童揮護
童揮護 (または童揮厚)[1]は、元末明初期[2]の建州女真で、清朝太祖ヌルハチの祖先にあたる (出生:元至正初, 死歿:明洪武年間[2])。「童」は漢姓で、『清實錄』など清朝史料では「佟」と表記される (普通話拼音ではどちらも「tóng」)。
元末には斡多里オドリ万戸府の万戸トゥメンを務め、[3]管鷹事を兼務[2]した。後に元朝から派遣される形で兀者ウェジ(野人女直) の鎮圧にあたった[2]が、これが後にオドリとウェジとの間の敵対関係を生じさせた。
一族 編集
直系 編集
- 妻・也吾巨:僉伊 (官名)・甫哥の娘。[3]奚関城 (現吉林省琿春市西南) において[2]揮護と婚姻し、猛哥帖木児モングティムルを出産。揮護歿後はその異母弟・包奇に再嫁し、凡察ファンチャらを出産した。[3]後、モングティムルに従って阿木河オモホイから灰扒江畔の方州 (鳳州とも) 西部の余下?地方 (現吉林省梅河口市山城鎮北山城) に移徙した。[2]
傍系 編集
脚註 編集
- ^ 童揮護と童揮厚、ともに『朝鮮王朝實錄』にみえる。
- ^ a b c d e f g 维基百科「童挥厚」より引用。典拠不詳。
- ^ a b c d e f g h i j k l “世宗二十年 (1438) 秋七月29日段13177”. 朝鮮王朝實錄. 82. 不詳
- ^ 维基百科「童挥厚」より引用。典拠不詳。尚、稻葉岩吉 (『清朝全史』) らのように、凡察と同一人物とみる向きもある。
- ^ 维基百科「童挥厚」より引用。典拠不詳。また、维基百科「童挥厚」では「……娶妻乔芳,生有二子,长童挥厚,……」(……喬芳を妻とし、二子あり、長子は揮厚、……) としているが、次子について言及なし。包奇は異母弟のため、喬芳の子ではない。
- ^ 维基百科「童挥厚」では、「於虚里」と「阿哈里」を別人物としてしている。建州衛の初代衛主「阿哈出」が『朝鮮王朝實錄』では「於虚出」と表記されるのと同じ道理と考え、ここでは「於虚里」と「阿哈里」を同一人物とした。尚、维基百科「童挥厚」には二人を別人物とした根拠は示されていない。
- ^ 维基百科「童挥厚」では、「於沙哥」と「吾沙哈」とを別人物としている。
参照 編集
史料 編集
Webサイト 編集
- 「明實錄、朝鮮王朝実録、清實錄資料庫」中央研究院歴史語言研究所 (台湾)