笑社

江戸時代後期、頼山陽が京都で活動の拠点とした文人結社

笑社(しょうしゃ)は、江戸時代後期、儒者の頼山陽が平安(京都)において活動の拠点とした文人結社の名。化政期(1804年 - 1830年)以降、平安(京都)や浪華(大阪)を中心に、文人の交遊は崎陽(長崎)・豊後(大分)・尾張名古屋)から北国街道北陸)・江戸(東京)・奥羽(東北)に至るネットワークを形成し、これにより、日本各地へ書画や煎茶の文化が拡がっていった[1]

菅井梅関 【水西荘図巻】   (文人画研究会蔵)

概要 編集

文化8年(1811年)、山陽が平安の新町通丸太町上ルに定住して[2]私塾を開いて以来、文政6年に至るまで続き、文政7年に「真社」と改名してからは、社中に「旧社」と呼ばれている[3]。木崎愛吉(号は好尚 1866年 - 1944年)は「笑社は『笑い会』と呼ばれ、同好相会して、月の例会には、各自輪番にその自宅を会場に充て、古書画・骨董を持寄って、その品評を闘わせつつあった。山陽の『笑社記』[4]には『文化十二年乙亥之秋』撰すとあり、その頃が尤も盛んな時代であったらしい」と述べている[5]

社中 編集

脚注 編集

  1. ^ 許永晝『読画稿』(文人画研究会 2015)「序―読画の前に―」参照。
  2. ^ 岡田孝男『史跡 頼山陽の書斎 山紫水明処』財団法人頼山陽旧跡保存会、1974年、8頁。
  3. ^ 『頼山陽全書』「全伝」第六期・文政6年(山陽44歳)12月21日に「笑社」の忘年会が鴨河東岸の酒楼にて開催された記事がみえるが、翌年文政7年(山陽45歳)11月、雲華(大含)の提案により、社名を「真率会」(真社)と改める記事がある。
  4. ^ 天保12年に刊行された『山陽遺稿』文集巻七にみえる原文と現代語訳は、『笑社論集』(文人画研究会 2021年)参照。
  5. ^ 『頼山陽全書』(頼山陽先生遺蹟顕彰会、1931年)「全伝」参照。

参考文献 編集

  • 『山陽遺稿』文集(天保12年〔1841年〕刊)
  • 木崎愛吉・頼成一共編『頼山陽全書』頼山陽先生遺蹟顕彰会、1931年
  • 岡田孝男『史跡 頼山陽の書斎 山紫水明処』財団法人頼山陽旧跡保存会、1974年
  • 許永晝『読画稿』文人画研究会、2015年
  • 許永晝・森田聖子・小林詔子・市川尚編『笑社論集』文人画研究会、2021年
    • 「笑社記」解説
    • 「笑社記」影印(『山陽遺稿』文集・巻七)
    • 「笑社記」(現代語訳・注)
    • 「真社約」(現代語訳・注)