑原龍秋ら漕渡の防戦により[60]、門司城を攻め落とすことはできず、撤退した。

さらに毛利軍の手に落ち天野隆重杉重良を守る松山城の奪還を目指し豊前刈田に着陣、9月1日上毛郡夜戦・13日や11月19日七度の松山城攻めにも鑑連・鑑理ら大友勢が攻撃を仕かけてきたが小競り合いに終始した[61]。 松山城を包囲する間に鑑連・鑑理ら大友軍は再び門司城下まで兵を進めた。10月13日大里における第三次柳ヶ浦の戦いでは鑑連の家臣安東常治[62]安東連善[63]らが奮戦し、門司城代・冷泉元豊赤川元徳桂元親三将を討ち取る大戦果を挙げた[64][61][65][66][67][68] が、翌11月26日に門司城下で終日行われた合戦では、数百人の負傷者・死者を出した。翌永禄6年(1563年)正月、毛利隆元小早川隆景の大軍が到着して、両軍にらみ合いとなった[69]。永禄5年、義鎮が剃髪したのにならって自身も剃髪し、麟伯軒道雪と号している[9][70][71]

同年、大友氏と毛利氏の全面戦争を憂慮した室町幕府第13代将軍・足利義輝は・久我通堅聖護院道増大館晴光を通じて道雪に対し毛利氏との休戦(豊芸和談)を求める御内書を下した[72][73][74]。道雪が大友宿老衆筆頭として足利幕府にも認知され、家中において軍事のみならず政治面でも大きな発言権を有していたことが窺われる[75][76][77]。この仲介により、永禄7年(1564年)7月25日毛利氏との休戦が成立したが[78]、この間の3月25日には由布惟明らの家臣を率いた道雪と毛利軍との間で第四次柳ヶ浦の戦いが起こっている[79]。一方、大友宗麟自ら筑後国攻略に出陣に従って、筑後下田城攻略なども参戦する[80]

永禄8年(1565年)4月27日~5月、吉弘鑑理とともに反乱する立花鑑載の立花山城を攻め[81]、家臣の高野大膳が一番鑓[82][32]、由布惟信が鑑載配下の弥須図書助を討ち取った[83][84][85]

永禄10年(1567年)1月、かつて道雪が討った秋月文種の子・秋月種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前国に入り、秋月氏再興の兵を起こした。この種実の動きに大友氏の重臣・高橋鑑種が6月に入って筑前宝満城、岩屋城に拠って呼応し、更に筑後国衆・筑紫広門も叛旗を翻した。こうした動きに対して7月7日、宗麟は道雪に命じて高橋氏、秋月氏討伐を開始することになる。道雪は出陣すると宝満城を攻略し(宝満城・九嶺の戦い)[61][86]臼杵鑑速は岩屋城を攻め落とし、また斎藤鎮実が筑紫広門を降伏させるなど有利に戦いを進めた[87][88][89]

8月に入って高橋氏の宝満城に抑えの兵を残し、秋月氏討伐を企図したものの、秋月勢の頑強な抵抗を受け、8月14日の甘水・長谷山の戦い(瓜生野の戦いとも)で家臣・十時惟忠の勇戦するに自ら陣頭に立って太刀を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦った[90][91]ほか、毛利軍が筑前国に上陸したとの風聞で、大友軍が筑後国に退陣して待機する際、9月3日の朝から4日未明に発生した休松の戦いでは、種実が先に道雪の陣を強襲したが、これを事前に察知していた道雪は、兵を吉光の地に伏せあらかじめ囮の旗を立てた空の陣に種実を誘き出して撃退した。

そして種実の夜襲を予見して、兵の鎧を脱がせず、馬の鞍もおろさず、鉄砲の火繩に火を付けて待った。間もなく種実は道雪の予見通り、再び大友軍の臼杵鑑速と吉弘鑑理を夜襲して同士討ちを発生させた、道雪は冷静にこれに対処し、臼杵・吉弘軍を収容し、由布惟信・小野鎮幸足立連安十時惟直らを先鋒として敵を駆逐する一方、内田鎮家が秋月軍の背後に出て襲撃し、自ら槍を提げて敵陣に突き込んで、古処山城下まで反撃した後、大友軍の撤退を指揮した。この戦で叔父・戸次親久・異母弟の鑑方や従兄弟の鑑比(鑑方と鑑比は同じ鑑堅の名があった)、従叔父・親繁親宗や譜代家臣の十時惟忠、由布惟清、綿貫吉廉と与力衆の小野鑑幸(小野鎮幸の父)、三池親高など数人を失った[92][93][61][94][95][96][97][98][99]

大友方の苦戦を目の当たりにした筑前国衆からは9月以降、原田隆種宗像氏貞などの離反者が相次ぐことになった[100]。特に筑前国の大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利元就の調略に応じて再び叛旗を翻したことで立花山城が毛利方の手に落ち、肥前国の龍造寺隆信も大友氏との対決姿勢を強め、筑前戦線は崩壊の危機に立たされた。道雪はこうした危機的な状況の中、立花山城を奪還することで戦局を好転させようとし、永禄11年(1568年)の4月24日から立花山城を包囲し、3ヶ月にわたる攻城戦の結果、7月4日に立花山崖下で激戦[61][101]、そして道雪が立花方の野田右衛門大夫を調略し、同日の夜に立花山城は陥落した[102]。立花鑑載は城を脱出して再起を図るがその行方を知られて23日に自害した[103][104][105][106][107]。その後、同日に高橋鑑種との宇美・河内の戦い[108][61][109][110]、8月2日の毛利軍の清水宗知、高橋家臣・衛藤尾張守、原田親種の連合軍との立花山城下での戦い[111]、8月5日に原田隆種、親種父子や原田親秀との第一次生松原の戦いなど[112]の結果、筑前国の反大友勢力を一掃する。8月19日、孤立を深めた秋月氏・宗像氏・城井氏・長野氏・千手氏・麻生氏は降伏している[113][114]

これにより筑前戦線は小康状態となって、11月25日、筑後赤司城に入った道雪は、大友軍のために忠死した問註所鑑豊の娘、仁志姫と結婚する[115]

永禄12年(1569年)1月、大友軍5万は龍造寺討伐に転進、吉弘鑑理や道雪は隆信の降伏を拒絶し、2月筑紫氏の五箇山城を包囲し、3月23日に神崎郡田手(蓼)村防戦の後[61]江上武種の勢福寺城を攻め落とし、4月6日に吉弘鑑理も多布施口の戦いで龍造寺軍を撃破したが、4月15日に隆信の要請により立花山城を奪還すべく吉川元春、小早川隆景率いる毛利勢が筑前に来襲したため、4月17日に道雪が肥後国の城親冬を使者として龍造寺隆信との議和を成立させ[116][117][118][119]、大友軍は5月5日に博多に集結し、翌日には道雪は田尻鑑種と共に多々良浜の戦いの前哨戦で、自ら槍を提げ敵を討ち取った。5月13日、両軍は多々良川辺の松原にて4回交戦して大友勢の苦戦は続くことになる[120]。 18日に発生した最大の合戦では道雪自ら陣頭に立って先に鉄砲800挺を2隊に分けられ、自分が発案した「早込」(「早合」ともいう。1発分の火薬を詰めた竹筒の束を鉄砲隊の肩にかけさせる工夫)を用いて二段射撃して後は槍隊を繰り出して突進、続いて自分が率いて騎馬隊は馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける「長尾懸かり」というかけ合い戦法で毛利方の主力である小早川勢を撃破したが[61][121][122][123][124]、その後21日・26日なども大小合わせて18回の合戦に及んだ。閏5月3日に立花山城の兵糧が尽きかけていたため、城にいる大友方の守将達は宗麟の同意を得て開城、毛利軍が占領すると両軍の戦線は膠着することになった[125][126]

こうした中、主君・宗麟は吉岡長増の献策を容れ、大内一族である大内輝弘を周防国に送り込んで大内氏再興を図らせた(大内輝弘の乱)。また山中幸盛が尼子氏再興の為、尼子勝久を奉じて隠岐国より出雲国へ侵攻したことにより、毛利氏は戦線を維持できなくなり、11月になって撤退し、10年以上に渡った毛利氏と大友氏の筑前争奪戦はようやく終わりを告げた[127][128][129][130]

11月15日、高橋鑑種の宝満山・九峯[131][132][133][134]、山隈城の秋月種実を攻略するなど悉く降伏させた[135][136]

元亀元年(1570年)、再び龍造寺隆信討伐のため、4月23日、佐賀城を包囲する間に巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した。この戦で記録上、初めて道雪は輿に乗って戦っている[137]今山の戦い後、佐賀城東面の姉・境原にて大友軍はまだ龍造寺軍と対峙しているが、9月下旬に道雪と吉弘鑑理、臼杵鑑速ら大友三老が田尻鑑種の仲介を通じて、龍造寺隆信との談合を実現した[138]

筑前守護代として北九州各地の転戦 編集

こうして道雪は大友方の主将として戦い抜いた功績により、元亀2年(1571年)、筑前国守護代に就任して、立花家の名跡を継承し、立花山城主となっている。なお、この時から道雪は筑前の軍権を握ることになり、加判衆を辞任している[139][140][141]

その後、岩屋・宝満城主の高橋紹運[142][133]など大友の筑前五城将(道雪、紹運と鷲ヶ嶽城主・大津留鎮正[注釈 6]大津留鎮忠[注釈 7]荒平城(安楽平城)主・小田部鎮元[注釈 8]柑子岳城主先後に臼杵鎮続木付鑑実)と共に筑前において数年間、秋月種実、筑紫広門、原田隆種原田鑑尚[注釈 9]龍造寺隆信宗像弾正[注釈 10]麻生元重[注釈 11]杉連並問註所鑑景など筑前、筑後、肥前諸勢力に対して数々の戦を繰り返した。その戦いの一覧は以下の通りである。

天正3年(1575年)、宗麟の命で戸次氏の家督を継いでいた甥・鎮連の子・統連に立花氏の家督を譲るように迫られたが、道雪は拒絶して重臣の薦野増時を養子に迎えようとした。しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪は娘の誾千代家督を譲り、立花山城主としている[61][273]。天正9年(1581年)、同じ大友氏の一族・家臣であり、道雪と同じく高橋氏の名跡を継いでいた高橋紹運の子・統虎婿養子に迎え、家督を譲っている[274][275][276][277][278]

大友家の大黒柱と最期 編集

天正6年(1578年)、大友宗麟は島津氏討伐を企図し始める。道雪はこの方針に反対していたが、宗麟は日向侵攻を強行した。この際、道雪は従軍していなかった[279]。この日向侵攻により発生した耳川の戦いで大友勢は大敗を喫し、宗麟の参謀役であった角隈石宗や重臣の吉弘鎮信斎藤鎮実、佐伯惟教、田北鎮周など多数の有力武将を失っている。この大敗を知った際、道雪は宗麟とその嫡子の大友義統、そしてこの合戦を指揮した重臣を痛烈に批判した[279]

以後、大友氏は島津氏に対して守勢に回ることになるが高橋紹運とともに島津氏と戦い続けることになった。天正7年(1579年)には宗像氏麻生氏原田氏の反乱を鎮圧した[28]。天正8年(1580年)2月16日には豊後南郡衆の裏切りを憂慮して9か条の檄文を出している[28][280][281][282][283]

天正8年(1580年)秋、龍造寺氏の筑前遠征が始まり、大友方の荒平城が攻め落とされる。道雪の居城、立花城攻めが計画される中、筑紫広門の仲介により道雪は龍造寺氏と和睦する。筑前15郡を二つに分け、東北6郡を大友領、西南9郡を龍造寺領と定めた(別資料では大友方城、立花岩屋宝満の城付を除いて、全て龍造寺領と定められたともある)。

天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで龍造寺が敗北すると、大友氏は失地回復の好機と見て3月、豊後国の大友軍は黒木家永筑後猫尾城を攻撃したが、城方の奮戦や龍造寺方の援軍・土肥家実(土肥出雲守)を前に戦線は膠着した。8月18日、道雪と紹運は大友義統の出兵要請を受け、両家合わせておよそ5,000の兵で出陣し、山険難所を越え[注釈 12]、鉄砲隊で埋伏していた秋月、筑紫、草野、星野連合軍を蹴散らし(田主丸町・片瀬、恵利渡口・石垣表の戦い)、ただ1日で筑前から筑後まで15里(約60キロ)の行程を走って、8月19日夕方、猫尾城の支城・高牟礼城下に到着した。20日に道雪はさっそく城将・椿原氏部を調略し、24日に高牟礼城は開城降服して、土肥家実も城から佐賀へ戻った[285][286]。つづいて犬尾城の川崎重高(河崎鎮堯)も降り、25日には川崎の大籠山に陣替えしたが、筑後高良山座主・丹波良寛や大祝保真、宗崎孝直、甘木家長、稲員安守らも大友軍に加わった[287][288][286][289]

28日[注釈 13]には道雪一族の立花鎮実(戸次右衛門大夫)[注釈 14]を将として800の別働隊を率いて坂東寺に入り城島城を攻めた。

立花勢は鎮実以下、竹迫鑑種(竹迫日向守)と安倍親常(安倍六弥太)[注釈 15]が勇戦して数人を討ち取って城の外郭を壊したが、城主西牟田氏の率いる300城兵の激しい抵抗に遭って100余りの死傷者を出した[注釈 16]。道雪と紹運の本隊は酒見・榎津・小保などの集落を焼き払って、折地、古島、水田を経て柳川の城下町に至った。城主の龍造寺家晴が籠城に徹したことで[290]、両将は城下町を焼いた後、軍勢を転じて高良山にいた大友諸将と軍議をひらいて猫尾城の総攻撃を決めて、9月1日(一説には5日)[291]に落城させて黒木家永は自害した[285][292][293][294]

9月8日から11日まで、蒲池鎮運の山下城や谷川城、辺春城、兼松城、山崎城など筑後諸城を降伏・攻落した。この間の9日に柳川城周辺に小競合いがあり[295]、10日に上瀬高・下瀬高・鷹尾村を焼き払った。そしてもう一度坂東寺に陣を取り、豊後大友軍の総大将・田原親家と軍議して三潴郡の西牟田村・酒見村・榎津近辺数百の民家を焼き払い、山門郡内の龍造寺方の諸城を攻めて城主・田尻鑑種が不在であった鷹尾城も占領した。 次に筑後最大の処点・柳川城の攻略を始めようとしたが、この城は九州有数の難攻の水城であり、その支城、百武賢兼の妻・圓久尼が鎮守する蒲船津・百武城も同じ水路が入りくみ沼地が自然の要害となっていた難攻の城で、攻略の進展ができなかった。そのため、10月3日には筑後高良山座主・丹波良寛の勧めもあって、高良山に引揚げ、10月4日、両軍は草野鎮永[注釈 17]の竹井城を進攻しこの城を焼却した。28日、発心岳城に逃げ込んだ草野を追撃したが、天険を利用して築いたこの城は容易く落ちることができないので、兵を転じて星野吉実の鷹取城・星野城(山ノ中城)・福丸城、そして11月14日に問註所康純の井上城を攻めて牽制する[296]、さらに秋月領の甘木、甘水辺りまで焼き討ちした後、もう一度三潴郡の諸城を掃討した。その際、田原親家と秋月軍との戦いは敗れたので、道雪と紹運は高良山に戻って朽網鑑康志賀親守らと合流し、高良山を中心に筑後川に沿った柳坂から北野に布陣したまま、年の越えを迎える[297][298]。12月8日(一説には10月28日)には草野鎮永偽降の謀で、善導寺の戦いに数人の重臣を失った[299][300][301][302]

天正13年(1585年)2月上旬から4月23日まで龍造寺政家・龍造寺家晴・鍋島直茂・江上家種後藤家信・筑紫広門・波多親・草野鎮永・星野吉実・秋月種実・問註所鑑景城井鎮房長野種信、千手氏など肥前、筑前、筑後、豊前連合軍およそ30,000余の大軍と小森野[303][304]、十三部[305]、千本杉、祇園原など(総じて筒川合戦や久留米合戦)[306][307] で数々の激戦があったが、道雪と紹運、鑑康、良寬ら大友軍は9,800の劣勢ながら、いずれも見事で兵法、戦術や兵器、陣形を活用してしばしば局地戦で敵大軍を撃破し、討ち取った雑兵数百及び兜首計約四百七十の戦果を挙げたが、龍造寺側に決定的な打撃を与えることができなかった[308][309][310]

6月、柳川城攻めの最中に道雪は高良山の陣中にて病を得た[311][312]。高良大社(現在の福岡県久留米市)で病気平癒の祈願が行なわれ、行動を共にしていた高橋紹運も必死に看病した[311]。しかし道雪は9月11日に病死した[313][314][279][315][316][317][318]。享年73[315]辞世は「異方ことかたに、心引くなよ、豊国とよくにの、かね弓末ゆずえに、世はなりぬとも」。

10月28日に大友義統が道雪の妻に与えた書状は、道雪を悼むとともに、生前の忠節を顕彰し、かつその後室を慰めたものである。道雪の留守を預かってその後方支援を続けた永年の苦労をねぎらったものとして意義深いといえる[319]

墓所、死後 編集

墓所は福岡県新宮町梅岳寺と福岡県柳川市福厳寺

天明3年(1783年)3月18日には道雪に梅岳霊神の神号が贈神された[6]

また柳川城の北東(鬼門)に鎮座する三柱神社に、養子の立花宗茂と娘の立花誾千代と共に祭神として祀られている。武神軍神、水利・干拓・開田・郷土繁栄・開拓・先導の守護神として、近年では功績をもって必勝・就職・再就職・復活の社として崇敬されている[320]

人物像 編集

  • 道雪の法号の由来は「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。武士も一度主君を得たならば、死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、武士の本懐である」というものである[1][9]。このため現在、道雪は「義」に篤い武人として評価されている。
  • 「頴敏驍勇類を絶し、士を育み民を恵み、その恩恵は細かな所まで行き届く。」、「真の仁義の勇士とは、鑑連(道雪)の様な者の事をいうのだろう真に武士の手本とすべき者である」[321]
  • 「剛毅にして気節あり、智勇衆に超ゆ。其兵を督し民を撫するに恩威並び至り、人之が用を為すことを楽めり」と述べている[322]
  • 龍造寺隆信からも「武を好み、文を親しむ当代きっての良将であった」(原文は、其気飽くまで広大に、武を好み文を嗜み、実に当代の良将なり)と評価されたと『龍造寺記』にはある[323]
  • 佐賀藩からの記録も「此入道(道雪)は文といふ武といふ、廉直賢才の大将にて、大友宗麟が家を立てしも、此道雪が世に秀てたる故とそ聞えし、公(鍋島直茂)も道雪が死しけると聞召し、御落涙なされて御惜みあり」(『三徳譜』)とある[323]
  • 「豊府の諸臣、英雄済々たり。其の中、戸次道雪の如きは智勇節義かね備われり。宗麟の猶威名を失わざるものは、道雪の力なり。吉岡長増、臼杵鑑速、吉弘鑑理、高橋紹運、斉藤鎮実幕下に、肥後の相良義陽、甲斐宗運、まことによく撫育し専ら心を治道にすすがば、天下というも治むるに足りなん、況や九州二島おや」とある(江戸時代の思想家、自然哲学者・三浦梅園[323]
  • 絵が得意そうで、道雪が自ら画く菅原道真の画像を、家臣の小野成幸に贈ったものが現存している[注釈 18]
  • また、花を植える趣味がある。筑後在陣中の道雪が薦野増時に宛てた手紙で、「秘蔵のお花の種を渡しとくから花壇に植えといてね。去年は植え過ぎたから気を付けて」[注釈 19]という内容があった。
  • 天正12年(1584年)、家臣の薦野増時に宛てた書状で「高野山清泰院」という聖の処遇について意見を述べており、こうした遍歴する人々の語る情報がいかに危ういかを見抜いていた。確かな情報はなかなか得られないが、怪しげな情報は決して信じてはならない。これが乱世を生き抜く術だと書き遺したのである[325][注釈 20]
  • 『宗像記追考』 [327]によると、大友宗麟の乱行には手厳しい占部貞保(宗仙)が道雪のことは「大友家無二の忠臣、武勇に於いて並び無き大将である」と評している。しばしば合戦があったのは鑑載の時で、道雪が立花に在城した後には宗像殿と一度も合戦がなかったとし、道雪を「御縁者」と言っている。立花家中ではお色姫は人質であるとささやかれ、これを宗像家中の人々は口惜しがったというが、実際は人質などでなく松尾の丸に居られた為に松尾殿と呼ばれてかしづき奉られた。又、道雪とも仲が良かったので、先立った時には道雪が大層嘆いたなどと述べている(お色姫は天正12年(1584年)3月24日に39歳で没したが、この日は山田事件の当日で、自殺したとの説もある)。道雪はお色姫の輿に付き添った石松加賀守秀兼に、中国で見聞きした毛利元就の軍法や合戦を語らせた。佐須の合戦の次第を逐一申し上げ、元就は少しばかりの心遣いをした事に対して秀兼を御前に召され「賞は時を越えず」と仰せになって鬨(とき)の刀を下された話の段になると、「誠に毛利殿は並び無き名将」と賞し、「それは軍中の賞だが、これは今日の祝儀に刀を参らせよう」と言って道雪自ら刀を授けて下さった。貞保(宗仙)はこの一連の話をあげ、立花の人々がお色姫の輿入れは人質の為で儀式の輿入れもなかったとしているのは嘘であると反論している。

武略 編集

道雪の武勇は誉れ高く、その噂を聞いた甲斐国武田信玄が対面したいと希望したという逸話もある。「鎮西に戸次道雪という者がいて、戦に秀れているということを噂に聞くが、一度戦ってみたいが互いに遠く相離れているため、残念ながらその戦技を競うことができない」(旧柳川藩儒者・笠間益三)、「道雪樣へ武田信玄より名譽の御働を聞及ばれ御対面あり度しとの書状之あり、之は遍参僧持参なり」(『浅川聞書』)[328][323]。また、信玄の枕屏風に道雪と家臣の由布惟信らと共に諸国勇士の名が記されてあった。

永禄元年(1558年)、第一次門司城の戦い小早川隆景率いる毛利軍と戦った際、道雪は将兵の中から弓が得意な兵を800人選抜した。そして毛利軍との戦いの際、毛利兵に雨霰と矢を射込ませたが、この際に矢に「参らせ戸次伯耆守」と朱記させていた。これを目にした毛利兵は次第に恐怖感、焦燥感を募らせ、毛利軍は撤退に追い込まれたという[329][330]

道雪は孫子兵法の「奇正相生」を引用して[331]、家臣の由布惟信と小野鎮幸を招いて曰く。「軍勢を用いるには、先ず戦法を定め、勇武の勢と共に奇・正の変化をさせるがよい。お前達両名が替わる替わる奇・正の将となって自分を補佐せよ。凡そ戦というものは正法を以って引き分けとし、奇法を以って勝ちとする。それで、正法を行う者は江河のように渇れることがなく、奇法をよく行う者は天地にように無窮である。故に、奇・正両法を用いる者は戦って勝たないという事が無い。それで、今日から両名には正・奇の戦法を取って貰いたい。今日惟信が正軍の将であるなら、鎮幸が奇軍の将となり、明日はそれを替えるという様にせよ。副将には、薦野増時、米多比鎮久をそれぞれ当てよう。両将が互いに兵士の勇を励んで勝劣差異を無くすようになれば、軍を出すたびに勝利を取ること疾風迅雷の如くなり」と、立花家の戦は常に奇襲と正攻法を連携して、九州において常勝不敗と伝わっている[83][332]。こうして毛利軍との戦いで勝利を重ねた道雪は、毛利家の興亡を焦点にしている軍記物である『陰徳太平記』で「道雪は大友家に肩を比ぶる者なきのみか、隣国にも亦類少き士大将にて、智謀尭捷兼達し、堅を砕き、利を破り、奇正応変に過ちなく」と賞賛されている。現代語にするなら「道雪はいかなる状況でも的確な判断を行ない、臨機応変に対処できる、戦国屈指の名将だ」と褒め称えているのである[333][334]。そして、戦歴は大戦37回、小戦百余回、その中に軍事総指揮は主君・大友宗麟であった状況を除いて、自ら総大将となった戦いはほぼ無敗の戦績であり、軍神として誉めたたえられた[335]

宗麟への諫言 編集

大友宗麟が凶暴な猿を手元に置き、これが家臣に飛び掛るのが面白くて何度もけしかけた事があった。毎日のように迷惑を掛けられた家臣は辟易し、大変困り果てた。これを聞いた道雪は、他の家臣と同じように宗麟の前へ出向いた。案の定、宗麟が猿をけしかけてきたので、道雪はこれを鉄扇で叩き殺してしまった。驚く宗麟に「人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う」と諫言したので、宗麟は大変反省した[336]

現在の大分市鶴崎に無形民俗文化財鶴崎踊りがあるが、この踊りの起源は道雪である。宗麟が出家をする前の義鎮と呼ばれた若い頃、酒と女に溺れて国政を顧みず、忠勤の者を賞さずに罪ある者を罰そうとさえしなかった。道雪は危機感を持ち、宗麟に拝謁を申し出たが、宗麟は道雪が諫言しに来たと悟って会おうとしなかった。そこで道雪は京都から美人の踊り子を呼んで昼も夜も構わずに自分の屋敷で躍らせた。女好きの宗麟は堅物の道雪の行為に驚きながらも興味を持ち、自ら道雪の屋敷にやってきた。そこで道雪はようやく宗麟に拝謁する事ができ、「たとえ折檻を受けても、主人の過ちを正すのが臣たる者の勤めである。我が身を恐れて自分さえよければ、他人はどうでもよいというのは卑怯である。自分の命は露ほども惜しくは無い。それより主人が世間の外聞を失う事が無念である」と述べて諫言した(『立花道雪覚書』)。宗麟はこの道雪の諫言を聞き入れて襟を正し、以後も宗麟の行状に問題があれば道雪が諫言して改める事が続いた[337][338]。ちなみに鶴崎踊りはこの時の踊りが大分に残ったものである[339][334]

斬雷の闘将 編集

大友興廃記』によると、道雪は若い頃(35歳)に半身不随になったとされる。時期に関してはおよそ天文17年(1548年)6月5日[注釈 21]、道雪が故郷の藤北で炎天下の日、大木の下で涼んで昼寝をしていたが、その時に急な夕立で雷が落ちかかった[340]。枕元に立てかけていた千鳥の太刀を抜き合わせ、雷を斬って涼んでいたところを飛び退いた。これより以降、道雪の左足は不具になったが、勇力に勝っていたので、常の者・達者な人より優れていた。千鳥の太刀には、雷に当たった印があったため、これより雷切と号するようになった、とある[341][342][343][344][345][346]

しかし、一級史料の『戸次道雪譲状』によると、永禄5年(1562年)10月13日の対毛利軍の柳浦の戦いに、毛利方三人の大将(冷泉元豊赤川元徳(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫))を自ら討ち取った、『戸次軍談』や『九州諸将軍記』などの軍記物によると、永禄10年(1567年)8月14日に秋月氏との甘水・長谷山合戦(瓜生野の戦いとも)と休松の戦いでは「自ら太刀[347]を振るい、よき武者7人を斬り倒し、騎馬で敵陣に乗り込んで戦って、敵から「鬼道雪」[348]と呼ばれる。」という記録もあり、『浅川聞書』によると永禄11年(1568年)7月4日、立花鑑載討伐で立花山崖下の戦いにも自分で槍[349]を取って家臣と共に奮戦した、『筑前国続風土記』にも永禄12年(1569年)5月18日の多々良浜の戦いに自分で馬を乗出し敵の中へ縦横に突て廻りける、この年代の資料にも輿に乗っていたという記述は無く、「若い頃に落雷によって下半身不随になった」というのが創作なのか、文献に誇張や創作があるのかなど真偽はわかっていない。

晩年の道雪は、家臣に手輿を担がせて自らは輿に座り、2尺7寸(約82センチ)ばかりの刀(雷切とは別の刀・備前清光という刀であった)と鉄砲1挺、それに腕貫をつけた長さ3尺(約1メートル)の手棒を常に側に置いた[350]。手輿の周りには長い刀[351]を持った100人ばかりの定衆と名付けた若者が、徒歩で固めていた[352]。戦いが始まると、その若者に輿を担がせ、敵が間近になると手棒で手輿の縁を叩いて自ら「えいとう、えいとう」と大声で音頭をとり、敵陣に突っ込ませた[353][354]元亀元年(1570年今山の戦いに従軍し、佐賀城を包囲する4月23日に局地戦の巨勢・若宮の戦いで龍造寺隆信、鍋島直茂と交戦した際、戦いで初めて輿に乗った記述がある[355]。また、戸次、立花家相関の史料や『筑前国続風土記』によると、天正7年(1579年)8月14日に、筑前大友方木付鑑実の柑子岳城を兵糧救援の帰路の際、原田氏との第三次生松原の戦いには、道雪は正式的に輿に乗って、後方で督戦した。この時はおよそ66歳の老齢であった。そして天正12年(1584年)8月18日に筑後遠征の際、輿に乗ったまま行軍していた記述がある。

家臣への対応 編集

常山紀談』では道雪の言葉として「武士に弱い者はいない。もし弱い者がいれば、その人が悪いのではなく、大将が励まさない罪による。我が配下の武士は言うに及ばず。下部に至っても武功の無い者はいない。他の家にあって後れをとる武士があらば、我が方に来て仕えるがよい。見違えるような優れ者にしてやろう」とある[315][356][357]

武功の無い武士がいると「運不運が武功にはあるもの。そなたが弱い者でない事は、我が見定めている。明日の戦いに出る際、そそのかされて抜け駆けなどして討死してはならぬ。それは不忠というものぞ。身を全うしてこの道雪の行く末を見よ。お前たちを打ち連れているからこそ、かくのように年老いても敵の真ん中に出られ、怯んだ様子も見せないのだ」と言ってその武士と酒を酌み交わし、ある時は武具を与えたりもした[353]。このように配慮を欠かさないから、道雪の配下は次の戦いでは他に遅れまいとして勇み、その武者振りがいいと「あの者を見よ。この道雪の睨んだ目に狂いは無かった」と周囲にもわかるように賞賛・激励した。このため士卒は道雪のために命を惜しまずに働いた[358][356]。ある合戦で道雪の軍は苦戦した、そのため「我を敵の中に担ぎ入れよ。命が欲しければ、その後で逃げよ」と道雪が下知した。しかし、家臣たちは日ごろの道雪への感謝から、そのようなことをせずに奮起し、敵に対して何度も槍を交えて、遂に追い返したという[358][353][357]

客を招いての酒の席で部下が粗相をした際、「今、私の部下が失礼をしたがこの者は戦場では何人分もの働きをする。特に槍の扱いなどは当家一であろう」と客に話し部下に恥をかかせなかった。他にもある家臣が道雪の侍女に密通して問題になったが、肝心の道雪は「若いのだから当たり前だ。色恋に迷ったからと言って誅殺するには及ばぬ。人の上に立って、君と仰がれる者が、ちょっとしたことで人を殺せば、人は君に背くもととなる。国の大法を犯したのとは違う」と述べて笑った。この言葉を聞いた家臣は、後に道雪を守りながら戦死したと伝わる[359][360]

重臣であった薦野増時は恩賞として道雪の隣に墓所を置き、死後も道雪の傍にあることを望んで許されていた。関ヶ原の戦いの戦後処理として立花氏の改易に伴い、黒田家臣となった増時ではあったが、この許しを得ていたことを生涯忘れず、死後に道雪と同じく梅岳寺に葬られた。

軍律に関しては非常に厳しく、晩年の筑後遠征の際、筑前川原崎で龍造寺氏と対陣中に越年することになった時、一部の家臣が無断で陣地を離れて我が家へ戻った事を知った道雪は、直ちに追っ手を差し向け、その時追っ手に家へ帰った家臣のみならず、その親をも殺すよう命じた。家老たちが親までも殺すことはないだろうと諫めても「大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ」と言って取り合わなかったという[361][362]

家臣団 編集

太字」、「」の入っている人物は道雪(鑑連)から偏諱を賜った人物である。

立花家四十八鷹
道雪は車返の戦いに、白鷹が軍旗の上に集まれて勝機を導くということで[365][366]、それ以来、家中精鋭の家侍48人を一隊に組む。年老・病死や戦死なのでメンバーは不特定[367]

関連作品 編集

  • 西津弘美『炎の軍扇 立花道雪』(叢文社、1994年、のち学陽書房人物文庫『立花道雪-炎の軍扇』改題2009年)
  • 滝口康彦『乱離の風 若き日の立花宗茂』(文藝春秋、1981年、のち文春文庫1986年、のち学陽書房人物文庫『立花宗茂と立花道雪』改題2008年)
  • 海音寺潮五郎「武将列伝 江戸編」 立花一族
  • 赤神諒『大友二階崩れ』(日本経済新聞出版社、2018年2月21日)ISBN 978-4532171469
  • 赤神諒『大友の聖将』(角川春樹事務所、2018年7月14日)ISBN 978-4758413268
  • 赤神諒『大友落月記』(日本経済新聞出版社、2018年9月11日)ISBN 978-4532171476(『大友二階崩れ』の続編)
  • 赤神諒『戦神』(角川春樹事務所、2019年4月16日)ISBN 978-4758413350

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 死の直前、道雪は「摂津入道」を称している[2]
  2. ^ 『北九州市史』によると、高橋鑑種の母は道雪の姉、すなわち鑑種の父・一万田親泰室。
  3. ^ 統景の祖父
  4. ^ 一説には天文19年(1550年)3月で千寿丸(鎮連)に家督を譲った。戦国大名城下町の移転と大名権利-豊後大友氏を事例として-
  5. ^ 豊前原田氏・香春社の大宮司職原田五郎義種一族の出身、筑前高祖山の原田親種とは別人。
  6. ^ 名は大鶴九郎、上総介、式部少輔鎮俊、相模守鎮正、小田部上総入道宗雲、浄慶とも。小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の子、大津留(大鶴)左馬頭長清の跡を継ぐ。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537~538
  7. ^ 名は大鶴弥助鑑尚、式部少輔鎮忠、弾正入道宗秋、山城入道宗周、安芸入道、右京入道宗秀とも。大津留鎮正の三男。父から鷲ヶ嶽城の城主職を継承する。父子とも式部少輔と称したことがあり、活躍年代も重なるのでよく同一人物と記されている。『宗像記追考』鷲嶽城 大鶴氏 P.537
  8. ^ 名は大鶴九郎俊之、民部少輔鑑湖、長門守鎮通、鎮道、鎮元、道魁、紹叱とも。大津留鎮正の次男。祖父・小田部民部少輔鎮経(松浦隼人佐鎮隆)の跡を継ぐ。『宗像記追考』荒平城 小田部氏 P.538~540
  9. ^ 元の名は大津留(大鶴)弾正鑑尚。実は大津留式部鎮忠の伯父。甥と同じ「鑑尚」と「弾正」の名を使用していたのでよく混同されている。大友氏から原田氏に寝返ると推測される。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  10. ^ 宗像氏貞の受領名や官位からみると「弾正」を使用することはなかったと確認された。一族の他人もしくは宗像賜姓を受ける家臣と推測される。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85『筑後将士軍談』では許斐の城主・宗像弾正忠と記述された。
  11. ^ 麻生民部丞。大友家の命令に従って宗像郡津屋崎(上松)城主となったが、のち秋月家に寝返った。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.85
  12. ^ 勇ましい強行軍の態勢で敵領地の筑後川耳納連山の高峰、九十九折そして道路が未整備の鷹取山などを越えた[284]
  13. ^ 「天正十一年」(矢野 1972b, pp. 405–406)説、「天正十三年乙酉正月」(馬渡 1995, p. 718)説、「天正十二年九月」説(犬塚 1992b, pp. 342–343)がある。
  14. ^ 道雪の親族に右衛門大夫と名乗ったのは、戸次(立花)右衛門大夫鎮実但馬了均のみとされる。のち立花宗茂が筑後柳川大名になった際、今古賀城主を務める人物で、関ヶ原の戦いの際に鍋島直茂の柳川侵攻(江上・八院の戦い)で防戦して、次男の親雄とともに戦死した(「慶長5年於筑後国八院戦死」とある)『柳川歴史資料集成第二集 柳河藩享保八年藩士系図・下』。尚、この「八院合戦」戦死説でも右衛門太夫の戦死場所は八院ではなく、城島付近となっている。
  15. ^ 薦野増時の名代。『柳川藩叢書』・第一集によると、天正12年(1584年)8月28日、筑後城島の戦いで戦死した。なお、のち11月下旬の三潴郡掃討戦の西牟田城で戦死した説が有力。『柳川市史』史料編V近世文書(前編)39 薦野文書 一八 戸次道雪書状 (前略) 一、安部六弥太前廿八動之砌、於西牟田表分捕候、前日於石垣表も分捕仕候、両度之儀無比類候、参陣以来両家討補頸二百餘にて候、大利之段満足候、(後略) 九月三日 道雪花押 増時 P.230。『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.139~140
  16. ^ 立花(戸次)右衛門太夫が城島城の攻防戦で戦死したとする文献は『北肥戦誌(九州治乱記)』『鍋島直茂公譜』『歴代鎮西志: 鍋島家文庫蔵』『筑後国史・筑後将士軍談』などがあるが、戸次右衛門大夫『井樓纂聞 梅岳公遺事』 によるとこういう記述は明らかな誤記と指摘された。
  17. ^ 筑後草野氏・草野鑑員の子、名は家清とも。肥前の草野鎮永とは別々の人物。
  18. ^ その画像の写真は『柳川藩叢書』・第一集に掲載
  19. ^ 尚々、件之たねの事、すいふんとをほしめし候するをたのミ申候、おかしく候、先剋原左差遣候砌、礑致失念候間、態用飛脚候、今程花たん時分之由、人々申候間、去年之所江植置候て、詠申度候、隨分御秘蔵之種を五所ニ植候ほと可給候、頼申候、去年之ハ多過申候、為御心得候、恐々不淺、 二月廿八日 、増時 申玉へ 麟白軒道雪[324]
  20. ^ 尚々、十泉返書御内見候而、首尾可然様可被仰遣候矣、高野山清泰院与申聖、爰元へ罷越度之由候て、十時和泉守(惟長)所迄之一通令披見候、此七八ヶ年以前麓邊観進仕廻候由申候、我等者八幡候、致参會たる事無之候、彼一通之趣者我等をも知人之様書載候、おかしく候、如御存知我等者生得後生之儀者毛頭不存候、さ候間、高野聖なと知音之儀隙明候、哀爰元へ罷越候へかし、海ニさか付いたし候する物おと申居候、おかしく候、京都之儀、中國邊山東之事共、定而可有物語候へとも、頃赤馬へ逗留之由候間、能々稽古候而爰元にてもぬかされ候する間、為一真ハ有もしく候、所詮不入立か一之手にて候、万御心得候而可被仰遣候、十泉返事差遣候、是にも御静謐砌、下向之時預尋候へと計書載候、為御存知候、又吉河切紙致披見、則返進申候、宗歷被寄陣候儀者必定ニて候、後衆茂歴々着陣之由候、一動日限方角之儀未相聞候、色々面白調多々有之由候条、頓速之吉事茂可出来候哉、難計候、必二三日中重々直左右可有之候条、何様可申入候、恐々謹言、 五月十六日 、増時 御返申給へ 麟白軒道雪。[326]
  21. ^ 『柳川史話』によると、天文6年(1537年)6月5日、27歳の時と記述される。
  22. ^ 豊後戸次家時代には安東家忠、十時惟忠(十時右近太夫)、由布惟明(由布大炊介)、高野大膳で「戸次四天王」と称された。

出典 編集

  1. ^ a b 『立花遺香』 P.18~19
  2. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 81.
  3. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.72~73
  4. ^ a b c 「大友興廃記」巻第十七 宗像合戦之事
  5. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.89
  6. ^ a b 『旧柳川藩志』中卷 第十五章 寺社 第四節 三橋村 第一県社 高畑の三柱神社 469頁
  7. ^ 『旧柳川藩志』第三章 藩治 第六 柳河の立花家略系130頁
  8. ^ 『宗像郡誌.中編 宗像記追考』P.609
  9. ^ a b c 楠戸 2009, p. 163.
  10. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.65~66
  11. ^ a b c d 楠戸 2009, p. 160.
  12. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一)豊前馬ヶ嶽 大永六年三月二十日 P.1
  13. ^ 戸次鑑連初陣働
  14. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第七 戸次鑑連初陣之事 P.190
  15. ^ 『評註名将言行録』P.215~216
  16. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.23~24
  17. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(二)肥後車返(車帰) 天文四年秋月日未詳 P.2
  18. ^ 中野、穴井 2012, pp. 7.
  19. ^ 車帰し軍之事「青年武将 戸次鑑連の激」
  20. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 車返軍之事 P.198
  21. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 四 戸次鑑連書状 於今度古所山最前攻登、小者一人被疵候、粉骨之次第感悦候、必以時分可顕志候、恐々謹言、七月十九日 安東舍人允(連善)殿 P.642。
  22. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度古所山最前攻登、小者一人被疵候、粉骨之次第感悅候、必以時分可顕志候、恐々謹言、七月十九日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  23. ^ 中野、穴井 2012, pp. 9–10.
  24. ^ 中野、穴井 2012, pp. 10–12.
  25. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (8) 戸次鑑連(道雪)感状写 於今度木原碎手、被遂分捕候事、忠貞無比類、必追而可感之候、恐々謹言、十一月廿日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  26. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二一 御書写 (26)戸次鑑連感状写 今度於木原碎手、被深手候事、忠旨無比類候、必々追而可感候、恐々謹言、十一月廿日 安東助八郎(連忠)殿 P.17。
  27. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)21小野文書 四九 戸次鑑連感状写 於今度木原被碎手被深手候御忠儀無比類候、銘々達上聞候条、定而直可被成(平出)御感候、為鑑連茂忘脚不可有之候、心緒必追而可申述候、恐々謹言、十一月廿日、小野大蔵少輔殿 信幸 89頁
  28. ^ a b c d 阿部・西村, p. 492.
  29. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.25
  30. ^ 中野、穴井 2012, pp. 12–13.
  31. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(五)豊後海邊(海部郡) 弘治二年六月三日 P.3
  32. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十四節 柳川人物小伝(四)高野大膳 P.900頁
  33. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 三 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被疵被遂分捕候、高名無比類候、当時闕所依然々、不顕志候、口惜候、先夫丸壱人相加進候、恐々謹言、五月十九日 高野玄蕃允(大膳亮)殿 P.314頁
  34. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 八 戸次鑑連感状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之刻、最前切入被遂分捕候、粉骨之次第、高名無比類、為無足辛労之段、曾而無忘卻候、必闕所次第一所可申談候、其間之儀、月充申付候由、存知候、恐々謹言、五月廿八日 高野九郎兵衛大尉 P.314頁
  35. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書 (5) 戸次鑑連(道雪)知行預ヶ状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之砌、最前切入、遂分捕被疵候、粉骨感悅候、近年度々被致分捕、殊数ヶ所被疵候事、忠貞無比類候、當時闕地等依無差儀、然々不顕志由、口惜候、先以緒方庄之内小迴四貫分之事預進之候、可有知行候、恐々謹言、弘治弐年辰丙九月四日 由布源五左衛門尉殿 雪下事 339頁
  36. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1 安東家史料 二二 御書之写 (3)戸次鑑連知行預状写 今度小原本庄以下之衆御成敗之砌、最前切入被疵候粉骨、感悦候、近年度々於所々在々先立被尽辛労、数ヶ所被疵候事、忠貞無比類候、當時闕地等依無差儀然々不顕志候、先以宇目村下河内之内三貫分之事預進候、可有知行候、恐々謹言 弘治二年丙申九月四日 安東助八郎(連忠)殿 P.19。
  37. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 秋月文種自害附種実没落之事 P.207~208
  38. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (40) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度秋月文種於宅所最前切入、剩被疵粉骨之次第、高名無比類、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日、 後藤市彌太(種長)殿 P.564。
  39. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 三 戸次鑑連書状 今度秋月文種於宅所最前切入、剩被疵候、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日 安東助八郎(連忠)殿 P.642。
  40. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 八 戸次鑑連感状写 今度秋月文種於宅所、最前切入、剩被疵候、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月七日 安東又次郎(連之)殿 P.299頁
  41. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (4) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度秋月文種於宅所最前切入、剩数ヶ所被深手、粉骨之次第高名無比類候、必以時分可賀之候、恐々謹言、七月十一日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  42. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.25~26
  43. ^ 中野、穴井 2012, pp. 13–14.
  44. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(六)筑前古所山 弘治三年七月八日 P.3~4
  45. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)131 藩史稿本類・士民ノ事績 (41) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度於筑紫宅所被勵粉骨、殊被疵之忠貞之次第、感悦無極候、必以時分可顕志之、恐々謹言、八月廿三日、後藤市彌太(種長)殿 564頁
  46. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118 由布文書 (6) 戸次鑑連(道雪)感状写 今度於筑紫宅所、別而被勵粉骨、数ヶ所被疵候、忠貞之次第、感悅無極候、必以時分可顕志候、恐々謹言、八月二十三日、由布源五左衛門尉殿 雪下事 338頁
  47. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)70 東京太田文書 六 戸次鑑連感状 今度於筑紫宅所、別而被勵粉骨、数ヶ所被疵候、忠貞之次第、感悦無極候、必以時分可顕志候、恐々謹言、八月廿三日、安東舍人允(連善)殿 P.643。
  48. ^ 吉永正春『筑前戦国史 p.169~170
  49. ^ 許斐山城の戦い
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  51. ^ 香春岳城争奪
  52. ^ 中野、穴井 2012, pp. 15–16.
  53. ^ 『陰徳太平記』
  54. ^ 中野、穴井 2012, pp. 16.
  55. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第八 豊前国所々合戦之事 P.209~210
  56. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)118由布文書(10)戸次鑑連感状写 永祿五年七月十三日於大里津柳浦合戦之刻、被碎手候之趣誠驚目候、剩被疵候忠儀無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、七月廿四日 由布源五兵衛尉殿雪下(惟信)339頁
  57. ^ 『福岡県史資料. 第9輯』[1]
  58. ^ 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 862頁
  59. ^ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・253頁
  60. ^ 萩藩閥閲録』卷六十一 桑原文書 小原隆言書状 去十四日至門司表敵相動候處、頓被漕渡及防戦、依御馳走敵引退由候、御心懸之次第無申計候、則市川(経好)殿え注進申候、御座所えも令言上、定而直可被仰出候、先以御辛労之通令申候、無案内之故無音申候、永々御滞留候条自然相応之儀蒙仰、不可有疎略候、恐々謹言 永祿五年七月十七日 小原隆言 在判
  61. ^ a b c d e f g h i 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61立花文書『戸次道雪譲状』358頁
  62. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 七 戸次鑑連感状写 前十三於大里津柳浦合戦之刻、被砕手候之趣、誠驚目忠貞無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、十月廿四日 安東市允(常治)殿 P.299頁
  63. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)1安東家史料 (29)戸次鑑連感状写 永祿五年十月十三日大里津柳浦合戦之刻、被砕手候之趣、誠驚目忠儀無比類候、必闕所次第可顕志候、恐々謹言、十月廿八日 安東舎人允殿(連善)17頁
  64. ^ 中野、穴井 2012, pp. 18.
  65. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二四 大友宗麟書状 前十三門司表所々手仕被任所存候處、於大里敵浮合之条、遂合戦、敵数多討捕、被得大利之由、預注進候、祝着候、殊親類被官分捕、就中手負多々有之由候、寔忠儀無比類候、必銘々可賀之候、将又田北紹鉄、豊饒弾正忠軍労之段、令承知候、弥被申談、堅固之才覚冀存候、今度従最前、鑑連別而御馳走之次第、永々不可有忘却候、取鎮何樣一段賀可申候、恐々謹言 十月十七日 戸次伯耆守殿 P.344。
  66. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一〇 大友宗麟書状 今度於大里表、自身被砕手粉骨之儀無比類候、寔近年如此之忠儀珍敷候条、自他國之覚満足候、殊親類被官、或者被疵、或者分捕戦死之由、感悦無極候、弥被申進、忠貞之御覚悟頼存候、先々為祝儀、刀一腰進之候、多年秘蔵候之条、別而自愛肝要候、必帰陣之刻、以面可賀申之旨、猶松崎左京亮申含候、恐々謹言 十月廿八日 戸次伯耆守殿 P.340。
  67. ^ 『吉弘文書』永祿五年十月二十日大友宗麟書状(大友宗麟資料集)戸次鑑連・吉弘鑑理十三日大里合戦の戦功や苦労を賞す。『柳川市史』史料編V近世文書(後編)127 吉弘家文書 四 大友宗麟書状 前十三門司表所々發向之儀、堅固被申付候故、合戦被得大利之段、分捕・手負之着到銘々預注進候条、感悦無極之段、以袖判申遣候、各寒中辛労之段、至陳衆中能々相心得可被申候、何様別而可賀之候、鑑連・鑑理今度夜白御苦労之次第、必以面可申候、恐々謹言 十月廿日 吉弘左近大夫(鑑理)殿 戸次伯耆守(鑑連)殿 P.399。
  68. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.27~28
  69. ^ 『豊津町史』第四編 中世(鎌倉・室町・安土桃山時代) 第四章 戦国時代の豊前国 二 大友氏と毛利氏の衝突 松山城の攻防(『浦文書』・『萩藩閥閲録』) [2]
  70. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.26~27
  71. ^ 戸次鑑連剃髪之事
  72. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三 足利義輝御内書 當國与藝州鉾楯之儀、於今同篇之由、近此不可然候、閣是非、可和談旨遣内書候、為其聖護院門跡愚庵下向候、無相違調候樣、對義鎮急度可加意見事肝要候、猶晴光可申候也、正月廿七日 戸次伯耆守とのへ P.339。
  73. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四 大館晴光副状 貴國与藝州鉾楯之段、無盡期条、不可然旨上意候、此砌被閣是非、御和談可為肝要候間、各宿老中被相談、御請御申候樣、可有御馳走候、為其被成御内書、久我入道殿御下向候、此等之趣相心得可申由、被仰出候、恐々謹言、正月廿七日 戸次伯耆守殿 P.339。
  74. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二 聖護院道澄書状 就豊藝和平之儀 上意旨以日乗上人并連寿坊、令申候処、懇報本望候、則令披露候、何邊被差越人躰可被仰噯間、於鉾楯者不可然候由、重而御内書如此候、宜被加分別事肝要候、猶長頼・光政可申候也、六月廿八日 戸次伯耆守とのへ P.338。
  75. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.29
  76. ^ 中野、穴井 2012, pp. 16–19.
  77. ^ 『柳川史話』第一卷 人物篇(其の一)1 道雪公の片麟 P.3~4
  78. ^ 桑田 2016, pp. 71.
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  80. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 大友義鎮筑後国退治之事、下田城責堤貞元降参之事 P.217~222
  81. ^ 中野、穴井 2012, pp. 21–22.
  82. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)58 立花家旧臣文書 高野文書 二 戸次鑑連感状写 今度立花表合戦之刻、抽粉骨、分捕高名無比類候、其上与力被官中、或分捕、或被疵之衆、銘々着到令披見、感入候、取静一所可申談候、恐々謹言、四月廿七日 高野大膳亮殿 P.313頁
  83. ^ a b 『旧柳川藩志』第十八章 人物 第十三節 柳川人物小伝(三)由布雪下 P.863頁
  84. ^ 『柳川藩叢書』第一集 (九五)略伝小伝(二十)由布惟信小伝 252・254頁
  85. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 立花城度々合戦之事 P.224~225
  86. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(七)筑前寶滿山 永禄十年七月七日 P.4
  87. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.31~34
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  91. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(八)筑前瓜生野 永禄十年八月十四日 P.5
  92. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一三 大友宗麟書状 追而申候、今度之合戦別而被盡粉骨、舍弟中務少輔(鑑方)・同兵部少輔(鑑比)・刑部少輔(親繁)・隼人佐(親宗)・右京亮(親久)、其外家中之仁等、戦死之由承候、鑑連御朦氣令推察候、就中隼人佐事、此節可有同陳之由承候之条、雇かし申候之處、結句立用候、不便之儀候、于今ハ雖不入儀候、其砌頻抑留可申物をと申事候、雖然連無恙候之条、宗麟安堵難盡筆紙候、弥至彼子孫被加諫被取立候ハ、如何程も可有之之条、於于今ハ可被散愁霧候、此方氣仕之段過校量候、殊如風聞ハ、至山隈在陣之由承候、尤以肝要候、先陳通路等然々候ハねは笑止之儀候条、雖無申迄候、先陳又従当陳日田玖珠之通道輙樣才覚専候、前日如申候、人数等可入砌候間、一勢可差立哉之由申候キ、急度加勢之儀不可有油断候、此度之弓箭大綱之儀候、此節作外聞候ハねハ、永々当家之失行事候、相構なく三人之事者可有堅固事所希候、さて秋月振舞之事、無念中々不及申候、宗麟鬱憤之儀、猶以不浅候、何樣可遂本望事不可有別儀候、殊更筑後衆歴々戦死之由候、是又朦氣深重候、彼飛脚申分者、三池源十郎、田尻中務太輔事、其夜於鑑連同所心懸依感心、至彼両人鑑連着料一腰遣之由、承候、案中候、定而武具等可為大望候哉、雖不然々候、自然之時之用所と存、誘置候、若用所もやと存、打物一腰進之候、金あハひ大かたに候すると存候、御秘蔵者可為満足候、濃々雖申度候、彼飛脚差急帰遣候間、不細書候、一両日中態可差遣一人之条、其境節可申之趣、猶宗鳳可申候、恐々謹言、 九月八日 戸次伯耆守殿 P.341。
  93. ^ 『九州諸将軍記』、『筑前国続風土記』による。
  94. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.35~38
  95. ^ 中野、穴井 2012, pp. 23–24.
  96. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(九)筑前休松 永禄十年九月三日 P.5~7
  97. ^ 休松の戦い(休山茄子城合戦)戸次家中戦死者の眞相
  98. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 秋月城軍之事、休松軍之事 P.240~243
  99. ^ 吉永正春『筑前戦国史』休松の合戦 p.36~41
  100. ^ 桑田 2016, pp. 50-55、72.
  101. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(後編)119 由布(功)家文書 六 大友宗麟袖判軍忠一見状 永禄十一年七月四日立花鑑載被討果、彼城落去之砌、戸次伯耆守鑑連手之衆或分捕被疵粉骨、或戦死忠儀之次第、着到銘々加披見訖 P.354~357。
  102. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 二二 大友宗麟書状 前四立花城落去之通、預注進候、鑑連・鑑理、忠儀之段者不及申候、諸軍之粉骨、無比類候、如此之嶮難、輙挫候事、他邦之覚、外聞、不可過之候、然者彼城普請等、雖無申迄候、諸勢被申諫、早々可被取誘事、頼存候、彼山之事、於其堺者第一之儀候間、則時人数差籠、堅固可申付覚悟候、各辛労之儀、必以使節、諸軍忠貞之次第、可申遣候、先以従両人能々可被申觸候、殊怒留湯主殿助事、急速可差下候、各別而可被添心事、可為祝着之段、相心得可被申候、為御存知候、恐々謹言、 七月九日 吉弘左近大夫殿 戸次伯耆守殿 P.344。
  103. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一一 大友宗麟書状 以小野弾介・清松内蔵助、条々承候之趣、得其意、何茂調進之候、諸軍被申進、弥堅固之才覚肝要候、今度至立花被取詰候之砌、比山嶮難之条、氣仕千萬存候處、賢略之行等無油断故、無程被取崩、結句於道待、鑑載被討留、頸到来、大慶本望候、彼悪党落口等迄堅依被申付候、不抜足候之事、敵方之聞、喜悦候、如此之調、晝夜之御辛労、不及申候、猶吉岡越前入道可申候、恐々謹言、 七月廿三日 吉弘左近大夫殿 戸次伯耆守殿 P.340。
  104. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 一四 大友宗麟書状 度々如申候、今度立花城之事、別而依被励粉骨、立花鑑載其外数多被討捕、彼城輙屬案中候、寔御忠貞無比類候、此等之儀為可申、染筆候、弥堅固之才覚可為祝着候、猶大津留主税助申含候、恐々謹言、 八月七日 戸次伯耆守殿 P.341。
  105. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.42~44
  106. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一〇)筑前立花山 永禄十一年七月四日 P.7
  107. ^ 桑田和明『戦国時代の筑前国宗像氏』P.74
  108. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三一 大友宗麟軍忠一見状 永禄十一年七月廿三日、寶満之者共差下候之刻、於宇美、河内、戸次伯耆守鑑連手之衆、分捕高名之次第着到、銘々加披見畢、 P.346。
  109. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.44~45
  110. ^ 中野、穴井 2012, pp. 24–25.
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  113. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.45~47
  114. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 秋月種実降参之事 P.247
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  117. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.48~50
  118. ^ 『豊前覚書』(一)宗麟屋形樣筑後高良山まで御出張成され、肥前御発向され候次第 P.66~68
  119. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 大友宗麟攻龍造寺兩家遂調和付江上貞種義死之事 P.249~252
  120. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第九 中國勢攻立花城付大友勢後詰之事 P.252~255
  121. ^ 『福岡県史資料. 第4輯 』立花文書 [3]
  122. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一二)筑前多々良濱 永禄十二年五月十八日 P.8~9
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  124. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 三二 大友宗麟軍忠一見状 永禄十二年五月十八日、立花表於敵陣、長尾岸渥防戦之砌、戸次伯耆守鑑連親類・与力・被官、或分捕高名被疵、或戦死之着到、銘々加披見訖、 P.346~348。
  125. ^ 桑田 2016, pp. 63–66.
  126. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 筑前多々良浜接戦之事 P.257~261
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  128. ^ 中野、穴井 2012, pp. 25–26.
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  130. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 中國勢立花退陣之事 P.261~265
  131. ^ 『柳川市史』史料編V近世文書(前編)55田尻惟敏家文書 附・安東家文書 一二 戸次鑑連知行預ヶ状 近年每陳之軍忠、就中今度於九峯被砕手候趣候、驚目候、必以時分可顕志候、先々緒方庄之内五百貫預置候、可有存知候、恐々謹言、十二月十三日 安東市允(常治)殿 P.300頁
  132. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』p.37
  133. ^ a b 『筑後将士軍談』 卷之第十 高橋鑑種降参付高橋家別立之事 P.265~268
  134. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.74
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  136. ^ 『豊前覚書』(二)豊州芸州御戦ひの次第 P.74~75
  137. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.68
  138. ^ 川副 2016, pp. 193–194.
  139. ^ 『豊前覚書』(三)芸州衆御退治成され候てより筑前一国鑑連樣御守護成され候間の次第 P.78~80
  140. ^ 『筑後将士軍談』 卷之第十 戸次鑑連筑前國守護職之事 P.276~277
  141. ^ 中野、穴井 2012, pp. 30–34.
  142. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.63~64
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  144. ^ 紹運の智略「柴田川の戦い」
  145. ^ 吉永正春『筑前戦国史』柴田川の戦い p.103~106
  146. ^ a b 中野、穴井 2012, pp. 45.
  147. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.81~82
  148. ^ 『豊前覚書』(五)立花御籠城の次第 P.83
  149. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一四)筑前宇美並障子嶽之間 天正六年十二月十一~十三日 P.9~10
  150. ^ 中野 2001, pp. 6.
  151. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.83~84
  152. ^ 吉永正春『筑前戦国史』 p.106~109
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  156. ^ a b c 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85
  157. ^ a b 吉永正春『筑前戦国史』 p.109~110
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  159. ^ 『柳河戦死者名譽錄』(一五)筑前鍬摺 天正七年 三月十三日 P.10
  160. ^ a b c 『筑後将士軍談』 卷之第十二 豊後勢與秋月筑紫挑戦之事 P.317
  161. ^ 『井樓纂聞 梅岳公遺事』 p.85~86
  162. ^ a b c 安楽平落城 筑前大友五城
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    • 岡茂政 著《柳川史話》第二卷人物篇第117山崎美成の「夜談録」に《立花家旧記》から「立齋公口述次第」(「立齋公御咄之覺」)

参考文献 編集

書籍

川副義敦『戦国の肥前と龍造寺隆信』宮帯出版社、2017年。ISBN 978-4-8016-0104-8 

史料

外部リンク 編集

先代
戸次親家
豊後戸次氏当主
戸次鑑連(道雪)
次代
戸次鎮連
先代
立花鑑載
筑前立花氏当主
1570年 - 1575年
次代
立花誾千代