童 冠賢(どう かんけん)は、中華民国の学者・政治家。国共内戦期に立法院長を務めた人物である。名は啓顔だが、冠賢で一般に知られる。

童 冠賢
プロフィール
出生: 1894年5月16日光緒20年4月12日)
死去: 1981年8月7日
カナダの旗 カナダ
出身地: 直隷省宣化府宣化県
(現:河北省張家口市
職業: 学者・政治家
各種表記
繁体字 童 冠賢
簡体字 童 冠贤
拼音 Tóng Guānxián
ラテン字 T'ung Kuan-hsien
注音二式 Túng Guānshián
和名表記: どう かんけん
発音転記: トン グァンシェン
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事跡 編集

天津南開大学を卒業。日本に留学し、早稲田大学で法学士を取得した。続いてアメリカに留学し、コロンビア大学で経済学修士の学位を取得する。その後ドイツにも留学し、ベルリン大学大学院に在学した。さらにイギリスにも留学して、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)に在籍した。

1925年民国14年)に帰国し、北京大学教授となる。まもなく顧孟余に追随して広州に向かい、中国国民党に加入した。その後、北京に戻り、国民党政治委員会華北分会委員として党務工作に従事した。中山大学教授、安徽大学法学院院長、国立編訳館人文組主任、中央大学法学院院長を歴任している。

1933年(民国22年)2月、監察院監察委員に任命される。同年6月には監察院審計部常務次長に昇進した。以後も、監察院で監察委員をつとめた他、国民参政会参政員、中央大学経済系主任などを歴任した。1943年(民国32年)12月、監察院山西陝西監察区監察使に任じられている。

1946年(民国35年)11月には憲法制定(「制憲」)国民大会代表に当選した。1948年(民国37年)11月、孫科の後任として中華民国立法院院長に就任した。しかし、国共内戦の帰趨が決した1949年(民国38年)10月に辞任している。

1950年香港へ移り、崇基学院で教鞭をとった。1965年に引退し、米国のメリーランド州に移住した。

1981年8月7日、カナダで死去。享年88。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
  中華民国
先代
孫科
立法院長
1948年11月 - 1949年10月
次代
劉健群